父の沈黙~「女に生まれればよかった」とだけ日記に書いた…(日本/栃木)

父はただ、

「女に生まれればよかった」
とだけ日記に書いた……

父の沈黙

稲塚由美子(「隣る人」工房)

米寿

11月12日(2010年)は、父の88歳の誕生日でした。父母のお気に入りの、栃木県足利市「ココファーム・ワイナリー」で米寿のお祝いをしました。少し風が冷たいので、還暦祝いではないけれど、赤色の毛布を羽織りながら写真を撮りました。

38度の急斜面の山を切り開いて作れられた葡萄畑を見渡せるデッキで、そこで採れた葡萄から作られたジュースやワインや採れたての野菜料理をいただきます。見上げる空が抜けるように青く、ずっと見上げていると首が痛くなります。山あいの日差しはすぐに翳る。反対側の山から木々の間を縫ってくる風と日差しを十分堪能して、「また来るよ」と言いおいて、三人で帰りました。

こころみ学園

「ココファーム・ワイナリー」のメニューは、知的ハンディを持つ人たちの自立を目指して作られた障害者支援施設「こころみ学園」の人たちの働く、葡萄畑やワイン醸造場、野菜畑の作物からできています。ココファーム・ワイナリーを併設した「こころみ学園」で働き暮らす人は、のんびりと自分にあった仕事(開墾だけでなく、草取りや、石拾いや、カラス追い)をしながら安心して歳をとっていきます。昭和30年代に開所した当時からいる85歳の方を筆頭に、こころみ学園の人たちの半分が高齢の知的障害者です。

父母のお気に入りの、というのも、平成11年に、知的障害のある兄の将来を考えて、入所施設を探すことになったのですが、その時、こころみ学園も候補にあがり、川田園長の創立の言葉が心に残ったのだといいます。

「特殊学級を卒業した子どもたちの二割は社会で仕事に就けない。彼らと一緒にここで働きながら暮らしたら楽しいだろうなって考えた」

でも、今(2010年)から11年前、同じ栃木県でも、実家からこころみ学園へは、とても行きづらかった。電車の駅が近い所でないと、兄は実家に一人で帰るのは難しかったのです。結局、栃木県野木町の障害者支援施設「ホーム宙」に入所しました。月曜から金曜まで、併設の授産施設「セルプ花」でTシャツのプリント印刷やパン、クッキーを作り、金曜の夜には実家の一人暮らしの母の元に帰るという生活を送っています。

父はまだらの認知症で、実家から車で五分ほどの特別養護老人ホーム「万葉」で暮らしています。83歳の母は、要介護3で車椅子生活の一人暮らしです。原因不明の難病による末梢神経麻痺なので、朝晩の介護ヘルパーに来てもらい、週2回は父のいる「万葉」に併設されたデイサービスに行き、リハビリに励んでいます。リハビリもなかなか効果が現れず、仕方がないと分かっていても、時々母は悲しくなります。

だから、兄が土日に帰ってくるのは、身体が思うようにならない母の手足となってくれる兄と、段取りを考える母との絶妙な二人三脚生活ということなのです。

鏡としての兄

時々二人はけんかをします。兄のやり方がまどろっこしいと、母もつい、きつい言い方になる、それにもまして、母の亡き後、兄が世間さまに可愛がってもらえなければと、母は必死に兄に「しつけ」をしようとする。兄も何回も言われると怒る。つい先日還暦を迎えた兄は、頑固に拍車がかかっている。そして兄は、東京にいる私の許に、電話をかける。

「あのさ、由美子よぉ、うちには女がいなくちゃだめなんだよ、女が。うちん中のことは男じゃだめなんだよ」

あるいは、

「女はうるさいんだよ。細かいことにいちいち。だから女はいやなんだ」

と激昂し、あげくこう締めくくる。

「お父さんはいいよなあ。お父さんがいい」

兄はとても正直である。鏡のように、父や母や周りの人間の考え方の、隠された本質を映しだす。

長男ということ

父は、戦国時代、上杉謙信が唐沢城を落とそうと攻めてきて負け、その時代に置いていった五奉行といわれる家来の末裔とかで、土塀をぐるりと張りめぐらせた旧い農家の長男として生まれた。それも、父の先代、先々代と婿養子をとった家の、やっと生まれた総領息子だった。

弟妹が四人いたが、桐生高等工業学校(現在の群馬大学)に進学させてもらえたのは、長男の父だけ。男子厨房に入るべからずで育ち、性別役割分業は当たり前だった。男は生産的で大局を司り、女は再生産に携わって、男を立てるもの。家父長制の心性をそのまま残した父は、長男に生まれた兄を「総領息子」と扱って、その心得を諭すように繰り返すのを何度も聞いた。

「男は大変なんだぞ。何があってもあわてない。じっと我慢だ」

と、父は何度なく兄に言ってきかせた。比して妹の私が生まれた時、母の退院まで、ついに父は産院に一度も顔を見せなかったという。

「女子と小人は養い難し」
「釣った魚に餌はやらない」

父は、こんなことも口にした。娘の私には温厚で優しい父に思えたが、女・子どもはものの数ではなかったのだ。

家を存続させる=跡取り息子が立派にいる。父に課せられた長男としての使命は、兄に知的障害があろうとも、それを見なかったことにしてまで果たされようとした。

兄が障害を遺す大病をした時、父は一本の注射に月給以上のお金を払って打たせ続け、東京に名医がいると聞けば、どんな無理をしても母と兄を泊まりがけで東京に出した。

だが、兄に障害が遺って以来、父は友人たちとの関わりを一切断った。

また、兄が年頃になると、縁談をまとめようとする。父はこう考えていた。

「とにかく結婚して一人前だ。一家を成すということが、世間に認められるということ」

だが、私を案内役に東京から栃木まで楽しくおしゃべりをしてきた女性が家に着き、兄に会ったとたん、顔色が変わる。ほとんど無言で女性は東京に帰っていった。

家を守る

父はここ数年、認知症が進むにつれ、銀行に連れていっても自分の名前が書けない。自分の名前が思い出せないということが増えた。銀行で、自分の口座なのにお金をおろせないという事態が続き、否応なく、娘である私と「委任契約及び任務後見契約」を結ぶことになった。

二段階に契約で、第一段階の「委任契約」では、父が自分でできる時は自分でするが、自分でできない時に、娘の私が父の代行をすることができるというものである。それでも、結婚生活60年になる母にさえ一つの不動産も譲ろうとはしない父には、苦渋の選択だったに違いない。

思えば父は、バブル全域で世間が浮かれている時にも決して甘い話に乗ろうとしなかった。土地を売るなどとんでもない、と言い続けた。

「いいか、三代相続すると身上が潰れるという税制になっているんだぞ。先祖代々の土地を守るということは大変なことなんだ」

事実、現金収入を得るため公務員になった、兼業農家の担い手の父は、耕耘機も入れ、出勤前の朝早くから、帰宅後の夜遅くまで田んぼに出て黙々と働いた。だがその先に待っていたものはー昭和43年以降、米は、減反や自由化政策でどんどん作れなくなり、土地は荒れるばかりになった。農業を継ぐ者もなく、父の守ってきたものは、ことごとく失われていく。

さて、まだらの認知症は意志がはっきり示せる場合と、まったく分からなくなる状態とが交互に起こるので、契約には、父の意思が確認できる状態になるまで公証役場で待たせてもらった。同時に母と兄も同じ契約をするので、父母兄と私は揃って、公証役場に赴いた。学生であった私の長男も、介助を名目に同席して一部始終を見守った。

やっと契約となった時、父に、公証人が、

「稲塚由美子さんと、かかる契約を結ぶことで、間違いありませんね」

と訊くのに対し、間髪を入れずこう答えた。

「本来ならば、この家内がするべきものだが」

母は大いに怒った。

「家内がするべきって、まだ私に世話させようとするの」と。

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