★私の戦争の記憶と戦後:「戦争が奪ったものをたどる~戦死した父の絵手紙・残された母の人生とは…宮﨑黎子さんの語り(日本・東京)/ トランスクリプト
以下、
宮:宮﨑黎子さん
稲:稲塚由美子(聞き手)
※数字は映像内でのタイムコード
【父と母の出会い~結婚~父、戦地へ】
00010
稲:宮﨑さん自身の生年月日をまず…教えてもらえますか。
宮:西暦で言うのを常としてしてるんだけど、まあ、どっちでもいいんだけど。1941年11月30日。昭和16年です。
稲:お父様とお母様のお名前と…
宮:父は、「やの きんじ」…。母は、「みつこ」。
稲:みつこさんは、どういう字を?
宮:光る子…。金と光る、だね…そういえば。
稲:何年生まれだったんですか?
宮:父はね、1910年生まれ。明治43年ですね。
稲:お母様も、おばちゃまも、「みつ」さんっていう名前だったの?
宮:そうなの。まぎらわしいよね。
稲:お母さんも、光子さんだしね。おばあちゃんが、みつさんだったのね。これ…「みそめ」って書いてある。恋愛結婚だったのね。
宮:うん。あの当時、珍しいからね。しかも、舞台は…すばらしい…幣原喜重郎って、戦後すぐに、首相であった人よ。その人がまだ、戦中…戦前だから…。でも、要職をしめていたと思われるけども…。その人の警護の役についたのが父だった。で、母はそこにいたから…お針子兼行儀見習いで。「見染める」ということになったようです。
稲:警視庁の警察官だったんですよね。
宮:そうそう。
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稲:お父様の写真は…
宮:ありますよ。父はおしゃれな人だったようでございまして、恰好つけて…(写真をみせる)。これがね…家族の写真なのよ。母が結婚した…当初の。これ、一族なのね。(写真のひとりを指さし)この人だけ、わたし、知らない人なの。親しかった人なんだと思うけれども…。知らない人なの。これが父で…これが父の、父。母。これが、みつ、さんね。そして、後ろにいるのは、弟、妹たちなのね。すぐの弟が、この人。全部、「じ」がつくの。父は「きんじ」でしょ。「きくじ」…菊の花の「きくじ」。これが、末の弟で、「ぶんじ」。文章の文ね。「ぶんじ」。それから、この…きくじの次の弟が…「きゅうじ」…久しいっていう字を書いて。「きゅうじ」。これが妹。「ちよ」。っていうわけよ。こういう一家に母は、嫁入りしたの。えらいこっちゃよ~(笑)…よく…偉い!
稲:5人?
宮:だって両親と…この人はすぐ結婚したから(写真を指さしながら)、一緒にはもういなかったようだけども…この二人とこの人…。妹…。
稲:5人きょうだいだったの?
宮:いや、もっと多かったけども…父の上に姉が3人いたのかなあ…。そう。8人きょうだいだったのね。それで、戦争で死んだのは父だけなの。「オーマイゴッド」…。みんな口を揃えていうのが、父が一番できがよかった…あらゆる点で。
稲:ほんとに、大黒柱っていうか…
宮:そう、そうですよ。っていうのは、結婚がね、遅いんですよ。いまさらながら考えたら…これだけの一家養うのに、生活資金を溜める必要があったんだと思う。だから、28まで結婚できなかった…。営々とお金をん貯めたんだと思う。それで、秋田出身なんですけど…秋田から親を引き取って…
稲:引き取ったんですか?
宮:引き取ったのよ。
稲:じゃあ、元々は秋田の御一家だったんですか?
宮:そうです。まあ…農家。農家だけれども…土地を持たない農家だったと思う。
稲:他のごきょうだいは、秋田に住んでたんですか?
宮:いや、みんな、この「きんじ」を頼って、全員、全部引き取ったのよ…姉たちはもう、先に結婚してたから。その必要はないわけよね。
父は初めから…エピソードがあるんですけども、この末の弟とは15歳違うんですって。だから、この子が生まれたときには、15歳になってた父が…この母に言ったんだそうです。「この『ぶんじ』は、俺が育てる」って…。だから、もう…心構えが全然違う。
稲:じゃあ、ぶんじさんなんかは、いまでも…
宮:もう、みんな、死に絶えたけどね。
稲:あー、そうー。
宮:いまではね。残ってる人はいないです。
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稲:お母様とはお幾つ違ったんでしたっけ?
宮:七つ。
稲:ということは、21だったんですね、結婚なさったとき…
宮:22ぐらいかな…。
稲:ぶんじさんは、もっと下だったでしょ?
宮:もっと下って?
稲:15歳違い…
宮:だから、15歳違いだったからね。結婚してね、この弟も同居したわけよ。中学校へ通ったみたいよ…うちから。
稲:じゃあ、光子さんもね、一緒に…みたということ…
宮:そうなの。家事一切は…母の肩にかかったわけ…。これだけの人を食べさせて…。父のお給料のみで。そこがね、私と違って偉いのは、いそいそと喜んでやったって…家事を。辛いなんて、全然、思わなかったって…。当たり前って思ってたし…。それとね、どうも…この人たちのね、気立てもいいんでしょうし…リップサービスが見事。このお母さんがね、「いつも、ありがとうね~」って。嫁に、その言葉を欠かさなかったみたい…。
稲:じゃあ、お母さんは…嫁、姑みたいなことは…
宮:まったく…聞いたことがない。
稲:一回もなく…
宮:私、聞いたことがない。この母の…姑、ですよね。姑の悪口っていうか…不平っていうか…。聞いたことがない、まったくもたなかったんじゃない…。
稲:見とったのも…
宮:見とったんですよ。
稲:だから、ほんとに、一言、二言ね…よく訊くとあるのに、ないっていうことは…
宮:うん、とても尊敬に値する人だったみたい。
稲:だってね、お父様が戦死してしまうわけでしょ…
宮:いや…その前に、もう亡くなってるから。
稲:あー、もう…その前だったの?
宮:そうそう。結婚したのが…1939年なんですけれども…。私、41年に生まれているけども…41年の3月に、この母…みつは…突然、亡くなるの、脳溢血で。
稲:そうなの、だから…
宮:縁側で義太夫を語っていて…うん(頭を傾げるしぐさ)ってなって…そのまま…。それで、お葬式を3月にだして…そしたらね、このおじいさん…私からしたらおじいさんは…元々、病弱な方だったんだって。半年もしないうちに、弱って死んじゃうの。だから、私が生まれた年には…二人が、身まかってるわけよ。そのあとに、私が生まれているでしょ。それから、2年経つか経たないかぐらいで、父は戦地に出征するわけなので…この両親を見送ってからっていうのは、ある意味、重荷をおろしたっていうところがあるわね。これを置いて、戦地に行くのはね…きっと気がかりだったと思うんだけど…。その意味ではね…。
【戦争体験を語らなかった、おじ】
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稲:じゃあ、その時には、結局は、小姑といわれるね…この場合はそんな意味合いじゃないけど…でも、残ってらしたわけでしょ、同じおうちの中に…
宮:でも…みんな、この人は学徒出陣で…行かされちゃうし…この人もね(父の弟たち)…少年…予科練…。少年航空隊…そっちに志願して行くんだよね。
稲:志願して行かれた…
宮:うん。まもなくね…。
稲:じゃあ、みなさん、戦争体験があって…だけど、お父様は戦死なさったけども、他のおじさんたちって…それこそ、黎子さんに、全然なかった、やっぱり…話をするとか、そういうこと…
宮:いや、みんな、しましたよ。だって、弟の立場から兄は立派だったという話を…。
稲:だけど、自分の戦争に行った話とかは…
宮:あー、言わない、言わない…。でもね、私に一番目をかけてくれたのは…これが(写真を指差しながら)次弟ですよね。次の弟。これが三弟、四弟になるわけだけども、この、きゅうじ…というおじが…一番、私を、兄のかわりにって、面倒みてくれたっていうか…。絶えず、心遣いしてくれたのね。幼いときから、長じてまでね。私も、生意気な…20代前半だったと思うんだけども…あるとき、このおじに…「なんで、戦争に反対できなかったの」って言ったの…。そしたら、すごい、にがーいね、こわばった顔してね…しばらく、私、遠ざけられたわよ。悲しかったんだと思う…。「あー、この姪でさえ…わかってないんだなあ、戦争のことが」って、たぶん…かなり、傷ついたんだと思う。このおじになら、そういうこと、言ってもいいって思っちゃたんだけど…考えてみたらね、まわりからの話で、わかったことは…このおじはね、結構、反骨精神が旺盛といういかね…たぶん、軍隊内で、暴力振るわれて…病気になってね…内地のどっかで…療養生活を送っていて…終戦になるのよ。だから、たぶん、彼は…彼の立場で反抗しただろうと…思われるわけよ。だけど、そんなね、ひとりの人がね、どうしたって、戦争を止めるなんて、できっこないわけだし…。そんなことを、あっけらかんと質問する姪には、彼は相当がっかりしたと思う…。
稲:忘れれられないのね…
宮:忘れられないよね…。機嫌よく、お昼ご飯、食べてるときだもん。お昼御馳走になって…。
稲:どこからのお店かなんかで?
宮:そうそう。おじが務めていた…ところの近くに、お昼休みに…「おいで」っていうんで、出かけて行って、お昼食べているときに…。
稲:それにね、思い至るっていう…かね…
宮:でも、そのときに、「あれ…なんで」って、そのときは、なんで、このおじも、そんな反応しかできないのみたいに、そのときは思ったわよ、20代の私は。だいぶん経ってから…戦争のすごい状況っていうのが、少しはわかってきたわけじゃない。30代、40代、50代…60代ってなってくると。そうすると、だから、このおじはね…70にならないうちに、癌で亡くなったのかなあ…。だから、もう、おじの年齢をこえているわけだから…うーん…ですよ。
稲:いつぐらいに、あの時は,ハッとね、あの苦い顔、なんでって思ったんだけど…ハッと、というのは…それからどれくらい…
宮:相当経ったような気がするなあ…。少なくとも20代では、私はわかりませんでしたね。
【父が戦地から送った絵手紙】
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宮:それこそ、私は…このね…絵葉書というか、絵手紙というか…これを母からもらったのも…20代になるか、ならないか…そんなタイミングだったような気がしてるの…。
稲:そんな早かったの…
宮:そう。「絵のついた葉書はあげるからね」って言って、私に渡してくれたのよ…母が。そのときに、こう…見て…「あー、達者な絵を描く人だなあ」みたいなもんなのよ。そして…崩し字で書いてあるわけでしょ…。そんなに熱心に私も…一生懸命に読み解こうなんて思わなかったですよね。だいたい、こんなことが書いてあるのね、ぐらいで…。で…この度…展示することになって、人様にそのまま…私でさえ読むのに困難だったんだから、なかなか読めないよなあって思って…じゃあ、読めるようにしようって思って…一字一字、入力していってみて…全体がわかったっていう感じ…。
稲:それが、これね…(資料をみて)
宮:そう。そうなのよ。だから、つい最近まで…全文をちゃんと把握してなかった。なんて迂闊なんでしょうかっていう感じよ。ほんとに…読もうとさえ…だいたい、わかったぐらいなもんで。私も忙しいし、みたいな。ということですよ。なにが大事で、なにが、それほど大事でないかもしれないってことなんて…あんまり考えないで…目先のことで、私は、あれやって、これやってって…日々、優先順位をつけて動いているわけでしょ…。これ…後回しでしたよ…。
稲:なんで、私ね…どうして、こんな絵を描けるんだろうって…
宮:私も…あらためてね。さらにね、わたしは、そこに価値を勝手に見出してしまうんだけど…誰からも教えられていないのよ。このオリジナリティーのすごさって…半端じゃないなあって思って。それに気づくのも、つい…去年(2015年)…みたいなことなのよ。まあーって思うわね。しかも、状況…すごいですよ。戦闘訓練してるんだからね。
稲:あっち、だからね。
宮:そう、満州だからね。「激しい演習をして帰ってきたところだ」なんていうのを、文章のなかにあるわけよ。それでいて、こんな、微笑ましいタッチの、絵の…絵が描けるって、半端じゃないなあ…この精神はと思うのよね。どうなってんだろうって思って…。
稲:検閲があったんですよね…
宮:そう。軍事郵便だかね。全部、軍事郵便。それで、わたし、時系列で並べようとは試みた…思ったんですよ…。思ったけど、できない。日付書いてない…。いけないのよ、きっと…。
稲:場所とか日付とかね。
宮:いや、場所は書けているのよ。これがまた不思議なのよね、なんで場所を書けるんだろうって思っちゃった…。
稲:じゃあ、書いてもよかったのかね…
宮:うん、大丈夫だったんじゃない…。牡丹江…。東北部ですよ。中国東北部、満州…。牡丹江…。寒い方ですよ、牡丹江って…。
稲:お父様の、この絵がね…
宮:そうなの…私…傑作だなあって思う。あと、これも、赤鉛筆と青鉛筆だけで、こうやって表現するのもすごいよなあ…思うんだわね…。
稲:この辺のね、なんか、寝かしつけて…針仕事のね…。
宮:そうそう。それでね、母もね、写真を送っているんですよ。だって。こういう抱っこしてる状態の、あの…私を置いて…父は出征してるわけだから…まだ、歩かないうちに行っちゃってるわけだから…こんなの全部、想像の産物ではあるけども…母の写真がいきてると思う…。文面にもあったから。
稲:じゃ、写真をちょっと、ここに見せて…
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宮:でね、私のていたらくぶりを言わなければいけないんだけど…こういう写真や葉書を…母はね、疎開してるのよ…。千住に…新所帯は千住なの。千住の日ノ出町なの。日ノ出町に、父は借家を借りて、両親を呼び、きょうだいを呼び、で、めとって…妻を得て…暮らしを始めるわけよ。で、出征しちゃったでしょ。みんな、弟たちも戦地に…というか…国内かもしれないけど、なにしろ、戦争に引っぱられて行ってるわけでしょ。母と私と、もうひとり、このね、妹(夫の)も残っていたんだよね。そう…女所帯ですよ。それで、母方の、父ね…私からするとおじいさんが…心配でしょうがなくて…「疎開してこい。疎開してこい」って、矢の催促…。それで、敗戦の年の3月に、だから、空襲があった頃よね。
稲:45年の3月ね…
宮:そう。3月10日、空襲ね…。その前後よね…その後なのかなあ、その前なのかなあ…。リアカーで、家財を積んで…妹と一緒に、えっちらおっちら…運んだらしい…。
稲:お母様はお話なさった…
宮:そうそう。母から聞くしかない。そういう苦労をしながら行ったり来たりしていても、こういうものをちゃんと持っていた…。これは、(写真)軍服を着た父でしょ。それからね、これは…日常生活ですね。これが、さっき話した、苦い顔をした、おじね。その一番下の弟ね。この弟ね。それから、これが妹ね。で、これ、私。こういう…もっとね、写真があったのに…。(写真をだして)これは、三つのときの、七五三…。これ、三歳の七五三。これ、母でね。
稲:お父様にとっては、どれだけ、かわいかったかね…。
【父の戦地での死の真相を教えてくれた上官】
宮:うーん、そうなのよね。ほんと…。自分が死ぬなんて、夢にも思ってなかったと思う。だって、8月15日の時、生きてたんだからね。
稲:そうだよね。
宮:しかも、フィリピンの山中を…まあ、敗走してるわけよ。軍隊では、「転進」って言ったんだよね。言い換え!…ずるいよね。そうやって…。敗走中、逃げて、逃げて、逃げているときにも…最後は3人になっちゃったんですって…。部隊も散り散りバラバラで…。父は、一番、体力的にも強かったらしいの…。それで、上官っていったって、二十歳ぐらいで…陸軍士官学校を出てるから、父の上司になっちゃうのよ。百戦錬磨の…父は部下なのよ。それで、この人がケガをしたり…熱病になったり…この人に直接話を後に聞くことができたから…わかったんですけど…。それを何度も助けてるの、父…。最後に…この上官のために…いる場所を変えて…トラックの。立ち位置を変えたのが命とりになったの。父が墜落して亡くなったの…。だから、この人の身代わりになっちゃったの。
稲:その上官の方、生きてらした…?
宮:生きてらして、教えてくれたの。それも、なんていうのかしらね…運命のいたずらというのか…。戦後50年目だったのよ、それ…。50年経ったときに…手紙が来たの…母のところへ。やっと住所がわかりましたって…。帰ってきてから、すーっと探し、訪ねていたんだけれども…やっとわかりましたので、お手紙を書きますって…分厚い手紙…。手紙をくれたの。それに…いろいろ書いてあったの。実は、7月25日に亡くなったというふうに…なっていましたけどもって…これ(戦死証明の証書)が7月25日なのよ。警視庁では、一階級特進なのよね。亡くなったということで…。戦死で…。だから、警部…。警部補だったのよ。出征するときは。ひとつ上がって警部…任ずるっていうことになるわけ。その日付は、その上官の方が…私がこういうふうに届け出ましたって言ってたから…。だから、これは架空の日なの。死んでないんだから。要するに、捕虜になっちゃったわけよ…あとで…。
稲:そうか…8月の…
宮:15ですから。
稲:その前じゃないと…戦死にならないっていうことで…その方が、そういうふうにしてくれた…
宮:そういう、おもんばかり…であったの…。
稲:だって、軍人恩給…
宮:そうそう。だけども、その…軍人恩給のせいでもね、酷いっていえば、酷いのよ。だって、兵隊の位で、金額が全然違うんだからね。だから、ほんとに、兵隊としては…軍曹…軍曹ではあったらしいけど…だから、一兵卒ではなかったかもしれないけど…そんなに高額な恩給がもらえるわけもない…。
稲:軍曹はそうかもしれないね…
宮:そうですよね。そういう真相もわかったというわけで…で、実際に亡くなったのは…なんで、25日にしたかっていうと…その事故があったのが、9月25日だった…。だから、二か月…。そういうことみたいよ。だから、フィリピンのモンテンルパって…収容所っていうか、刑務所っていうか…知ってるでしょ…。もう、反日感情も激しくって…大変な中、特赦を出してくれたっていうのがね…知られているけれども…それで、命が助かった…父の、まあ…御同輩というか、そういう人たち、いっぱいいるわけだけどね…。その以前に、父は事故で亡くなっていったという…そういうわけよ。
02517
稲:悪路かなんかで、じゃあ…転落ってこと?
宮:黒人兵だったらしいですよ、そのトラックの運転手はね。刑務所から刑務所へ必要があったんでしょ、おそらくね。それを、急カーブを曲がる…猛スピードで曲がるときに、後ろの、側板っていうそうですけど、それがパラーンって外れたんですって。だから、一番最後に乗った父が…上官と変わらなければ、全然、安全なところにいたわけよ。そこで、振り落とされて…。
稲:おひとり?
宮:それもね…ひとりみたいなイメージで聞いているけど。あんまり詳しくは語られていなかったけど、よく考えてみると…。私も大変な美談だと…。その方は勇気のある行動をとってくれた…そういう方だったていうに、あの…まあ、感激しましたけれども…その後、毎年…墓参に…松戸にお墓があるのね。行ってたんですよ、毎年、お彼岸。春秋のお彼岸とお盆と。だから、年に三回もご一緒してたの。もう、母が偉すぎて。私、ついていけないの、その母の偉さには。というのは、上司だからっていって…もう、奉る…。送り迎えつき、お食事つき…。もう、すごい遇し方をするわけ。初めは、私も当然だなあって思ってたけど。最初のときなんか、それは、私もついていけなかったのは…前の日に行って、お掃除していて…で、次の日も行くのよ。松戸までよ。そんな簡単じゃないんですよ。母だって、結構の歳になってたんですよ。それをやった…。それを毎年やった。で、初めは、戦地での父とのいろいろな関わりっていう話だったんだけども、段々…戦後戻ってきて、自分が会社に復帰して、どれほど自分が、仕事をしたかっていう話をするようなことになってきて…段々、夢覚めたっていう感じ…。酷い…酷い、うん…。聞きたくない話をいっぱい聞かされた…。あらっていう感じ…。
稲:やっぱり…どんなに、その後、社会に貢献したか、みたいなお話を…というか、会社に…
宮:会社で。
稲:人がついてきたか、みたいな話?
宮:そうそう。雪印だったのよ、この人、北海道の出身でね。雪印も、その…私ががっかりしたのと…相前後して…没落しましたよね。なんか、不祥事を起こして。人事部長だったことがあるそうで、人事面接のときに…得々として話すの…。「東大卒の男なんて、ろくなもんじゃないですよね」っていうの、ご飯を食べながら。何かと思ったら、「面接試験でちゃんとした答えが出ないんですよ」っていうの。問わず語りに、勝手に本人が話すのよ。それがね、「どういう女の人が理想ですか」みたいなことを…人事面接でそんなこというかって思ったけど…聞いたら…「わかりません」って言うんだって。「わかんないのか」っていって…「答えを教えてあげた」っていうのね。昼は…要するに、聖女のごとく、夜は娼婦のごとく…。「それに決まってんだろ」って言ったって…いうの。はー…もう、がっかりで…。
稲:まあ…巷ではよくね…男の方たちが…
宮:それ、人事面接で言う!?…人事部長が!…。もう…ガクッ…。こういう人のために父は命を落としたのか…私は、もう、うーんって言う感じになったね…。
02924
稲:たとえば、戦死してしまったとか…人によっては、連れていかれてしまった…お国のために、っていう人もいれば…なんで、うちの大事な夫が…戦死してしまったのって…思うってこともある…そういうことも全然なかったの? 国に対してとか…
宮:いやー、それもね、アンビバレンツというかね…おかしいのよ、私から見てると。やっぱりね、「天皇がなんだ」って、やっぱり思ってるの。それから、「軍国主義ひどい」…「軍部はひどい」…。それを言っていながら…靖国に誘われると、行くの…。遺族会で…。行くんですか…ってちょっと思うんだけど…。行くんです…。それからね、秋田出身なんで…部隊は秋田から行ったもんだから、その部隊の集まりっていうのが…4月29日…昭和天皇の誕生日に集まって…慰霊祭を毎年行ってるんですよ。それを…上司と50年後に会って以来…その上司は行っているっていう話しを聞いて、母は母も行くようになるの、毎年。そこで、私も一緒に行って、わかったことは…地域の自衛隊があるわけよ…地元に。その自衛隊の軍楽隊を呼んで…軍靴やら、懐メロやらを流す。そしたら、母は涙する…こういう…。私は、「あーここにも軍国主義、生きてるよ」って思うんだけど…。
稲:軍歌をやるわけね…
宮:軍歌もやる…脈々と、軍体質は生きてるわよ…。
【一切、愚痴をこぼさなかった母~戦後の生活】
03114
稲:お母様もお生まれが…
宮:大正6年。
稲:だから、1917年…だけど…その後、お父様はいないけど、やっぱり、支えていらしたでしょ…仕事をなさって…
宮:そうそう、だから、私に経済的な、あの…困窮というものは味合わせたことはない。それに、愚痴をこぼさない、全然、私に。私、こんなに苦労してるなんて、一切聞いたことない。
稲:愚痴をこぼさないっていう…
宮:まあ、確かに、そうじゃない。愚痴こぼしたってしょうがないもん、子どもに。なんも益もないじゃない、子どもに愚痴なんてこぼしたって…。子どもが胸を痛めるだけのことじゃない。
稲:まあ、合理的に考えるとそうだけど…
宮:だから、そんな無駄なことはしない人なの。
稲:すごいね。
宮:すごい。
稲:世の中の方は、半分以上は愚痴しかないっていう気持ちになって、私は思ったりしますが…
宮:そうかしら…(笑)。そうね、愚痴を言わないというのは、見事なもんだと思う。
稲:でも、お父様は立派な方だったということは、ずーっと…。
宮:そう、絶えず…。だけれども、24で私を産み…28で、もう…子どもを抱えたシングルマザーになっちゃうわけよね。それから、どうやって暮らしていくかって…すっごい考えたと思う。あとは、獅子奮迅の頑張りよ。
稲:なにか資格をとったかなんかじゃなくて…
宮:洋裁学校なんかも通ってたわよ。だから、幣原喜重郎のうちに、お針子で入ってたぐらいだから…和裁は素晴らしいのよ。和裁の腕は確かだったんだけど、それをいかして、洋裁学校に通ってた。通って、これからの世の中は洋裁だっていって…。仕立物を請け負いますみたいなことをやっていたのよ。でも、それも埒があかないなあって…一枚一枚縫っていたって、はかがいかないじゃないですか。それで、あの…生命保険のセールス…セールスマンになったの…。それも、まあね…どぶ板を踏んでお客様をっていう感じ…私から見るとね。それも努力を惜しまなかった。でもね、時々、ポロっと言うわけよ。洗濯物なんかたたんでいるとき。あの…夫の帰りを待ちながら、きれいに乾いた洗濯物をたたむ…これが女の幸せよね、みたいなことを口走ることもあったのよ。まあ、そうかもなあ、って聞くじゃない。
稲:かわいらしいお母様でね。
宮:そうそう。そりゃ、憧れがあるのは無理ないなあって思ったりもするけどね。
稲:でも、正直なお母様…
宮:正直ですよ、ほんとに。だから、愚痴をこぼさないっていうのは、愚痴がないのよ、きっと。ダメだったら、こうしなきゃいかないみたいな…きっと、そうだと思う。生産的な人なのよ。だからね、だからっていうのも変なんだけど、お掃除好きじゃないの。そこだけ、私も似ちゃって。お掃除はね、生産的じゃないっていうの…なにも生み出さないっていうのよ。でも、実は違うけどね、よく考えると…。
03454
お母様は愚痴はこぼさないしって…。ご結婚まで、ずーっとお二人で暮らしていた?
宮:何々?母と私?
稲:うん。
宮:違う、違う、違う。まあ、母なりには考えるわけよ。この子を一人残して働きに行くのは、どうかなあとかね。その…生命保険に辿り着く前に、なんか…紹介してくれる人がいて…簡単な見合いをして、すぐ結婚するのよ。
稲:そうなんだ!
宮:そう。すぐ結婚するんだけど、すぐ、大失敗しちゃうのよ。うん…。それで、弟は生まれるんだけども…まあ…簡単に言っちゃえば、男を追い出したの。うん、追い出しました。というのは、あの…お金をせびられる…せびられるというか…実際にかかる理由とは違うところでお金を使われてしまって…。そうすると、母も怒り狂って…つかみ合いの喧嘩なんかもしてたわよ。
稲:見てたの?
宮:見てたわよ。小学校3、4年ぐらいだったからね。大変、(間に)割って入って…。でも、まあ…幸か不幸か…どういう話し合いがついたのか…ある時から、男はいなくなりましたって感じ…。
稲:離婚ということに?
宮:というか…さっきの軍人恩給…。あれが引っかかっていたと思う…。入籍しなかった…。
稲:そうか…
宮:入籍すると、恩給が途絶えるから。ということだと思うんで…。だから、私は、少しだけ軽蔑してたのは…「エコノミック・アニマル」だよなあって思ってた…母のこと。でも、たいした恩給じゃないんだと思うんだけどね…。でも、あるとないとじゃ大違いなのよ。その程度のお金みたいなのよ。一兵卒だから…。
稲:それだったら、もしかしたら…もうひとつはね…私、民生児童委員をやってると、すごく…聞くのがね…一番、最初、生活保護っていうのがあったとしても…すごい序列があって…やっぱり、「戦争未亡人」が一番すぐにって…。
宮:あー、なるほど…。
稲:「お国のために戦死した人」の奥さんっていうことは…ものすごくステータス…ほんとはステータスなんて言いたくないけど…。そういう考え方っていうのが戦後にはあったっていう…
宮:そうかもね…。
稲:一番ダメなのが…自分の都合で離婚した女にはやらない、みたいな…
宮:そうそう(笑)。そもそも、結婚もしないで子どもを産んだりした日には…どうしようもないでしょ…。いまだに、そうかもしれないけどね。未婚のシングルマザーに対する…厳しいよね…。
稲:お母様の思いっていうのは、きっと…しょってたものっていうのは…その時代っていうのはあるかなあ…。
宮:まあね。「エコノミック・アニマル」っていうのは、申し訳ないかもしれないけど、そのおかげで私は、ぬくぬくとして、あの…副作用としては、経済観念の、ちょっと、乏しすぎる人間に育っちゃったっていうのはあるんだけれども…。
稲:でも…そういう意味では、鷹揚にっていうか…お母様はお父様は素敵だって…言ってくださって、ずーっとね。
宮:そうそう。父も、リップサービスの素晴らしい人で、この一家を取り仕切っている母に、絶えず感謝してるって言ってたみたいよ。「お前は、ほんとに偉いよね」って…「上手に切り盛りしてくれるよね」って…言って。それは、もう、年中。だから、もう、いそいそと母はやったみたい。それで学んだのか…そうじゃなくて先天的なものか知らないけれど…母もリップサービスがあるときは、言うの…。だって、一人対一人、母子家庭である期間は長かったからね…。その頃、母は私にね、「私はなんの宝も持ってないけど、ただ一つの宝はお前だからね」って言ったのよ。その気になるよね、子どもって!…。えー、私、宝なんだって!…。頑張らなくちゃって。頑張りましたよ、だから。母はなにをやれば、一番喜ぶのかなあって…考えると、学校の成績のいいこと。そう…。だから、うちのなかの用事、あんまりしなくても、勉強さえしてれば、ご機嫌だったの。こんな楽なことはないわけよ。そんなふうで、ございましたよ。
…(夫が帰宅する)…
稲:すみません。ありがとうございます。お父さんもまた…
宮:でも、あれなんですよね…。ベロを半分切っちゃってるから。ちょっと、聞きづらくなってるかなあ。そうなんですよ。
04015
稲:敗戦のとき…4歳だったわけでしょ…?
宮:そうそう。
稲:4歳で、そんなときの記憶って…
宮:私はほとんどないです。母から聞かされた…。だから…疎開したときの話をしたでしょ。それで、実家で父の戦死を知るわけですよ。戦死が…知らされたのが…敗戦が20年じゃない、昭和でいうと。翌年ぐらいなんですよ。その年に知らされるわけもない…翌年以降…。正確にちゃんと聞いてないんだけど…。聞かされて…そのときは、私は4歳になってるわけじゃない。それで、6歳で小学校に入学だから、だから、5歳のときに…母はシングルマザーになったということを知るわけでしょ…。で…あと、1年間の猶予しかないというか…要するにね、自分は、ここの実家にいても居候状態だと思ったんだって…。居候に…また、居候みたいな…。だから、私を…そんなに肩身の狭い思いをさせてはならないと…愛する夫の忘れ形見を…ちゃんと育てなくっちゃって。学校に入れるには東京に行かなくちゃって思ったんだって…。
稲:ご実家というのは、ごきょうだいが…
宮:そうそう。
稲:あとをとった…
宮:だって…このね、姑に対する不定愁訴はゼロでしたけど…自分の母親に対する恨みは…いっぱい言ってた…。複雑なもんですねえ…。なぜかっていうと…実母の方は、「お家大事」な人だったの。長男がすべてを受け継ぐべき…。だから、その他のは、みそっかすみたいな…。だから、なんというのかな…自分の家産をおかすもの、みたいな…ふうにとれたんだ、母には、きっと…。で、いつまでも、ここに甘えているわけにはいかないって…思って…自分で工夫してっていうか、つてを頼って…借家を借りることにしたのよね…。
稲:それは、何年ぐらい?
宮:だから、昭和21年か22年じゃない…。
稲:21年、22年で、もう借家を借りて…
宮:だって、私を小学校にあげるためには。だから、こっちの小学校に入ったわけだから。西新井小学校へ…。
稲:こっちで借家をかりて、ご自分でっていっても…実家には二度と…みたいな…
宮:いやいや…それはないの、また…。親に孝養は尽くすの…。
稲:あー、複雑で…。そうなのね…。
宮:必ず、盆暮れには…盆正月には、実家に帰ってましたよ、お土産を持って…。
稲:じゃあ、「ちゃんと黎子を連れて」…
宮:そう、もちろん。
稲:どんな感じでした? 行って…。それは、それで楽しい…
宮:そうよ、いとこたちもいるしね…。そんなこととは、私は夢にも思わなかった。うまくいってるぐらいに思ってましたよ。
稲:お母様は、いつごろ言ってくれたんですか?
宮:10代半ば過ぎじゃないかなあ…。そういう話が理解できるようになってからじゃないかなあ…。
稲:じゃあ、黎子さんは全然、嫌な思いとか…
宮:してない。
稲:お母さんが、ほんとに…幸せにしてやるんだみたいなことで…守られていたっていう感じなのか…
宮:うん。大いに…だから、私はマザコンでもあると思う…。マザコンあんどファザコンだから、最悪っていうか、最悪っていえば最悪よ。で…その実態がわかってなかったというところが、ちょっとね、まずかったなあって思うのよ。理想のお父様みたいなものが…モヤモヤモヤモヤーなね…。だったでしょ…。で、こういうこと(父親が残した絵手紙)を間近に…せめて、絵とか書いたものとかで…わかってれば、もうちょっと…。だから、いまさらにして思うのは…これだけのオリジナリティーと、それから、努力するっていうことをやる男性と…それから、こういうものをちゃんと残した女性である母と…その間に生まれた私…。もうちょっと、しっかりすべきだったなあって思う…。あれーっていう感じだわ…。だから…いまは…いまもいうじゃない…自己肯定感が低いって、女は…。自己肯定感が低い女が多いじゃないですか…。私もご多分にもれず…自己評価が低かったです、ずっと…。
稲:あ、そう…。
宮:なんぼのもんじゃない、やっぱり…。お父さんは偉かったかもしれないけど…母も努力してる人だったけど…私はダメだなあ…怠けもんだし…みたいな。あらゆることに自信を持てないでいた…。
稲:あー、かえってね…。
宮:そう。
04542
稲:まあ、ご夫婦関係はうまく、そこは…
宮:そこは、バトルの連続で…今日に至ってるわよ。
稲:いやあ、これは結婚の話まで、きっとあるな、と…思ったし…。
宮:そうですよね。
稲:それで、学校に行かれて…お母様とご一緒に興野で育ったの?
宮:そうそう。中学までは興野(東京都足立区)。高校までも興野だ…。あ、違う違う…。小学校までは興野。中学の途中で本木。母は偉いのよ。本木に家を建てたんだから。バラックだったけど、ひとりで建てたの。それもね、大工さんに騙されてね…話と違うバラックが残された。相当、騙されてしまったみたいだけど…。
稲:中学っていったら、まだ…何年?
宮:昭和でいうと、16に…12か13を足せば、中学に行った年齢が出る。
稲:29年とかだから、まだまだね…
宮:まだね…貧しいよね、全体がね。そして、高校も本木。本木から通ったんですよね。本木って、バタヤ(廃品回収業者)部落があるっていわれて…いたところですよ。
稲:まあ、関原に住んでいるので…
宮:似たような、近いようなもんだよね。地続きですよね。
稲:そうです。
宮:そうそう。でも…そんな認識、あんまりなかったけどね。
稲:なかった…うーん…。
宮:近所の人たち、そんなに貧し気な人たち、あんまりいなかったし…。
稲:その時に、高校は…
宮:そこから通ったの。それこそ、かつては、府立第一高女と誉れ高い…ただ、第五学区だったから、第五学区の成績のいい子が行く…うん。行く高校で…白鷗高校という…高校に入りました。
稲:ものすごいですよね、入るのが大変だっていう…
宮:まあ、その…地域では勉強の出来る子が行く、みたいな…とこになって…。で、高校までは本木にいて…また、母はね、千住に家を建てるのよ。
稲:あー、そこを売って?
宮:そうそう。
稲:それは、何年ですか?
宮:だから、会社に入ったんだから…1960年だね。昭和でいうと、35年ね。
稲:お母さんはやっぱり…
宮:頑張り屋だよね。偉いですよ。
【結婚~その後の生活】
04940
稲:そういうときは、お母様がね、ご結婚というか…先の話を聞いちゃうけど…私は、病院に入ってらっしゃる話とか、施設だか、そんなことしかお聞きしてないんですけどね…99歳のとき…
宮:いやいや、そんなには…96。90になった頃、歩けなくなったのよね。
稲:それは、ここのうちで? そうじゃなくて…
宮:旭町(東京都足立区)に…そう。
稲:それは、おひとり暮らしだったの?
宮:そう。それもね、偉いのよ。一人暮らしを彼女は自ら選んだの。
稲:それはすごいですね。
宮:すごいの。というのはね、わたしたちと暮らしているとき…わたしたち一家が母のところに入って…なんか、おためごかしに…あの…一緒に住んであげるからね、みたいな…。子どもたち…図々しく。そういう態度だったわけよ。母からすると、一対四なわけよ。子ども二人いて…夫婦と子どもで。乗っ取っちゃうのね。庇を貸して…軒を貸して…なにしろ、乗っ取られちゃうんだよね。そういう状態だっていうのがわかって…。で、そこで言ったのは…弟がいるわけだから…弟をそのままにしておくのは忍びないって言い出して…お前たちは家をみつけて出ていきなさいよ、って言われてしまいまして…。それで見つけたのが、このうちなの。これ、建売で買ったの。
稲:でも、北千住の駅から近くてね…
宮:それが取柄なんですけど。ローン返して、夫なんてヒーヒー言って、もう…ローン返してましたよ。
稲:まあ、いいところだからね、北千住駅から近くて。
宮:そうなの、いまとなってはね。で、弟たちと住むようになりました。弟たち一家にも子ども二人に…だから、4人が入って…これで安心、って一時母も思っていたの。でも、お嫁さんとそりが合わないっていうのがあって、性格があわないっていのがあって。でも、我慢するに値すると思って、しばらく一緒にいたのよね。だけど、メリットとしては、なにかあったときに助けてくれると、ひそかに思っている。メリットだったのよね。で、娘はここにいるし…まあ、近い距離にあるし…息子夫婦と暮らすのが基本だ、ぐらいに思っていて…。そしたら、あるときね…地震があったのよ。地震があって、母は二階に住んで、弟たちは一階部分に住んでいたんだけけれども…地震が夜だか、早朝だかあって、その時に物がポタンと落ちたりもしたんだけれども、お嫁さんが全然、気遣いがなかったの…。なんのクエスチョンもなかったのよ、「お母さん、大丈夫でしたか」みたいな…。それで、母は悟ったの。「あーダメだ、こりゃ」って…。なんの足しにもならないって、わかったの。ずーっと前だから、しかも、そんな、たいした地震でもなかったから。記憶にも残ってないんだけども。でも、その出来事は私も覚えていて…。それで、「なんとか出ていってもらえないでしょうか」みたいに、今度は私に言うよりは恐れながら言うわけよ。言ったんだけど、そしたらね…お嫁さんがね、「私、マンションは嫌いです」って言ったんだって。それは母から後から聞いたんだけど。「私、マンションは嫌いです」って言ったっていう…「あーそうなんだ、マンション、嫌いなんだね」って言ったら…「ということは、私と暮らすことは嫌じゃないんだね」って、ちょっと、嬉しそうな顔をしてるのよ(笑)。でも、「嫌だっていうんだから、しょうがないよね」って言って…。しばらく、辛抱してたのよ、母…。でも、ついに段々、耐えきれなくなっちゃって…マンションを購入しちゃったの、自分で。「もう用意しましたので…お願いですから、あちらへお移りくだい」って、行ってもらった…。それで、一人暮らしを始めたの。だから、しばらくは一人暮らしがずーっと出来ていて…よく、ひとりぼっちでおりましたっていうのは…食べたいときに、自分の好きなものを材料を調達しに行って…自分で料理をして、自分で食べたいものを、食べたい量を…好きな時に食べられる…こんな有難いことはないって…ずーっとやってた…。
05328
稲:そういうふうになったけど、でも、みんな、盆暮れに集まるっていうような…
宮:そうよ。そういうなのは、大好きなのよ。お正月は必ず集まっていた。
稲:お母さんはね。さっきのご実家のお話もそうだけどね。嫌だっていって、出てらっしゃるけど、盆暮れに帰るっていう…
宮:嫌だっていうよりは…自立しなくちゃいかんと思ったわけよ。
稲:まあ…居候っていうか…
宮:そう…まあ、その…自分の母親に対する恨み辛みっていうのは…この父と結婚するときに…嫁支度をちゃんとしてくれなかったという…。それは、何度聞いたことか…。あのね、三姉妹だったのよ。三姉妹の真ん中なの、母は。で、姉に…ものすごいお金…嫁支度をかけちゃったの…。姉とは、三つか四つ歳が違うんだけど…その違いをあまりにも、まざまざと見たもんで…ちょっと、胸にしこりが残ったみたいなの。
稲:それに比べて、自分はっていう…
宮:そう…。だって、結婚のときって、タクシーって、昔は屋根の高いのがあって…そこへ…
稲:上にのっけて…
宮:そう…なんだか知らないけど、家財と自分と…花嫁支度をして…のっかって、茨城からこっちへ来たんだってよ。
稲:屋根に乗っかってきたの…
宮:屋根にはまさか…あの…大きめのタクシーで、家財道具とともに…。ちょっと、みじめだったみたいよ。姉のときはものすごかったみたいだから。
稲:でも、それでも…そうか…お幾つになって、いきなりっていうか…お一人暮らしになっちゃったんでしょ…。
宮:一人暮らしになっちゃって…だから、弟たちを追い出してね。選んだのよ。「一人にしてくれ!」って。「一人にさせてくれ。お金は出すから」って…。
稲:それで、そのときはまだ、若かったわけじゃない。だけど…
宮:だから、80代よ。
稲:80代で、ご自分が動けて…だけど、骨折かなんか…
宮:そうそう。なにしろ、向こう見ずだからね。何度か、骨折するのよ…してんのよ。
稲:じゃあ、病院に行って、治って…また帰って、みたいな感じだったのね。
【母、施設へ…そして、自分をみつめる】
05548
それから、最終的には、脚…。脚…段々、歩きにくいって言い出したのよね。東大病院に通っていたんだけども…毎月、一回ね。それが…ずーっと、同じサイクルが続いたら…病院の方針として、いつまでも患者を置いておかないっていうか…地元に帰りなさいっていわれて…。そこをやめて…それも、そうだなあ、みたいなぐらいに私も思って…で、千住の整形外科に通うようになって…そこの見立てが大失敗だったのよね。脚がむくむって言ったんで…私も素人考えで…それをするのは、いいに違いないって思って…水を取る薬ってあるじゃない…。尿が、ものすごい、ザーって出て…。そのかわり、むくみがとれる…。
稲:利尿剤みたいな…
宮:そうそう。途端に…足腰、立たなくなっちゃったの。腰に激痛が走ったのよ、そのときに。ものすごい、痛かったって言ってた。それ以来、歩けなくなっちゃった。それで、母はまた、決断するわけ。もう…誰の世話にも…かけられないから…施設に入るから、手続きを頼むわっていうことで…。
05713
稲:何歳で入られたんだっけ?
宮:だから、90過ぎて…間もなくよね。91ぐらいかなあ…。96で亡くなるわけだから…。5年間ね。それもね、始末のいい人っていうか…そんなお金必要ないって、すごい言い張ったのよ。私は強引にあそこへ…もう、自分のお金、自分のために使いなさいよって…。
稲:そりゃ、そうだ。
宮:そりゃ、そうだよね。
稲:やっぱり、一番いい方法ね。やっぱりね、それだけの人生ね…
宮:でもね、やっぱり、母は弟に残したかったの…。
稲:あー…
宮:また、ここは、ジェンダーなんですよ。弟に残したくて…。あ、ジェンダー問題以外でもね、生活力の点で、ちょっと心配だったということがあったようですけど…。弟に残したい…。
稲:あー、やっぱり、矢野家が…
宮:そうなんだね。
稲:大事なんだね。長男の家系を…
宮:そうそう。お葬式はそう。お葬式は喪主になってほしいっていうのが、若いときに言ってたからね。
だからね、私は自己肯定感は低い…低いままですが…かつてよりは…自分の力を確信出来るように、段々、なってきたのは…40過ぎてから。ちょっと、性根が座ってきたの、やっと…。というか、人生80年で…40っていうのは、ちょうど半分だって思ったのね。折り返し地点だって思ったわけ。これからは、折り返しの人生だなあって思って…じゃあ、もうちゃんとしなくちゃって思って、そのとき…ちょっと、性根が座ったかなって感じ。
稲:私は、性根が座った黎子さんしか知らない…
宮:(笑)…その性根も、ひょろひょろ、ひょろひょろっとするんだけども…そうなのよ…。で、あー、失敗したなあって思ったのは…さっきも話そこなったけども…「父を奪われた可哀想な娘」みたいに思うところがあったの…ずーっと。
稲:それは、いつ…
宮:40ぐらいまでは…30代ぐらいまでは…。その…女性史をやるまでは、ってことかなあ…。被害者意識丸だし…。だけど、歴史をちゃんと読めば…東南アジアで何をしたか…中国で何をしたか…ということを考えたら…被害者意識なんかだけで、固まっていられる…人間じゃないでしょっていうことは…嫌でもわかるわよね…。あらーっていう感じで…自分の加害者性にようやく気付いたっていう感じ…。ほんとに…。これは、大事なことだったなあって思う…。自分の加害性っていうのを、あらゆる面で考えると、そうなのよね。たとえば、夫婦関係でも…私、やっぱり、被害者意識強かったのよ。被害を受けた人間だ、ぐらいに思っているところが多々あって…。だけど、待てよって考えると…あちらにとっては加害者であった部分だって、否定できないなあっていうのには…40過ぎてから気づいた…。
稲:自分がね…
宮:そう…。加害性を帯びていますよね…。
稲:いま、とっても仲良しそうに見えましたが…
宮:だって、いたわんなくっちゃさ…お互い。あちらさん、ほら、病身ですから。いたわって、当たり前だし。それに、あちらも…だから、相互関係なんですよね。彼の方も…「ありがとうね。心配ばっかりかけちゃって」みたいになってきたの…。前は「誰のおかげで食わしてもらってんだよ」って…そういう態度だったのが…。
稲:最初、そうだったの?
宮:そうだったわよ。釣った魚に餌はやらない、みたいな。よくありていの…ありきたりの。
稲:言葉になさったんですか…
宮:うん、しれくれましたよ。もう、自分がいっぱいいっぱいだから…言いたくなっちゃうんじゃない…私が、のほほーんとしてるから…うちで。のほほーんとしてたのよ。「お前も働け」とか言って…え! なに! 子ども二人抱えて、なにを働けっていうのかしら、みたいな(笑)…そういう感じだったかな(笑)…。私も手もつけられないような…専業主婦だったから…。まあ、時代もそうだったし…。だって、スーパーのレジぐらいしかない…。それとか、お掃除の…お掃除婦。
稲:それしかない…
宮:それぐらいしかないっていうふうに思ってるから、「私、そういうところに行けって言うんですか」みたいな、子ども置いて、みたいな…。うん…私も、しょうもない…。
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終わり
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