母の昭和史~「どうして何も気がつかずにいたんだろう。 それが悔しい。だけどね…」(日本/栃木)

いざ、結婚生活

結婚式

さて、昭和24年12月に結婚するが、婚家は、戦国時代、上杉謙信が唐沢城を落とそうと攻めてきて負け、その時に置いていった五奉行といわれる家来の末裔とかで、土塀をぐるりと張りめぐらせた旧い農家だった。栃木県安蘇郡田沼町大字新吉水にあった。父は長男で、未婚の弟妹が4人いた。箱膳で食事をするから、食べ終わったらお湯か水で中まできれいにしてそれを飲んでまた仕舞うのがいやでねえ、と母は言った。

蔵があって敷地の中では牛や鶏を飼っていたし、よそから来た母への嫁いびりも当然のようにあった。大家族の風呂は土間の脇にあり、嫁は一番最後に4~50cm残っているかいないかの、黒々として冷めた残り湯に音を立てないように身体を沈めたのだという。洗い物はすべて戸外の井戸。母は、長男を幼い頃大病させて障害を遺し、長女を七歳の時に病気で亡くしている。

その時、小姑に投げつけられた言葉「そんなガキ、死んでもちっとも悲しくねえよ」。それと、父の「だけど、(稼ぎ手の)オレが死ぬのとどっちがよかったんだ」という言葉で、母は電車に飛び込んで死のうとしたが、抱いていた乳飲み子がわーっと泣いたので引き返したという。「今思えば、お父さんが死んだら、家族がたちまち困ったのは判るけど、それでも、どうしても許せなかった」と母は言う。

篠崎:稲塚由美子の旧姓

子育て時代

父は結婚後すぐ県庁に就職して地方公務員となり、宇都宮まで片道2時間の通勤時間をかけ、そのうえ兼業農家を続けた。母は、田植えや稲刈りの時期に、田植えを手伝う早乙女や男手を頼みに奔走した。その時、菊沢という部落に女一人で頼みに行くのは恐ろしかったけど、それでもやらなくてはならなかったという。

部落のことをカボやヨツと呼び、「押してくるから怖い」と声をひそめて話すのが通例だった。川べりの低い土地にしか住めず、川の水があふれると、部落の人たちがまっさきに家屋を失った。私や弟の、何も知らないままの、小学校での部落の友人との行き来を、母はことさら温かく見守っていたように感じたが、後に聞いたところによると、婚姻については別で、娘の私の結婚でも密かに調べたのだそうだ。

今になれば、「集団で押していかなければ、生きていかれなかったのだねえ」と母は言う。母には必要な情報は届かず、情報があっても、その情報の意味を探る、疑ってみる、操作された情報であることを看破するなど、想像すらできなかった。

昭和32年11月篠崎宅玄関前にて:稲塚由美子

家父長制と性別役割分業

子育てが終わりかけた40代後半に、母は東京に東洋医学を学びに通った。母が、温厚だとはいえ、長男の跡とり息子として家や社会に育てられ、骨の髄まで家父長制・「男子たるもの」が染み付いた父に激しく食ってかかるようになったのは、それからだった。女性・嫁であることで虐げられてきたことに初めて気づいたのだ。父は「何が不満だ。好きなことをさせてやってるじゃないか」というのに対し、「その、させてやってる、が嫌」と明言した。父の所有物でしかない存在を初めて自覚する。

東洋鍼灸師の国家試験に合格した母は、自宅脇で治療院を開いた。そして母は、物量至上の体制、欲望を充足させる社会となった昭和後期の大半を、その豊かさに疑問を抱かず、それを十分享受しながら、その一方で父との関係を問い直すことに費やした。それは、自分は何者であるか、自分はなぜ生きるか、を考え始めることでもあった。

治療院には、バーのホステスとして雇われたはずが、性暴力を受け続ける女性が通ってきた。お金がないから逃げることもできないというその女性のぼろぼろの身体に触れて、ただひたすら痛みをとってやることしか、母にはできなかった。これが娘だったらと思うと、男が憎い、男はいやだと、心底思ったという。それは、男性原理で動いている今の社会そのものを射抜いた一瞬だったのだと、娘の私は母に言うのだけれど。

矛盾する内面と葛藤

だが、母は既に自らの血肉となっている抜きがたい規範意識が無意識に出てしまう現実に、多々直面することになる。

父が倒れて筋肉がまったく動かなくなったことがある。娘の私が、大学生の息子と娘を連れて駆けつけ、息子に父の下の世話を頼んだら、母が血相を変えて、「長男にそんなことさせるなんて」というのだ。男、ましてや長男にそんなことをさせたら出世しなくなると言い募る。孫娘には何も言わずにさせているよね、と今では笑い話だが、母も無意識に言葉が出たという。あれだけ父に人間扱いされないことを抗議していたのにね。

また、母に対して小生意気に異論を唱えると、何度となく、こう返されたものだ。「親を批判させるために、娘を四年制の大学にやったんじゃない」もしくは、「まだ反抗するのか!」だった。娘とは、従順で心やさしい、ケアする存在でなければならないのだ。自立しなさい、と東京の大学に出してくれた母だが、実は娘がアカになったらどうしよう、と夜も眠れず心配したらしい。

男らしさ、女らしさと貞淑さは大事だと思っているし、ヤマト民族の誇りは…とつい口にしてしまうこともある。歴史事実を単純化して、つい民族・国家主義という感情に訴えられると、つい支持してしまう母に、娘の私はびっくりさせられることもたくさんあった。

見えないものに目を向ける

さて、母、73歳の時自宅に、栃木県で初めて「宅老所」を開設した。土地・家屋が当然父の所有だったので、所長は父の名前だが、アイデアや実質的な運営は母だった。

「血縁の子ども、たとえば息子夫婦と同居する老人の孤独が、哀しい」と言う。たとえば夕飯を一緒に食べる。孫たちのペースは老人のペースに比べて速い。言葉も超スピード。老人は耳が遠くなってくる。すると、老人は一家団欒の場にいながら、蚊帳の外になる。挙句の果てに、おばあちゃん、疲れているんじゃない、部屋に帰って休んだら、とくる。部屋にはご丁寧にテレビがある。一人でテレビを見る。壁向こうのリビングではきゃはは、と楽しそうな親子の笑い声が響いている。一見、子ども夫婦と同居していいねえ、とうらやましがられる話だけど、それは違うのだ。だから十分に年寄りが話したいだけ話せる居場所を作りたい。母は、こう言って、宅老所「悠々」を作った。

他者の存在を発見する

母は、兄の戦死、嫁いびりや部落差別、障害者差別、女性差別、性暴力、老人の孤独を体験するたびに、人間の人間に対する不正、暴力的支配や抑圧に対する憤りというものを身体で感じていたのだと思う。人を支配下に置こうとする心根や差別への批判。母は判らないながらに、少しずつ世に向かい、いろいろ思っていたのだ。それは小さな芽ではあったが、普遍的な「人権」意識に繋がるものだった。

だが、そうだといって、誰がまともに耳を傾けて聴き、応えてくれただろうか。世界の片隅の秘められた内面を誰が知ろうか。応える者は誰一人としていないまま、つまり議論もできず、もやもやしたまま母の内部に隠されて、やがて埃に埋もれてしまう。

母は言う。どうして気がつかずにいたんだろう。それが悔しい。だけどね、耳を傾ける者がいて、語り合う者がいて、時には白熱した議論にもなって、そうしたら見えないものが見えてくる。そんな気がする、と。

娘の私はにんまりする。これでいい。あまりに素朴な「正論」といわれようと、まず隣に立つ者の声に耳を傾けるのだ。そして豊富な文献調査による時代の俯瞰図を重ねていけばいい。やがて人々は、心の中に息づく差別や偏見をじっと見据え、そして自分と他者とを発見する。

そうなるといいなあと願い、小生意気な娘は、今日も手ごわい母と話をします。

稲塚由美子 (「隣る人」工房)

          同右:02

2010年9月/日本の戦争責任資料センター
Let’s No.68初出:01