二つの国策差別に翻弄された父母への想いを辿る
奄美大島生まれ、沖縄在住の奥間政則さん(58歳)。両親は元ハンセン病患者だが、世間のハンセン病への差別・偏見の根深さ故に、子どもたちにハンセン病のことは一切語らなかった。知らぬまま奥間さんはずっと父を恨み、「なんであんな男と結婚したのか」と母を責めた。ⅮⅤ…普段は温厚な父が、なぜ酒を飲み、家族にあんなにも暴力をふるったのか?
子ども時代の奥間政則さん(左) 奥間政仁さん(右・政則さんの父)
奥間さんが47歳の時、父の手記で、父が戦争中の窮状と栄養不足の中で戦後ハンセン病を発症したことを知る。
50歳の時、両親が再入園した名護市のハンセン病施設「愛楽園」資料館の学芸員辻央さんに、『ハンセン病証言集』の中の父の「匿名」の証言を見せてもらった。父はハンセン病が治って社会復帰しても、社会のハンセン病に対する差別・偏見で苦しめられた事実を初めて知る。奥間さんは号泣したという。父母は、「子どもを守るため」に一切ハンセン病のことを知らせなかったのだ。
昨夏(2023年)、奥間さんは自分の人生の謎を解く旅に出た。父の遺した手記と証言集を縁に、奄美大島~沖縄島・宮古島・石垣島~をめぐる。そんな「心の旅」にカメラは密着した。
旅はまた、国策でハンセン病患者を強制隔離し、断種・堕胎を行ってきた事実、今も根深く残る差別・偏見との対峙でもあった。
父の遺骨は今も「愛楽園」の納骨堂に眠る。死んでも故郷に帰れない辛さ、ハンセン病は過去の病気で国も過ちを認めたのだから終わり、ではない。偏見・差別は根強く残り、ハンセン病患者本人だけでなく家族も苦しみもがき続けている。
本土上陸を防ぐために沖縄を犠牲にした日本という国が、沖縄に全国の70%の米軍基地を押し付け、琉球弧の軍事化拡大という国策で、今ここにいる人々に犠牲を強いる構図は今も変わらない。
また奥間さんは、土木技術者としての経験を活かし、ドローンを活用して現場の状況の撮影や不正工事の実態を暴くため、 高江や辺野古だけではなく琉球弧の自衛隊基地の撮影も行っている。
故郷に帰れず納骨堂に眠る人々、声なき声、生まれることのできなかったあの子たちのことを想像して欲しい。ハンセン病のことでもあるが、普遍的なことであるから。
犠牲になるのが自分だったらと考えて欲しい。奥間さんがたどった道は誰にでもあり得るのだ。他人事と思って分断させられてしまい、真の敵から目を背けさせられてしまうことがないように、個人でも上映会ででも奥間さんの旅を共有できたらと願っている。
稲塚由美子(「隣る人」工房)
「ふぇみん」・2024年9月25日号・初出