不朽の3作品を通して考える「ハンセン病とは何だったのか」~「国策としての差別」に翻弄された当事者の姿が問う日本人の理念(「福音と社会」Vol.338 / 2025年2月28日 号からの転載 ・文 / 長坂寿久)

奥間さんが沖縄でなく奄美大島で生まれた事情

「奄美 和光園」でのインタビューが明かす秘史

奥間さんのドキュメンタリーDVDで圧巻の一つは、沖縄の人である父親がなぜ、奄美大島で結婚し、そこで奥間政則さんを産むことになったのか、という謎が解かれるくだりです。奥間さんは自分が生まれた奄美大島の療養施設を訪ね、その謎を自ら明らかにしています。

その奄美大島にある療養施設「奄美 和光園」は、カトリック修道会の修道院が運営する施設でした。政則さんの誕生当時赴任していた司祭の名はパトリック神父。施設の事務長や医師、看護師らはいずれも福音宣教に携わる人々でした。

政則さんはここを尋ねたわけですが、彼の「幼少期」を知っているシスター・ボノーザとの政則さんの対話では、ボノーザ修道者の人柄が前面に出てきて何とも感動的。観ていて心臓の鼓動が早くなります。

当時、パトリック神父は日本政府の政策に反対して、この施設で出産を受け入れていました。神父は「男と女が出会えば愛が芽生えるのは当然。それは神の摂理だ。それを殺すことは人間にはできない。だから産みなさい。出産は国の問題ではなく、神の問題だ」「私が責任をもって育てる」と言い、園の全員がそれをサポートしていたのです。

幼少期の奥間政則さん。「天使園」にて2歳までシスターに育てられた。(左)

「奄美和光園」旧宿舎前に立つ奥間政則さん / 2023年7月撮影(右)

政則さんの質問に答えてシスターが話すことを筆者流に解釈すると、日本政府の政策に(あらが)って出産を可能にしていた仕組みとは、次のようなもののようです(筆者の勝手な解釈であることをお断わりしておきます)。

パトリック神父はこの施設の職員の肩書を持っていません。当該地域のカトリック小教区の司祭でした(つまりこの国立療養施設とは関係ない人なので、処罰したり圧力をかけたりする対象にはなりません)。

赤ちゃんを母胎から取り上げる医師・大西先生は、町の開業医として、患者に無料で医療行為を行うなどで、日頃から町の人たちに慕われていました。この大西医師と、看護資格をもつ大西夫人が、妊婦から赤ちゃんを取り出す役割をします。妊婦は概ね出産1週間前から大西医院で過ごし、誕生後は、赤ちゃん時代の2歳までを修道院が預かりシスターたちが育てる流れ。満2歳になったら「白百合の寮」という寮施設へ移し、そこで育てられる仕組みでした。その間、親の家族と修道院の運営する施設とが密接に連携を保ちます。赤ちゃんはこの仕組みに守られて育ち、学び、成長していったのです。奥間政則さんも「ここでシスターたちに抱かれ、可愛がられた記憶がはっきり残っている」と語ります。

罹患者の子を殺した政府、救ったカトリック施設

日本のハンセン病療養所の中には、キリスト教系の諸組織・団体が運営する施設が、かなり多くありました。「奄美 和光園」も典型的なカトリック系施設の一つですが、恐らく奄美大島の和光園のみならず、そうしたキリスト教系の施設では〈出産を行う(断種や堕胎を行わない)施設運営〉を工夫し、それが当局からの圧力や嫌がらせによって潰されることなく、存在し得た時代があったのだろうと思われます。

『しっかりと家族を作ろう』という強く決意していた奥間さんの父親は、そのことを知っていて、それゆえに沖縄ではなく奄美大島まで行って和光園に入ったのだろう――と筆者は思ったのですが、事実は大きく異なり、30代だった父親はたまたま本土から客船で沖縄へ帰る途中、海上の寒さに堪えられず奄美大島で下船し、しばし休養するため和光園に寄ったのだそう。当の父親が、文章にそう書き残しているとのことです。

それでも、こうした仕組みを作り上げていた和光園での居心地は格別によかったと見え、母親となる人と出会い子どもを作ることができることに人生を賭けたのだと筆者は推察します。

ともあれ、こうした事情を背景に、奥間政則さんは奄美和光園で誕生しました。両親が「家族を作りたい」という強い信念を持ち、父親は「そのため奄美に留まる」と決意したのです。その父親の決意がなければ、奥間政則さんはこの世に誕生していなかったに違いありません。政則さん自身、シスターとの対話にきっと強い衝撃と感動を受けたに違いありません。奥間さんが訪ねた修道院の現在のケア対象は、高齢者に変わっているようですが、その「神のご計画への従順な姿勢は、今なお健在だということが、DVDを通して、観る者に伝わり、強く胸を打つのです。

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