


「福音と社会」Vol.338 2025年2月28日号に投稿されている『二つの国策差別に翻弄された父母への想い 奥間政則~ハンセン病差別・琉球弧の軍事化拡大~』に関する評論記事。執筆者の長坂寿久さんの許可を得て転載させていただきました。
「隣る人」工房
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■『二つの国策差別に翻弄された父母への想い 奥間政則~ハンセン病差別・琉球弧の軍事化拡大~』(『隣る人』工房制作/2024年)
■『ベン・ハー』(米・ウィリアム・ワイラー監督/1959年)
■『砂の器』(野村芳太郎監督/松竹・橋本プロ/1974年)
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本稿では、ハンセン病とその周辺を描き今なお高い評価を受けている映像作品3本をご紹介します。その前提として、ハンセン病に関する情報を持っておくことが必要だと思われますので、本誌編集部に依頼して、特別にページを割いていただきました。どうぞご了承のうえ、お付き合いください。(筆者)
日本のハンセン病対策――その黒歴史を知る
90年間にわたる“隔離政策”の異常
癩病/ハンセン病の病原菌は1873年に、ノルウェーのハンセン医師によって発見されました。その後は彼の名をとって「ハンセン病」と呼ばれるようになります。菌の発見によって、ようやく本格的な研究・治療が進展し、菌の実態が明らかとなって“最も感染力の弱い感染症”であることが解明されていきます。
日本政府が導入した『ハンセン病に関する最初の法律』は、1907(明治40)年発布の「癩予防ニ関スル件」でした。この法律制定の動機は「放浪するハンセン病患者の存在が欧米人の目に触れることを国の恥と考え、その一掃を図ろうとする」ものでした2)。癩病患者への差別と迫害は既に古くから存在していましたが、文明開化の風潮に乗った明治期以降、近代国家へ向かう中で政府の対策(国策)が問われるようになります。
人々は家族に感染者が出ると離れや隠し部屋などに匿うか、家族から追い出すなどの策を弄したため、罹患者の中には〈独りで放浪生活をする人〉が多くなりました。それに対して、為政者は“日々汚くなる放浪者の存在は国の恥だ”と考え、最初の法律で“放浪患者”を強制隔離の対象としたのです。
この法律は1931(昭和6)年に「癩予防法」と名前を変え、当時の国家主義思想に基づいて改定されました。「民族浄化」「無癩日本」を旗印に、今度は全ての患者を根こそぎ隔離して強制収容し、「新たな患者発生を絶滅しよう」という政策が推進されていきます2)。
法律が助長した差別と偏見
戦後の1953(昭和28)年、日本のハンセン病政策は一層過酷さを増します。「隔離政策は非人道的であるから撤廃すべき」という国際的な動きに逆行して、日本は強制隔離政策の強化を図り、ハンセン病感染者を“奈落の底”に蹴落とします。その状況について少々触れておきましょう。
患者は行動・住居・職業選択・学問・結婚の自由など〈ありとあらゆる人間としての権利〉を奪われていきました。強制収容や発症所住宅の消毒といった手法が、患者や家族の人権に全く配慮しないまま“見せしめ”的な形で派手に行われたのです。その“官製対策”は周囲の恐怖心を煽り、患者家族への社会的差別を決定づけました。多くの患者は、家族に差別が及ばないようにとの配慮から、強制隔離後も自らの存在をひた隠しにするようになりましたし、死んだことにされて隣近所の目から消えた患者も少なくないとされています2)。
こうしてハンセン病患者は、完治後も“社会に害毒を巻き散らす危険な存在”というレッテルを貼られ、その後死ぬまで――死んでもなお――激しい社会的差別と偏見に遭うことになりました。完治しても、実家に戻ることを親戚一同が許さず、さらには完治時たいていは高齢者となっているため、望ましい有給の仕事につくことは難しく、行く宛てがないまま療養所に住み続けざるを得ない人が多くいました。
さらに、亡くなっても遺骨の引き取り手がないため、骨壺の多くが療養所の合同墓地に納められました。かくて、ハンセン病への偏見と差別は拭い難いほど濃厚に日本社会の奥深くまで蔓延・定着し、凝り固まり続けたばかりか、いまだにその被害は続いているのです。
療養所は事実上「強制収容所」だった
罹患者が強制隔離された施設にも問題がありました。かつてはおよそ療養する環境にはなく、関係者の間では「『療養所』とは名ばかりで、『強制収容所』そのものだ」と陰口を叩かれていたものです。療養所の多くは、回りを海に囲まれた小島や人里離れた山間地、高い塀で囲まれた場所に立地して、患者の逃亡を防ぐための監視が行われていました。入所時に所持していた現金が、療養所内でしか通用しない“園内通用券”に交換させられたのも逃亡防止策の一環です。
療養所とは言いながら、制度の発足当初、医療らしい医療はほとんど与えられていませんでした。それどころか、所内での過酷な労働と劣悪な栄養状態が続いた結果、ハンセン病はむしろ悪化し、その後患者は長く後遺症に苦しむことになります。
“患者作業”と呼ばれる強制労働は、わずかな小遣銭程度の報酬に据え置かれたまま、戦後も続きました。24時間監視体制の下、所長の懲戒検束権により些細なことで懲罰房に入れられるなどの処分も多く、そのような環境の中で罹患者はさまざまな作業を強制されました。過酷かつ過重な仕事、貧しい食事、暖房のない寒さ…… 実に多くの患者さんが、こうした療養所で獄死同然に亡くなっていきました。文字どおりの“患者絶滅政策”だったのです。
政府の患者絶滅政策はさらに続きます。施設内で結婚する場合は、優生手術による断種・人工妊娠中絶手術による堕胎が条件とされました。男性患者に対する「断種」(不妊手術)は、戦前から非合法に行われていて「日本では既に1915年から始まっていた」という報告があります。戦後は、1948(昭和23)年新たに制定された「優生保護法」によって、断種が“合法的”に行われるようになりました。
この断種措置がなんと1992(平成4)年まで継続されていたのですから、驚きを禁じえません。患者や回復者たちは子どもを持ち、家庭生活を営むということすら、ごく最近まで禁じられていたのです。その基底にある論拠は、「癩の両親の子は癩になる」という非科学的な“とんでも情報”だったというのですから、呆れるほかありません。
国が「殺せ」と命じれば、敵の兵士を殺すと英雄になれます。兵隊たちはそう教育され、必死で敵を殺すため戦地に赴きました。日本では、国が殺してもいいと言えば胎児を殺してもよい時代が、ハンセン病治療の名で、長く存在してきたのです。殺し合う教育をされた兵隊たちではなく、人の命を救う医師や看護師たちがそうしたのです。「国の命令(法律)なのだから仕方がない」という“言い訳”がそのために使われてきました。国家の命令(=「国策」)というのは、人間をかくも簡単に残酷な存在へと変質させてしまいます。ハンセン病も“そういうもの”だったのです。
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