不朽の3作品を通して考える「ハンセン病とは何だったのか」~「国策としての差別」に翻弄された当事者の姿が問う日本人の理念(「福音と社会」Vol.338 / 2025年2月28日 号からの転載 ・文 / 長坂寿久)

国際常識〈強制隔離は人権無視〉に逆行した日本の狙いと思惑

特効薬の登場をよそに法で隔離を強制した異常

第二次世界大戦中の1943年、米国はハンセン病治療の特効薬「プロミン」の生成に成功します。しかしブロミン1剤では患者の体内に耐性化が起こるので、2~3剤同時服用による「多剤併用療法(MDT)」がさらに開発され、ハンセン病は〈完治する病気〉となりました。

しかも明治時代から既に、「ハンセン病は最も感染力の弱い感染症」であることが分かっていたのです。1907年に初めて「癩予防法」を導入した時点で、当時の帝国議会貴族院での政府委員の答弁がそのことを認めていたという証言もあります。

ちなみに、日本が患者の隔離政策を導入した1907(明治40)年から、撤廃した1996(平成8)年までの90年間に、療養所の職員の中から1人のハンセン病患者も出ていない事実からも、この病気の感染力・発病力がいかに弱いかが分かります2)。ほとんどの人は自然の免疫を持っており、それによって多くの罹患者が治っていたのです。

また、完治薬の開発のみならず、特に戦後には、衛生状態の改善と生活水準の向上によって発生率が大幅に低下し、やがて日本でも発症者はいなくなりました。ハンセン病回復者や治療中の患者からさえも、感染する可能性はなくなっていたのです。

敗戦から6年後の1953(昭和28)年、日本政府は、強制隔離政策を新憲法下で永続・固定化する狙いの下に、新たな「らい予防法」を制定しました。これは日本の指導層が固持した“戦前の暗部”を、戦後にそのまま持ち込み固定化させる、当時のハンセン病関係者にとっては信じ難い「強制隔離強化」を図る、新たな法律の導入でした。当時の日本政府と政治家は、厚生省通達や首相答弁で「この新しい『らい予防法』は新憲法に違反しない」と言明し続けました。

このときハンセン病関係者たちは一致団結して、この法律の継続に強く反対しました。〈ハンセン病は皆が思い描いているような汚らしいものでも、不治の病でも、伝染性の強いものでも、強制隔離を必要とするものでもない〉ことを、ハンセン病患者自身や全治した回復者たちは身をもって証しており、治療に関わった療養施設の人たちや医師・看護師を含む関係者らもまた、新法の不当性を熟知していたからです。彼らは団体を立ち上げ、ネットワークを創って新法制定反対の声を上げました。

国連憲章から日本国憲法までが保障する「人権」、どこ吹く風?!

1953年の「らい予防法」改定案は誰が見ても時代遅れのものであったことは――反対運動に与するかどうかを問わず――明らかでした。それから10年後の60年代前半、大学生時代の筆者が前述の東京・多磨全生園を訪問し、ハンセン病についてインタビューしたとき、出会った関係者の全員が、この法律の導入に反対し怒りを隠しませんでした。

当時、医療的動向としては既に、医薬品の開発と診療など医療システムが進展しており、ハンセン病に感染しても完治する時代となっていました。戦後すぐに日本でも「プロミン」の治験が開始され、48年には日本らい学会でプロミンの「治らい効果」か確認されています。「したがって、隔離療養させる必要は全くない」という医学的知見が、この頃には一層明確になっていたのです。

国際的にはWHO(国際保健機構)の「らい専門委員会」開催(52年)はじめ、「らい患者の救済と社会復帰のための会議」と題される多くの国際会議が世界各地で開かれ、その合意として『ローマ宣言』(55年)が採択された結果、〈隔離方式は人権に強く反するものである〉という国際的な認識が共有されていきました。

それらの会同には日本からも医師・研究者・罹患経験者などが参加し、報道機関によってそうした世界の動きは積極的に紹介されていました。国際的にも国内でも“強制隔離”という非人権的制度への国際的批判が盛り上がった時期でした。

加えて、1945年に策定された国連憲章の第1条に「人種、性、言語または宗教による差別なく、すべての者のために『人権』及び『基本的自由』を尊重するよう助長・奨励することについて、国際協力を達成すること」と規定されたことが、日本政府の非人道的制度維持への批判を増幅しました。参考までに付言すれば、48年に採択された「世界人権宣言」の第1条にも「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と規定されています。

周知のように、これらの国際的な動向を背景として生まれたわが国の最高法規「日本国憲法」(1946年制定)の中でも、「基本的人権の永久不可侵、個人の尊重、幸福追求権、法の下の平等、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と宣言されています。

こうした時代の流れに沿って、国内外で「『らい予防法』反対」の激しい動きが起きますが、政府はこれを押し切り、依怙地になって“国策”を強行したのです。すなわち、1948(昭和23)年に導入され96(平成8)年まで存在した「優性保護法」を根拠として〈ハンセン病者に断種と堕胎を事実上強制する制度〉を改めて導入し、癩病のない県であることを競うキャンペーンを行うなど、“ハンセン病の恐怖”を全国民の間に定着させる目論見の広報情報を垂れ流し続けました。

こうした日本政府の一連の政策は、ハンセン病患者を“危険な存在”と捉え、患者を社会から排除することによって社会を守ろうとする、誤った社会防衛思想に基づくものでした。にもかかわらずこのような政策が、人間の尊厳を宣言した日本国憲法や日米安全保障条約が誕生した裏で、執拗に(うごめ)いていたのです

無慈悲な沖縄でのハンセン病の増大

政府の「“危険”宣伝」にもかかわらず、戦後、ハンセン病者数は日本でも急速に低下していきました。薬の開発と共に、衛生と栄養状況の大幅な改善が上げられます。しかしそうした改善傾向の中にあっても、特に沖縄では、ハンセン病者の数が大きく減少することはなかった、と言われています。

終戦間際に日本の軍部が、連合国側による本土攻撃を遠ざけるため沖縄を“防波堤”として利用したため、沖縄の島々は米軍の徹底的な攻撃に遭いました。日本軍と島民の徹底的な抵抗――日本軍が島民を守らず前線に向かわせた“作戦”はよく知られています――によって沖縄は焦土と化し、自然も農地も壊滅的に破壊されてしまいました。

沖縄の人々に食料を供給してくれてきた自然の恵み(畑や野草や果物等々)の破壊、その結果現地民の間に生じた深刻な栄養失調と体力の低下により、戦後の沖縄でハンセン病禍が広がってしまったことは、DVD『…父母への思い』の主役・奥間政則さんの父親が19歳でハンセン病に罹患したことでも分かります。終戦後の沖縄における生活環境が、本土に比べていかに過酷であったか―― もし沖縄が〈日本の敗戦を遅らせるための人身御供〉とされていなければ、そしてもし沖縄の自然と農地が〈終戦間際に連合軍の砲弾によってかくも手ひどく崩壊〉することがなかったならば、奥間政則さんのご両親は、ハンセン病にはならなかったに違いないのです。

最も広範、かつ長期に及んだ〈社会不正義

ここで、学生時代に直面した〈私の不正義〉について、もう一度書かせてください。前述したように1950~60年代には既に、ハンセン病は「感染の恐れがどの疾病よも小さい病気」「完治する医薬品と治療法がすでに確立している病気」「それゆえ、隔離政策を取ることの必要性がないことが国際的に証明され明確であった病気」であるという認識は国内で広く共有されていました。世界的に見ても、先進各国が「隔離政策は時代遅れ」と判断し、先を競って撤廃してきていたのです。

にもかかわらず日本では、その方向へ舵を切ることができませんでした。当時の政治指導者や旧習墨守型の官僚、出世志向の強い医学専門家、そして最新情報を遮断されていた市民たち…… 誰にも根本的な意識改革ができなかったのです。筆者自身、『日本という国はそういう奇妙な国らしい』と思い続けてきました。

「らい予防法」は1956年の制定以降、43年間も日本人の心情を支配し君臨してきました。撤廃されたのは1996年。ハンセン病に関する最初の法律導入が前述のように1907(明治40)年ですから、それから実に90年間、弱者を一層(いじ)めることになる「国策」が持続されてきたのです。

筆者はかつて、「ハンセン病患者・回復者が何世紀にもわたって背負ってきた『偏見』や『差別』は、特定グループが(こうむ)った〈最も広範かつ長期に及んだ社会不正義〉である」というフレーズに出合ったことがあります。1996年、関連法の撤廃にあたり、政府はなぜ患者や回復者に謝罪しなかったのか、なぜ国家賠償措置について明確に触れなかったのか―― それらの措置がないがしろにされている現状が、「日本には人権思想が不在なのだ」という批判につながっているのは当然だと思われます。そしてその批判は、長年口をつぐんでいた私自身の不正義をも告発する指摘であると(わきま)えざるを得ません。

ハンセン病問題は終わっていない

1998(平成10)年、ハンセン病回復者が「『らい予防法』は日本国憲法に違反する」として、国家賠償を求める裁判(国家賠償請求訴訟)を起こし、2001(平成13)年5月11日に、同訴訟の審理に当たった熊本地裁は、原告の訴えを認める判決を下しました。国は控訴を断念し、この判決が確定しました。「国による人権侵害」という司法判断がやっとやっと確定した点は、ハンセン病問題の大きな特徴です。

2008(平成20)年、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が成立しました。通称「ハンセン病問題基本法」と呼ばれるこの法律はその前文で、「ハンセン病の患者であった者等が、地域社会から孤立することなく、良好かつ平穏な生活を営むことができるようにする」「偏見と差別のない社会の実現等に取り組む必要がある」と指摘し、「ハンセン病の患者であった者等の福祉の増進、名誉の回復等のための措置を通して、ハンセン病問題の解決を図る」と謳っています。

国の間違ったハンセン病対策と、それによって形成された社会の偏見・差別によって被害を受けたのは、患者・回復者だけではありません。その家族たちも大きな被害を受けてきました。そのような経験を共有する〈患者を肉親に持つ人たち〉が2016(平成28)年に起こした裁判が「ハンセン病家族訴訟」です。2019(令和元)年6月28日、「家族たちが受けた差別についても国に責任がある」とする判決が熊本地裁で出され、このときも国は控訴しなかったため、判決は確定しました。

裁判の経緯を直視するなら、「残念ながら日本ではハンセン病問題は終わっていない」と言わざるを得ません。例えば、勝訴したとはいえ、これらの訴訟の原告はほとんどが実名を公表していません。依然、差別を恐れて〈家族から患者が出たこと〉をひた隠しにして生活しなければならないからです。それは、ハンセン病に対する偏見と差別が続いていることの証左に他なりません。

「納骨堂」の存在もそれを象徴しています。納骨堂は療養所で亡くなって引き取り手のない遺骨が納められている場所です。入所者の家族は差別を恐れて遺骨の引き取りを拒み、入所者は死んでも家族の元に帰ることができず納骨堂で眠り続けるしかない――という状況が今も続いています。国が行った強制隔離の爪痕は今なお癒えていないのです。

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