父の沈黙~「女に生まれればよかった」とだけ日記に書いた…(日本/栃木)

農業・米

「米があれば、どうにか生きていける」

父はよくそう言っていた。

婿に入った祖父は早くに亡くなり、切望し続けた、財産を自分名義にすること、が叶わなかった。そのことを聞いて「そんな、かわいそう」と私が言うと、父は、

「違う。あの頃は、農家の婿に入るということは大した出世だったんだぞ」

米を食べられる。それがどれだけの恩恵だったか。旧民法下では、長男のみが財産を相続したので、もともと農家の次男だった祖父は「農家の婿」という出世頭だったのだ。そして父は、昭和21年に旧民法下で、長男として家督相続をしている。

母の言うには、戦後、大叔母は一家5人が満州から引き上げて、家の倉に一時住んだ。あまりの食料不足で、大叔母は娘を一人養女に出したという。身内でも食べ物のことでは嫌なことがたくさんあった。

一度だけ、軍隊という言葉を父が口にしたように思う。

「軍隊じゃ、そんな甘いことは言っていられないんだぞ。連帯責任で地べたに食い物をぶちまけられるんだ」

私たち兄妹は、食べ物を残さないように。好き嫌いがないように、各々仕切りのある一枚皿に、あらかじめおかずが分けられて育った。

父が、母の不在時にカレーを作ってくれたことがある。玉ねぎの代わりに長ネギを入れ(家では長ネギを作っていたのでたくさん長ネギがあった)、最後に卵を何個も割りいれてかき回した代物であった。あんまり美味しいものじゃなかったなあ。そう言うと、

「贅沢な。卵がどれだけ栄養があると思うんだ」と怒られた。父の、長ネギ卵のカレーライス。

消えた日記

昭和17年10月1日、父が招集されて水戸第103連隊に配属され、内地で敗戦になったこと以外なに一つ語らず「女に生まれればよかった」と日記に記してあったことを、母から聞かされていた。それから家の中をずいぶん探したが、日記はついに見つからなかった。

母によれば、昭和17年、入隊してすぐの日からの日記だったとか。捨てたか、燃やされたか、そういえば、父は家のゴミを屋敷内でよく燃やしていたなあと、その一心な横顔を思う。

だが、つい先日、母から電話があった。物置の奥で、箱に入った昭和16年の、父の日記が見つかったという。

手伝いを頼んで物置の大掃除をしており、普段は物置に入らない車椅子の母がふと思い立って入り何気なく見た奥の奥に、それはあった。

・7歳で亡くした私の姉の「会葬御礼」一枚
・昭和17年9月発行 栃木県安蘇郡田沼町第二國民学校 昭和9年度卒業生同窓會報『大東亜』一冊。
・『昭和16年 日記』一冊

初めて見る、父の20歳の時の青いインクの筆跡。昭和16年1月1日の日付。

「昭和15年2600年も終わりを告げ此処に2601年となった。日独伊三國同盟成ると雖も、安心すべき時に有らず……」

こうして、始まる父の昭和16年は、桐生高工に通いながら、12月8日真珠湾攻撃の日をこう記す。

「西桐生駅から朝7時20分頃學校に行かうとして出かけたならば、『大本営陸海軍部発表・帝国は本日より太平洋に於いて戦争状態に入れり』と発表した。遂に来るべきものが来た…」

そして直前のページには、ヘルマン・ヘッセの『放浪と懐郷』を読んでの感想がある。

勝手に読んでいいものか。いや、簡単には読めない。ただ、発見された日記は、昭和17年9月末、入隊前夜までが記されていた。

日記とともに「昭和17年9月発行 栃木県安蘇郡田沼町第二國民學校 昭和9年度卒業生同窓會報『大東亜』第一號」があった。父の入隊前月に発行している。冒頭にある父の創刊の挨拶だけを転載する。

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創刊の挨拶

篠崎孝一郎 ※1

春去り夏来り、思い出の小学校を卒業してから既に十年近く過ぎました。真に烏兎怱々の感無きを得ないのであります。

七月に楽しかった小学校を語り将来の抱負を談ずる同窓会を愉快に開きましょう。

さて私達が卒業してから、世界の形勢は急激に変化致しました。昭和十二年に支那事変が起り次いで昭和十六年大東亜戦争が勃発してより既に六ケ月に垂々としている。此所に支那事変は、米英を向ふに廻しての世界戦争の一部である事が明瞭になりました。

臥薪嘗胆二十年の我が日本軍は、一度蹶然として立つや、内に秘めた底力を発揮し一夜にして世界に誇ったハワイ要塞を、無用の長物と化せしめ、世界を唖然たらしめたのである。

幸にも私達は此の時に人と成り。決然武器をとりユニオンジャックの翻る所太陽の没する所無しと豪語していた海賊の国、英帝国とその先棒をかつぐ米国の息の根を止める大使命を有するのであります。

同窓生諸賢は既に成年に達し、今や或いは出でて国家の干城となり或いは内にあって銃後の推進力となります。

二十年間鍛えた確固たる精神は必ず此の大使命を達成するでありましょう。

我等の輝しき首途に力のこもった同窓会を開くと共に、永久の記念となるべき同窓会誌『大東亜』を作りました。諸賢の熱烈なる援助のお陰で立派な会誌が出来上がりました。会員諸賢總親和を以て一路邁進しましょう。

※1:篠崎孝一郎氏は、稲塚由美子の父親

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『大東亜』表紙
『大東亜』目次
『大東亜』:創刊の挨拶・02
『大東亜』創刊の挨拶・01

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