母の昭和史~「どうして何も気がつかずにいたんだろう。 それが悔しい。だけどね…」(日本/栃木)

母は言う。

どうして何も気がつかずにいたんだろう。
それが悔しい。だけどね…

母の昭和史

稲塚由美子(「隣る人」工房)

ふ~、今年(2010年)の夏はことのほか暑かった。今、日本軍「慰安婦」・性暴力に関する国会図書館での資料調査第3回の、自分の分担が終わったところです。とても正直な、あっけらかんとした記述であることで、女性・被支配者はモノでしかなかった心象が、驚くほど鮮明に浮かび上がります。悪気があってのものでなく、それだけ血脈にしみこんで自覚しがたい、日常とひと繋がりの心象だったのだと思い至ります。

お墓参り

今年も、栃木の実家への旧盆帰省をしました。この炎天下、車椅子の母をお墓までお参りさせるのに、熱中症は大丈夫か、とたいそう心配しました。医師である弟は、今年の夏は異常だから、年寄りを外に連れ出すのは反対だというのだけれど、母は死者の霊がお墓にいると思っているので、えいやっと連れ出してしまいました。

昭和2年生まれ、現在83歳の母は、要介護3で車椅子生活の一人暮らしです。まだら認知症の父の介護ストレスからか、更年期以降の女性ホルモンの低下による体質変化からか、原因不明の難病による末梢神経麻痺で、手足の感覚がほとんどありません。車椅子生活になってから、介護保険で届かないところをどうするかで、東京にいる娘の私がコーディネーターにならないと回っていかず、一日に何度も電話でやり取りをし、何かあれば車で飛んでいきます。車椅子なので、旅をするにしても母娘一緒が多く、それだけ長く母と向き合って話をすることができるようになりました。これはある意味では恩恵でした。母は、手足は麻痺していても頭は冴えていて、これはこれで母の苦しみの種になったのですが、それでも受容を経て、とても正直に真摯に娘に返してくれるようになった、という感じがします。それまでは、娘にとって、いいも悪いも「グレートマザー」そのものだったのですから。

英霊死と犬死に

母の兄がサイパンで戦史したとされる敗戦後、祖父が栃木での天皇の行幸の列に「うちの大事な跡取り息子を返せ」と叫んで石を投げようとして止められたのだという。そう語る、母の口から。次の言葉が続く。「だから、靖國神社の例大祭とみたままつりには欠かさず参拝してきたんだよ。あそこにはお兄ちゃんの御魂が祀ってあるのだから」と。

後列左:母  前列中央:祖母

私は思わず問い返してしまう。「なんで? お兄ちゃんの供養をするというのなら、お墓参りをするとか、仏壇に手を合わせるとか、どうしてもというなら、日露戦争から大東亜戦争までと書かれた戦没者供養塔が菩提寺にあるじゃない。そこにお参りするのじゃだめなの? 私なら心の中でお兄ちゃんのことを思い出すとか、子どもや孫に話して聞かせるとかすると思うのだけどな」

「だってそれじゃあ、ただの犬死にじゃない」と母。

母にとって、靖國神社は兄を顕彰してくれる有難い神社なのだ。自分の兄の死を意味あるものとしたい母の内面には、皮肉なことに、祖父が石を投げようとした天皇=「お国」はまだ立派に存在している。母は言い募る。お墓参りも靖國神社参拝も死者を悼むのは同じだと。いや、追悼は…と言おうとすると、母は「わかったわかった。私が行きたいのだから、いいでしょ」と、たいていは話はそれでおしまいになる。うむ、手ごわい。

ねぇ、戦争をするやつはバカだって、おじさん、昭和17年の招集前に言ってたんだよね。確かに聞いたって、お母さん、言ってたじゃない。その言葉を受け止めるなら、ほんとはどうしたらいいと思う? 母ともっとその先を話してみたいのです。

良いことも悪いことも、あるがままに検証し、あるがままに評価されなければならない。だが、それを阻んできたもの、素直に向かい合えなくさせているものとは何だったのだろう。母は、敗戦から65年の間、いや、生まれてから今まで、何を考え、どんな時間を過ごしたのだろうか。

母を語る

母は昭和2年、栃木県安蘇郡田沼町大字田沼の農家の長女として生まれた。田沼には商売の神様といわれる稲荷神社があって、年に一度の初午祭りには屋台や人の出が大層にぎやかで、門前町のはずれにある農家の母の生家でも、祭りにはにわか茶店となり、おだんごを作って売ったのだそうだ。近在では新しいものの考え方をする家だと言われていた。

昭和9年に田沼町立尋常小学校に通い始め、昭和15年には栃木県立佐野高等女学校に入学する。自転車でさっそうと通う母の姿は皆の憧れだったと、母の妹の一人から聞いた。それでも、はじめ祖父は母の女学校入学などとんでもないと言って反対した。「女に学などつけると、生意気になって嫁にいかなくなるから」という理由だった。当時は、頭にいい女はみな共産党になる、と信じられていたという。「アカ」は田舎で生きていけないことを意味した。祖父を説得してくれたのが、戦死した母の兄だった。「これからは女も学をつけなきゃだめだ」と。

のちに母とよく話すことになるのだが、この時の女学校とは、あからさまに良妻賢母養成学校だった。先の戦争で自決する将校の遺言で、「母になる女性を賢くするために教育を受けさせてくれ」という一文を読んだことがある。あくまでも、お国のための立派な赤子を育てるための「賢い」母が必要だということね、というと、母は「そうだったのねぇ、今思えば」とため息をつく。

昭和19年3月に女学校を卒業するが、東京の学校に行って女医になりたいという密かな夢も、東京になど出してもらえる時節ではなく、同年四月から同じ安蘇郡の新合村立国民小学校の助教になり、昭和20年4月に試験を受けて訓導になり、3年間担任を持ち、結婚準備のため昭和23年3月に退職した。下に弟妹が三人いたため、「後がつかえるから、お前が片付かないと」と事あるごとに言われていたという。

そして父を世話されることになるのだが、その仲人となる親戚のおじさんは大酒飲みで、毎晩来ては一升瓶を空けていくので、これでは身上が潰れる、たまらんと、祖父はとうとう勝手に承諾してしまった。母が「どうしても気が乗らない」と言っても、親の言う事が聞けんのか、と修羅場になり、祖母が止めに入ったという。縁談としては、母が女学校を出、父が安蘇郡で二人しかいない桐生高校(現在の群馬大学)卒業生だったので、傍目では良縁とみなされた。

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