「戦中、私は『軍国少年』でした。戦後は、朝鮮半島との和解を求めて…」~牧師・関田寛雄さんの語り / ムービー(日本 / 朝鮮半島)

「戦中、私は『軍国少年』でした。戦後は、朝鮮半島との和解を求めて…」~牧師・関田寛雄さんの語り(日本 / 朝鮮半島)/ トランスクリプト

※数字は、本編動画のタイムコード

00000 「ふれあい館」応接室(図書室)

【キリスト教の牧師の息子として生まれて~その悲しみ…恨めしさ】

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関:関田寛雄でございます。1928年の、8月18日に…生まれまして…来月、90歳になりますが…8月18日というのは、面白いことに…朝鮮侵略をした豊臣秀吉が死んだ日なんですね。そのときに、朝鮮半島との和解を求めている、私が生まれたっていう…なんとも不思議な縁があるような感じがいたします。いずれにしましても、キリスト教会のメソジストという教派の牧師の息子に生まれまして…九州の小倉から…で生まれて…そこから大阪に移りまして、で、育ったのは大阪でございます。大阪の吹田というところで、少年時代を過ごしました。自分の人生上で、最初の悲しみと申しましょうか…心の傷になりましたのは…8歳のときに、母が召されたということでございます。ええ…きょうだいは…上に三人、男の子ばかり…それぞれが早く…長男、次男は早く亡くなりまして…三男は、60歳で亡くなりましたが…とにかく、少年時代をそこで過ごしまして…。ちょうど、15年戦争が始まる頃でございましたので、いまでも、幼いながらに…2.26事件の…大きな新聞を…新聞にですね…高橋是清が殺されたっていう写真を覚えておりますし、それから、大きな満州帝国の溥儀さんと天皇…裕仁さんが…並んで写っている写真も覚えております。

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そんなこんなで、戦争の中を生きてきたわけでありますが…ちょうど、小学校の5年生のころだと思いますが…ある神社を通過して、境内を通過して通学しておりましたけど…帰りにですね…やはり、神社の境内で、数人の子どもたちに…待ち構えておられまして…私を囲んでですね…「お前の親父はキリスト教の牧師だろ?」…「そうだ」と…。「キリスト教の牧師はみんな、アメリカのスパイだ」というわけですね…。「お母さんが天国に行ったから、これから、イエス様に直接守ってもらわなければいけないから、洗礼を受けろ」って言われまして…8歳で、クリスマスのときに…なにもわからないで、洗礼を受けたわけであります。ですから、キリスト教をやめろって言われてもやめられませんから、「嫌だ!」って言いましたら…足をひっかけられて、倒されて、踏んだり蹴ったり…いやあーもう、ほんと…鼻血を出しながら、泥と血にまみれて…泣きながら帰ってきたことを覚えているんですね。そのときから、自分が牧師の元に生まれったってことの…悲しみといいましょうか…恨めしさというか…それが、ずーっと、少年時代…心にありまして…したがって、そのころから…父親との距離が随分、できてしまいました。

【「軍国少年」になりきって…】

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関:やがて、中学に入ったのが…西宮の、関西学院中学部っていうキリスト教のミッションの学校でございましたけども…そこに通い始めて…やっぱり、そこでもですね…当時、どこの学校でもそうですけど…軍事教練がありまして…で、わたしとしては…キリスト教ゆえに…いじめを受けるっていう悲しさですね…。そのために、いっそのこと、普通の日本人よりも、もっと日本人的になろうと…いう思いで、軍事教練に、うんと励んだんですね…。入部しましたクラブも、剣道部で…そこでもって、大いに活躍しまして…で、軍事教練の教官がですね…退役の中尉でしたけども…おまえはよくやってるから、卒業したら、陸軍士官学校に行かないかと…推薦状を書いてやるからっていうようなことも言われて、喜んでおったわけであります。配属将校にバックになってもらえれば、いじめられませんから…その点で、軍国少年に、とにかく、なりきったわけですね…。学徒勤労動員が始まりまして…その前にですね…剣道部に入っていて…うちどころが悪くって…胸を打たれてですね…結核の初期になってしまいました。1年間、休学いたしました。そのときに、新しい母が…再婚したもんですから…新しい母がまいりましたけども…その母は…看護師をしておりましたので…結核っていうことには、非常に敏感な反応をするわけで…新しく男の子と女の子が生まれましたので、結核初期の私の部屋には…とても入ってこない…。自分の子どもたちに感染することを恐れてですね…ずーっと、療養生活の中で…面倒をみてくれたのは、父親でございました。そんなことの寂しさもあったわけですが…とにかく、熊本の母の郷に、1年間戻りまして…そちらで…亡くなった母の親戚のおばさんに非常にあたたかく迎えられたのが…癒しにつながりましたし…少年時代の懐かしい…忘れられない思い出が、亡くなった母のいとこにあたる方ですけどね…非常にそのことが記憶に残っております。

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関:で、健康を回復しまして…学校に戻ってまいりましたら、学徒勤労動員が始まったわけでございます。私たちが行ったところはですね…園田っていう、西宮と大阪の近く…中間にあります陸軍の衛生材料廠っていう…薬品の製造、医療機械の製造…そういうところが職場でございまして…そこで出来上がった薬品をですね…前線に送り出すっていう…梱包作業を、我々の作業の内容でございました。軍国少年でございましたから、そこでも、やっぱり、いっぱし、班長になりまして…毎朝ですね…一言、「今日も頑張るぞ!」っていうことで…みんなを激励して、職場に行くわけでありますけど…やがて、特別攻撃隊の…ニュースが入ってまいりました。直接関係ございませんけども…同じ年代のすぐ上の…数年上の先輩たちがですね…沖縄の海に突っ込んでいく…フィリピンの海に突っ込んでいくと…。「あとに続くを信ず」っていうような言葉を残して、飛び込んでいくわけですが…それは本当に、私らにとって心が痛むわけですけれども…同時に私たちは戦争中に…大東亜戦争なるものの意味をですね…徹底的に教え込まれた…。それは、なにかといいますと…19世紀以来のですね…西洋…植民地主義…。インドをはじめ…ですね…インドネシア…オランダ、フランス領のインドネシア(おそらく、インドシナのこと)…それから…フィリピンのアメリカ占領…。中国は虫食い状態で…香港から、青島から…マカオから…そういう状態の中からですね…アジアの民衆を解放して…西洋植民地主義に終止符をうって…アジア人のアジアになっていくんだと…。そのために、天皇の軍隊は…犠牲をはらって南方に遣わせているんだと…。これは、アジアの人民の解放の戦争だと…いうふうに教え込まれましたもんですから…人民の解放戦争になりますっていうと…若い魂は燃えるわけですよ。ですから、なにがなんでも、とにかく…この戦争には勝たなきゃいけないっていう…。そして、この…アジア人民…植民地の差別と、搾取に苦しんでいるアジア民衆を解放するんだっていう…その…情熱に燃えて、燃えてですね…大東亜戦争を神聖なる戦いとして、ほんとに、そのことを信じこまされて…戦い続けたわけであります。

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関:ですから…「あとに続くを信ず」っていう特攻隊の先輩たちの言葉がですね…胸に震えるような思いで、この…揺さぶられるわけですね。で、そんなことで…今日も頑張るぞ!ってことで、まあ…学徒勤労動員の現場で…そんなふうにして、班長として…軍国少年として…頑張ったわけですけど…忘れられないのは、昭和20年、1945年の…8月7日でございました…。4号倉庫、ですね…。ある火傷の薬を全部出せ、と…いう命令が事務所からやってまいりました。陸軍の衛生材料部ですから、なかば、軍隊なんですね。そこから、この…そういう命令がまいりまして…4号倉庫にある…亜鉛華軟膏っていう火傷の薬をはじめとして、もうな何十個、何百個という梱包作業をしまして…なんども貨車に積み込んで…送り出しましたけども…その蓋にはですね…暗号で…丸字を…丸を書きまして、その中に、「広」っていう字を書くんですね。〇、広っていう暗号で…。荷物を送り出したわけです。言うまでもなく、それは8月6日の広島原爆に対する陸軍の対応だったわけですね。そんなことで…いよいよソ連の参戦を聞いて、これは日本は駄目じゃないかなあと、初めて、そのときに…思ったわけでありますけども…それでも、負けてはおれないっていう、最後の最後まで戦い続けていたわけではありますが…8月15日でございます。そのときに、ちょうど体調を崩しましてね…勤労動員の現場から離れて自宅でもって、寝込んでおったわけです。そのときに、この…ラジオ放送があるっていうんで…聞いたところが、なんだか、よくわからなかったですね…。ただ…「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」っていう声を…言葉だけが残りました。あ!これは負けたなあっていうことでですね…ほんとにショックを受けまして…。それで、ちょうど…そのときに、父親も含めて家族はみんな…熊本の方にですね…第二の母も、出身は熊本でしたから…熊本に疎開していたわけですね…。留守場を守っていたのが、おばあちゃんで…その方は、ホーリネス教会っていう政府の圧力によって、治安維持法違反によって、解散させられたホーリネス教会、教会の信徒さんで…行く教会がなくなったからということで…父親の教会に来ておったから…その方が、留守番方々…世話してくれたんですけども…「おばさん! 日本は戦争に負けたらしいよ!」って言ったら…「えー!、こんなに一生懸命にやってきたのに」と、おばあちゃんが、ぽろぽろと涙をこぼしたことをね…今も忘れないで覚えております。

【敗戦後の虚脱感~聖書の言葉に救いを求めて】

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関:そして、その後ですね…。もう何遍も、艦載機といわれるグラマン戦闘機とかですね…P51っていう艦載機が飛んでまいりましたけどね…。爆弾も銃撃もしないで…低空飛行しながらですね、飛んでくるのを見ながら…「あー…戦争は終わったんだ…」という、しみじみ実感をしまして…。夜になりますと、パカッパカっとですね、電灯が点くわけですね…。真っ暗だった夜…そこに電灯が点き始めたっていう…平和のシンボルでございますので…ホッとしたことも思い出しますけども…。しかし、数日経ちながらですね、これからどうなるんだっていう、それを考えあわせていうと…あれだけ頑張って戦争にうち込んできたのに、負けたと…いまさら、なにをすることができるのかと…いう、この虚しさと…虚脱といいましょうか…それで、特に私の場合には…軍国少年でございましたから、学徒勤労動員で毎朝、アピールを訴えていた…身にございますから、学園に戻ってきましたけども…学園はなにもいいませんけども…関田、あいつはいま、何を考えているんだろうかっていう…言葉にならない言葉がですね…聞こえてくるわけであります…。それが、ほんとに、たまらなく…自分を責めましてですね…。どうしても学校に行けなくなってしまって、それで、闇市をですね、さすらうわけであります。意味もなく…どこに、こんなに食料が隠れていたのかと思うぐらい…おにぎりが並ぶ…ライスカレーの匂いが漂う…大福餅が並んでくる…というような、どこにこんな…食べるものがあったんだろうかと思うような…そんな中で、意味もなく、闇市をぶらついているときに…トラックで乗りつけたのが、解放された共産党員…。18年の…獄中の弾圧を耐え忍んで、出てきた、徳田球一、志賀義雄といったような幹部がですね…トラックの上から民衆に叫ぶわけです。この大東亜戦争なるものが、いかに欺瞞であったかということ…。そして、その最高責任者は天皇だっていうことをですね…力を尽くして語るわけで…あります。18年という弾圧とですね…拷問を潜り抜けてきた…人間の言葉っていうのは、やっぱり…心をうつわけですよ。ここに、ほんものがあるなあっていう…気がしましてですね…。まあ、あの…幼いときに…キリスト教の洗礼を受けたもんですから…共産党には入りませんでしたけども…そのときに、ほんとに共産党の…弾圧を潜り抜けてきた…人間の言葉っていうものの真実に…うたれましたですね…。

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関:でも、どうしても、この…自分自身を回復するっていうところまでいかない…。ところがですね、キリスト教会っていうところは、もう、大繁盛なんですね。マッカーサー元帥がやってまいりまして…キリスト教を応援する…。“ララ物資”【ララ( LARA;=Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)からの困窮状態にあえぐ日本向けに提供された援助物資のこと】というような、救援物資がですね…アメリカの教会から送られてくる…。それを教会が中心となって分配する。まあ、教会…もう、キリスト教は大繁盛!…。たくさんの人たちが礼拝に集まってくるわけですけど…戦争中のことを考えるとですね…あのとき、みんな、なにしてたんだ!っていう思いがありますから…その華やかな戦後のキリスト教の礼拝に出る気持ちにならないわけです…。それで、牧師の息子でありながら…礼拝をボイコットして…。父親はそのころですね…貧しい生活の中で、やっぱり、栄養失調になりまして…床についているわけなんですね…。ですから、父親の友人が…礼拝の説教をするために、とっかえひっかえ来てくれるわけなんで…牧師の息子としては…ほんとは、迎えて挨拶すべきなんでしょうけども…礼拝そのものを拒否していました私にとりましては…とても、そんなことはできない…。で、教会の友人がですね…心配しまして…自分の教会に出られなければ、こんな教会に行ってみたらどうだって言われて…たまたま、紹介されたのが…京都の近くのですね、ある教会でした…。その教会は…治安維持法でもって弾圧された、ホーリネス教会の支部でございまして…解散させられた教会が、やっと…戦後、回復して…。で…その教会は小さな教会で…畳の上に座って礼拝するんですが…座布団の四隅が破れて、綿がはみ出てるような…貧しい教会…14,5人いたでしょうか…。そのときに、牧師さんがですね…繰り返し繰り返し言った…内容等は忘れたんですけど…ひとつ、覚えているのはですね…「どんなに時代が変わっても、変わらない真理が聖書にこそあるんだ」ってことを言われたんですね。それは、妙に心に響きました。どんなに時代が変わっても…変わらな真理が聖書にこそある、と…。で、戻ってまいりまして…床についている父親にですね、初めて、父親と向かい合って…こんな話を聞いたけども…聖書のどこを読んだら、そういう…時代が変わっても、変わらない真理…がわかるんだろうか、って…。そのときに、父親があの…半身起きましてですね…「じゃあ、一緒に聖書を読んでみよう」っていうんで…詩編の51編という…ダビデの、悔い改めの詩を…取り上げて、一緒に読んでくれたんですね。その中に、このダビデが大きな罪を犯した後…神様に祈ってるわけですけども…「神よ、我がうちに…新たな霊を…素直な…直き霊を新たにおこし給え」っていう…その言葉を祈っているんですね…。「神よ、我がうちに、直き霊を新たに起こし給え」って、その言葉がですね…私の祈りになったような気がするんです…。ほんとに、そうだ、と…。なにもなくなっちゃった私の中に…もう一度…直きの…真っすぐな…心を、新しく…作ってもらいたい、っていう…。さらに、読んでまいりましていうと…「神のもとめたまふ供えものは砕けたる魂なり。神は砕けたる悔いし魂をかろしめたまふまじ」っていう…文学の、聖書ですから…その言葉にふれましてですね…ずたずたになって、なにもなくなった…傷だらけになった、この心がですね…そのまんま、この…神が迎えてくださる、喜ばしい供えものなんだ、と…いう言葉にふれてですね…これでいいのか、これでいいのか、っていう思いでですね…初めて、この、聖書の言葉にふれてですね…涙、したんですね…。それが、わたしの、戦後、もう一遍生きようっていう…気持ちになったきっかけでございました。

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関:で、学校に戻りましてね…学校に戻って、関西系の中学…英語の先生でね、ヤナイショウイチっていう先生がおられまして…この方がなかなかの方だったんですが…戦争中はですね、この方、教頭でしたから…君たちがね、この戦争に勝つためにはね…少年航空兵になれ…少年水兵に志願しろ、と…言っておられたわけですね…。で…戦争が終わりました。この人、英語の先生ですので、カーライルとかね、ジョン・ミルトンとかね…そういう人の言葉をずーっと黒板に書いて…訳読するんだけども…学徒勤労動員に行ってましたから、みんな、英語を忘れちゃって、ポカーンと…聞いてるわけですね。で、まあ…その先生は、じゃあ…今日はこれまでにして、ミルトンっていう人がどういう人だったかということを話そうっていうことで、そういう英文学の作者の人生を語り始めるわけですね…。それが、非常に心に染みてくるわけです。しかし、そういう先生が、なぜ戦争中にね、少年航空兵に志願しろ!…少年水兵に志願しろ!って言ったのか、って…。その先生がね、いま、こういう話をするっていうのは、どういうことなのかって…納得できないことがありまして…。手紙、書いたんですね…。戦争に負けた、と…。戦争中、先生はああいうこと、言ってきたけども…いま、先生、なにを信じて生きてますか…と、手紙を書いたんですね。なかなか…すぐに、いつもは返事がくるんだけども…返事がこなかった…。で、しばらくしまして…1週間ぐらい経ったかな…。そのうちに、英語のクラスで…実は、このクラスのある学生から、かくかくしかじかの手紙をもらった、と…。しかし、いまだに、まだ、答えられないでいる…。なぜなら、自分も、あの戦争の勝利を信じていた、と。戦っていた、と。で、軍部の方からですね…航空兵として、水兵として…学生、何名出せっていう命令がきていた、と…。やむなくそのことを言ったけども…ほんとは、そういうこと、申し訳なかった、と…。で…、自分自身、いま…模索している最中である、と仰った。その言葉を聞いた私はですね…ヤナイ先生にこだわっていた、ある思いがスーッと消えていって…先生、私と同じことを苦しんでおられたんだなあ…っていう、敗戦の、この悲しみを、先生自身、味わっておられたんだなあっていうことをわかりましてね…先生に対するこだわりが、スーっと消えていく思いがしたんだけども…。その先生はさらにですね…それでも、君たちよりも少しは長く生きた人間としてね…いま、言えることがあるとするならば…この新約聖書のイエスの言葉の中に…隠されているもので…表れてこないものはない、と…。覆われているもので…明らかにならないものはない、っていう…イエスの言葉がある…。いま、本当のことはね…わかんなくなってるかもしれない…。けれども、やがて…やがて、その、本当のことは…表れてくる…。そのことをね…信じて、いまは勉強しようじゃないか…って言われたんですね…。それで、まず、聖書の、イエスの言葉にまた、うたれましてね…。いま、わからなくても…やがては本物がわかる、と…いうことに心がつながれて…そういうような点で勉学の意欲も湧いてまいりましたし…。それがですね、私の、戦後の…精神生活の、まあ…出発点だったと思いますね…。

【大学入学~学費払えず、半年で退学~横浜YMCAで働くことに】

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関:で…そうこうする中で…卒業がやってまいりまして…関西学院の旧制大学の予科に入学はしたんですけども…おわかりのように、私の父親が寝たっきりで…収入もございませんでしたから…随分、父親は…著書をですね…じゃなくて、たくさんの蔵書を売却してですね、お金を作ってくれたんだけども…半年の授業しか…行きませんでした。ですから、一学期の半分…一年の半分だけを…過ごしましてですね…。あと、関西学院の芝生の庭で、予科の、予科長の先生と二人だけで…祈って…退学いたしました。それから、家の家族が熊本から帰ってまいりましたので…生活費は困りますから…父親は病んでますし…日雇い労働とかですね…そういうことを、随分…働きました。ええ…築港で…石炭を担いでですね…船から降ろすというような…作業もいたしましたし…大阪の梅田の…駅裏の日本通運で…梱包作業のアルバイトをしたり…そうしながら、やっと、その…生活を、つないでですね…生きておったわけであります。数年経ったときに…父親の友人がですね…横浜のYMCAの理事をしておられて…で、寛雄君が…仕事を見つけないならば、横浜に来ないか、と…誘いがありまして…。それで、思い切って…横浜に出て参りましたのが…1948年。横浜のYMCAに、面会に参りまして…総主事のエビサワ・レンという総主事にお会いしまして…ご紹介いただきました、関田でございます。よろしくお願いします、と申しましたら…「泊まるところ、あるのかね」って…言われてですね…。実は、泊まるところのために、いくつか紹介状をもらってきておるから、これから探します、って言って…。それで、何通かの紹介状を父親が書いてくれたんですが…。そのころはですね…みんな、こう…都会は…戦災を受けまして…多くの家族が、戦災家族…。親戚に引き取られたり…友人のところへ身を寄せたり…。一人の男がですね…一間を借りる…住むなんて…スペースはどこにもなかったわけですね…。数件の家を回って、結局は…なんにも可能性がなくなってしまって…。これじゃあ、もう、横浜はあきらめて、また、大阪に帰って、日雇いでもやろうかって…友達にね…。翌日ですね…前の…横Yの、総主事に会いに行きまして…断わりに行ったわけですね…。大阪に戻りますって言ったら…「ちょっと、待ってよ。実は夕べ…二階のタイピスト教室に泥棒が入って、タイプライター、英文タイプ二台、盗まれちゃった。用心が悪いから、米軍のカットベッドでよければ…この上で、夜番も兼ねて、タイピスト教室に泊まらないか」って言われましてね(笑)…。それを受けたとしても…ええー、泊まることができるのかあーと、それこそ、天を舞うようなね…手も足も、踊るような思いで…その声を聞きましてですね…。今日から泊まらせていただきますっていうことで、横浜のYMCAに泊まってですね…そのタイピストスクールの片隅に、衝立を立てまして…その裏側で米軍のカットベッドに…寝泊まりするようになったわけでありますけども…。振り返ってみて、ほんとに、そのときの、泥棒様様、でございまして…泥棒が盗らなければ、私は、横浜Yに勤めることができなかったわけですけども…そんなことで、横浜のYに…勤務することができるようになりました。

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関:私の仕事の責任はですね…少年部っていって、戦後、中高生のグループをですね…戦後初めて再開するという…そういう仕事が私の仕事でございまして…。横浜YMCAは、常盤町の本館はですね…米軍に占領されておりましたので、使えない。焼け残った港中学っていう、中学の校舎を借りまして…その二階を英語教室…体育館が残っておりましたので、体育館でダンス教室。それから…その他、教室を借りて、会員活動をやっておったわけですね。私は、少年部の責任でございまして…横浜の中高に、中学、高等学校に手紙を出しまして…かくかくしかじかの主旨でグループを始めるから来ないかとっていうことで…。5月の8日でございました。(19)48年、23年の5月の8日に初めて、保土ヶ谷からですね、8人の中学生がやってきましたですね…。これが少年部の出発でございました。私自身、まだ19歳ですからね。ほんとに、なにをしていいのかわかんないんだけども…とにかく、彼らと一緒にですね…わずかな空間を…使って、ソフトボールをしたり…卓球ですね…。卓球の台もございませんから、英語教室の机を並べまして、ネットのない、卓球をするとか…フットボールをするとか…。とにかく、少年部の活動を始めまして…そのころは、遊ぶっていうことができなかった…遊ぶことがなかった世界ですから。体育館が使えるということ…ピンポンや卓球をやって、一緒に遊ぶことができる、ソフトボールができる…その単純なことがですね…ひきつけまして…どんどんどんどん、人数が増えてまいりました。で、上司でありました方が、慶応の出身でございましたので、その方の、慶応の後輩たちがボランティアのリーダーで来てくれまして…。そんなことで、約4年間、YMCAで働きましたけども…。ちょうど、そのころ、鎌倉にですね…YMCAのブランチを作ろうっていう話がありまして…で、週に2回、水曜、土曜と、出張しておりまして…。鎌倉でも、英語学校と少年部を経営するということでやっておりましたけども…。そのなかでですね…責任を負っております少年部の、ある子どもが、非常に悲惨な刑事事件を起こしまして…これ以上は、あんまり公にはできませんけども…要するに、義理の父親…自分の母に対して…それこそ、DVの限りを尽くす…再再婚といいましょうかね…まあ、6人目の妻だったんですけども…その妻に対するDVを耐えられなくなった…その少年が、抵抗しまして…最後的には、その父親を殺害するっていう…事件が起こりました。殺害された人は、実は…横浜YMCAの理事の一人でしたからね…。私は、責任を感じまして…横浜YMCAを辞めることになったわけであります…。

【青山学院大学・キリスト教学科(後の、神学科)で学ぶ】

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関:キリスト教の牧師にだけはなりたくないと、思っておったんですけど…横浜YMCAならば、なんとか…まあ、キリスト教関係の仕事で…働くつもりでおりましたけども…その道が、そういう子どもの事件に関して…絶たれてしまったもんですから…また…模索が続きまして…結局は、他にやるべきことがないということで…まあ、牧師の仕事しかないっていうことで(笑)…。恩師が…ある教会の伝道師の仕事をみつけてくれました。そんなことで、牧師になりました。しかし…その教会は、学校教会でございましてね…。たくさん、学生が来るんですけども…私としては、もっと、こう…地道な…ほんとに、こう…人間同士の出会いを大事にする教会に行きたいっていう願いがあったもんですから…1年でもう、辞めさせていただきまして…そのときに、わたしの恩師で…アサノ・ジュンイチ(浅野順一)という…旧約聖書の学士でございましたけども…その方が川崎に教会づくりをするっていうんで…「ついてこないか」って…。「参ります」っていうことで…導かれて…。ちょうど、大学院…。あ、YMCAに勤めた、そのころですね…「きみは、YMCAのスタッフになるならば、大学に行かなきゃならないよ」って言われて、結局、普通の、通常の仲間から4年遅れて、大学を卒業したわけですけどね…。それは、青山学院大学のキリスト教学科という、後に神学科になりましたけども。そこを卒業しまして、大学院にまた、学んだわけですが、そのときに、この、浅野順一先生によって…川崎を手伝わないかって言われて…大学に入りながら…川崎に…毎週毎週、日曜日に通って参りました。それが、桜本…の1丁目のですね…公民館でございました。大学が終わったときにですね…恩師から「あとをよろしく頼むぞ」って言われて…。小さな、桜本2丁目の30番に、小さな…礼拝堂ができまして…そこに住み込んだっていうのが、私の川崎での生活の始まりでございました。1957年…でございましたね。

【川崎・桜本にて、開拓伝道の教会づくりを手伝う~在日の人々との出会い】

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関:そこに初めて住み込んでですね…なんにもわからなくって、同時に、まあ、そういう開拓伝道の教会づくりっていう作業をしながらですね…たまたま、私の論文が評価されまして…新約聖書の学問の指導の先生から、「青山学院の研究室に残れ」って言われまして…神学科の研究室の助手になって、残ったわけですね。ですから、片っ方で…神学研究の、青山学院での研究生活が片っ方に…もう片一方では、川崎の教会づくりっていう作業がございまして…二足の草鞋というか…非常に辛い思いをしたんですけどね。ともかく、あの…そこで住み込んだわけですけど…。礼拝堂ができて、間もなくのころ…夜中に、戸を叩く人がありまして…それで、ドアを開けましたら…教会に日曜日に来ている…二人の男の子と、母親らしい方が…立ってまして…「どうしましたか」って聞きましたら…「実はうちのアボジがね…」っていうんで、あ!、在日の家族だったかということで…。そのうちに、その…男の子たちは日本名を名乗っていましたから…在日と知らなかったんですね…。中に入ってもらいまして、話を聞いたら…うちのアボジが、日本鋼管に…昭和18年、強制連行されてやってきたんだけどもね…その後、戦争が終わって…韓国に帰ろうと思ったけども…朝鮮戦争が始まってしまって、とても帰れる状態ではなくなった、と…。やむなく、日本の企業に勤めたんだけども、今日は、小さいことから喧嘩になって…日本人から「朝鮮人は朝鮮へ帰れ!」と言われた、と…。自分が好き好んで日本に来たわけじゃないのにね…いまさら、朝鮮に帰れとはなんだ!って…いうわけで…気持ちがおさまらなくって、酔っぱらって帰ってきてね…包丁で家中の柱を切りつけながら、わめき叫んでいるって…。とても危なくって、子どもたちを寝かせられないから…子どもが教会にお世話になってるから、今晩…泊めてもらえないだろうか、って…。「そんなこと、あったんだ。じゃあ、泊まってください」っていうわけで…礼拝堂の長椅子をね…並べて…そこに、まあ…親子三人、泊まってもらったんです。そのうち、その母親から…桜本とね、近辺…浜町…池上…大島っていう、この4,000人からね…あの…強制連行された方々の家族が…今もなお、住んでいるんだ、と…。初めて、それ…聞きましてね。まったく、なんにも知らない…そんなこと知らないで…ただ、教会づくりっていうんで入ってきたんだけどもね…そんなとこに来たのか、っていう…ショックだったんですけども…。そういう親子三人、泊まって、朝早くに帰って行ったんですけどね…。そのあと、ベッドをなおしながら…ここに、教会づくりをするってことは、まさに、この…駆け込み寺の…役割もしなければいけないんだなあっていうことを、つくづく、思わされたんですね。これが、私が、在日韓国朝鮮人と出会った、最初の出会いが…これだったんですね…。

【在日大韓教会 イ・インハ牧師との出会い】

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関:そして、2年後にですね…1年半ぐらいかなあ…。そのうちに、イ・インハ牧師が、この桜本の、在日大韓教会に赴任してこられたわけです。一番近い日本人の教会だっていうんで…挨拶に来られたんですね。初めて伺いますけどもっていうことで、よろしく、っていうことで…。挨拶にきたのに、いきなりお願いで申し訳ないけども…実は長男を桜本の小学校に入れようと思ったら、校長からですね…朝鮮人の子どもは、日本人の保証人をたてろって言われたんですね。で、申し訳ないけども…書類を持ってきたから、それに捺印してくれないかって…。私はね…びっくりしましたね。何人だろうがね…命として生まれた以上は…生存権と教育権は…本来あるものなのに…。それをですね…朝鮮人の子どもは、日本人の保証人をつけろっていう…そういう…小学校の校長の意識だったわけですね…。びっくりしまたけども…書類がありますもんですから、それに捺印いたしまして…それで、まあ…そこから、イ・インハ牧師との、まあ…交わりが始まったわけですが…。

在日大韓教会 イ・インハ牧師

しばらくして、その奥様と出会ったときにね…妹のお嬢さんも…ある保育園に入れたいと思って頼みに行ったんだけども、うちの保育園にはあちらさんは、誰もいませんの…と断われられた…。もう、ねばって、ねばってお願いしたら、まあ、牧師さんの娘さんなら…まあ、いいでしょうっていうことで…屈辱的なかたちでもって入園を許された…。そのことがですね…イ・インハ牧師夫妻の心の深い傷になってるわけですね…。イ・インハ牧師については、また別なところで語りますけども…とにかく、韓国で日本政府によって潰されたキリスト教系の中学校…やむなく、日本に渡ってきて、京都の仏教系の中学に入学して…たまたま、そのときに、クリスチャンの中学の先生、英語の先生に巡り会って…その先生の導きからクリスチャンになったっていう…イ・インハ牧師ですね。で、神学校に行かれて…牧師になって…京都の教会にいた御婦人と結ばれて…日本人の…結ばれて…川崎に来られたということなんですね…。そういうご夫婦が川崎に来て、子どものことについてですね、そういう痛ましい差別を受けたっていう…そのことは、イ・インハ先生と出会うと同時に…インハ先生の痛みに出会っているわけですね。それ以来…いろんな場面で、イ・インハ牧師が果敢なですね…民族差別との闘いを続けられるわけです。それは、もう…ほんとに…地味ですけども、心のこもった、力強い、抵抗力といいましょうか…実に温和なかたちでもって、抵抗を続けていかれる…。ひとつ、ひとつが実っていくわけなんですね…。それを、ずーっと傍らでついて、見ながら…一緒に歩きながらですね…ほんとに、この方の賜物というか…才能というか…それが、その…この人が、こう…苦しんできた…その経過の中から出てくるエネルギーといいましょうか…それを実感しながらですね…繰り返し繰り返し学びつつ…49年…彼が亡くなるまで、一緒に川崎で、まあ…歩んできたわけであります…。

【差別問題と向き合って~在日コリアンの人たちと、ともに生きる】

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関:その間に…もう…ここ(手元の資料)にも書きましたけども…要するに、日立のね、就職差別の問題があったり…指紋押捺の問題があったり…。それから、公立学校における様々な民族差別のいじめの問題があったり…そのために、川崎の教育委員会とアボジ、オモニたちが一緒に話し合うっていう…そういう話しあいの会もございましたし…。先生が…自分の同胞の子どもたちが、日本の保育園に入れないっていうんで…それじゃあ、小さいけれども…自分たちの教会の礼拝堂、これを使ってね…同胞の子どもたちが入れる、同胞のための、保育園を作ろうっていうんで…桜本保育園を作られたわけです。そこは福祉法人になりまして、青丘社桜本保育園ということになったわけですけど…ところが、看板を出しますと、保育園不足の時代でしたから…日本の親たちがかけつけましてですね…入れてくれ、入れてくれっていうわけですね。韓国の子どもたちは、保育園に入れなかった…。そういうために、同胞の保育園を作ったんだけども…日本人が押しかけてくるということで、インハ先生は、二つのことを条件に了承していただければ、誰でも入れますっていうことで。ひとつは、民族名を名乗りあうこと。通名ではなくて、親がつけた名前をお互いに呼び合う…ということが、ひとつ。もう一つは、イエスという人の「隣人を愛せよ」という戒めを保育原理にすると…。このことを、了解してくれれば…誰でも入れます…。ということで…日本人に対しても、この保育園をオープンにしたわけですね。そうしますと、結局、6対4ぐらいで…日本人の方が多かったんですけどね…。そこで、韓国人の保母さん…それから、副牧師になりました、日本の牧師の夫人なんかが一生懸命、保育園を助けて、そこで、ほんとに、この…民族協同の保育園が始まった…。とにかく、自分の名前を大事にする。民族性というものを、ほんとに尊ぶ、っていう原則から始まった保育園。これがですね、子どもたちが小学校に上がっていく、中学校に入っていく…圧倒的に日本人の方が多い、中学…高校…小学校ですね…今度は、やむなく、親の方で我慢しきれなくなって…日本名に変えていく、この…流れが出てきた、と…。そこで、インハ先生は…保育園の上にですね、小学校の…児童…児童クラブというか…それを作られて…小学校に入っても、本名を名乗り続けることができるようにって…。で…子どもを見守る「オモニの会」っていう、会がね…韓国教会の、信徒の…ソン・プジャさんという女性によって…作られまして…。オモニたちが、自分の子どもたちが保育園を出て、小学校に入っていくときに…圧倒的な多数の日本人の中にあって…自分の民族名を名乗るということの困難さ…それに打ちのめされる子どもたちを見ながらですね…なんとか、応援して…本名を名乗り続けようっていう…運動が…子どもを見守る「オモニの会」…だったですね。それが、どんどん…力づけられていって…あちらこちらの…民族差別に対して…「オモニの会」が行ってはですね…その、犠牲になった家族を応援するとかいう、著しい動きが…この桜本のね…青丘社から始まったわけです。ソン・プジャさんは、その会長でしたね。

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関:その中で…そういう、子どもクラブができまして…ちょうど、礼拝堂が新しくなった機にですね…小学校の…いま、この叫び(現場の子どもたちの遊ぶ声)がありますように…とにかく、子どもたちは
目一杯…子どもクラブの中で、力一杯遊ぶわけですから…白い、新しくできた壁なんかもですね…野球のボールのあとが、どんどん、ついてですね(笑)…見る見る壁が汚れていくわけですね。そうすると、教会の長老さんたちがですね…文句、言うわけですね。自分たちが一生懸命に作った礼拝堂をね…いくら子どもを世話するっていったってね、こんな汚れたものは許せない!って(笑)…。まあ…インハ先生は、もう…長老の方々から文句言われるわけです。インハ先生としては、民族性を守って、子どもたちを大事にしたい…。子どもたちのですね、生活を守っていくのに、礼拝堂はどんどん汚れていく…。「関田さん、どうしたもんだろうか」っていうことで、僕に相談に来られたことがありましてね…。「いやあー、先生、実はね…僕もいま、無認可の保育園を始めてるんですがね…いっぱい、子どもたちはね、命いっぱい…活躍しますからね。うちの教会でもね、壁に、いろいろとクレヨンで書いちゃうんですよ。でも、先生ね…イエス様の教会っていうのはね…そういう、目一杯、子どもたちが命を発揮している…そのために汚れていって…いいんじゃないですか」…「イエス様の教会っていうのは、汚れていいんじゃないですか」って言って…。そしたら、「そんなもんかなあ」なんて…。ほんとに、そういうときに、心が結ばれましてね…。そんなことでもって、一緒に…川崎の保育問題を…やっていたわけでありますけど、そのときに、そういうことをたまたま、観察に、見学に来られた…イトウ・サブロウ(伊藤三郎)っていう市長さんがね…非常に心をうたれたらしいんですね…。宗教法人の韓国の教会でね…日本人の子どもたちが、こんなにね…お世話になってると…。礼拝堂はこんなに汚れていくと…。スペースを確保するために、礼拝堂の椅子をね、ぎゅーっと引っ張っていく…。それで、広くする。床に傷がつく。これは、申し訳ないと…。だから、日本人の子どもたちと、韓国の子どもたちと…一緒に出会うことができるようなね…そういう施設を…市でもって考えましょう、って…。それが、この「ふれあい館」のアイデアだったんですね。それで、インハ先生は、その間、努力をされまして、特にね…教育委員会との対話で…なんで、こんなにね、桜本小学校…東桜本…中学校…すぐ、この近くの…公立学校でもって…惨憺たる、この民族差別…。それは、もう、ほんとに…考えたらきりがないくらい…痛ましいことがあるんだけども…。あの…ランドセルの中にね…給食の味噌汁をぶっこまれたりね…。冷たい冬の雨の日に…ズック、隠されちゃってね…女の子がなきながら、裸足で帰ってきたっていう…。それを、オモニが言うわけですね…。で…インハ先生の努力によって…なんとかして、教育委員会で、このオモニたちの話を聞いてもらいたい!っていうんで…。で、川崎教育会館、会議室でね…いまの、講堂で…教育委員会の先生方と…それから、インハ牧師…それから、オモニ、アボジ…。それから、川崎高校の先生方が…ボランティアでやってきて…司会するっていう…。

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関:子どもクラブの責任者のイ・サンホ君が司会の…一緒にするっていう…そういう状況でですね…そのオモニたちが泣きながらですね、いま言ったような、差別の事例を言うわけですね。先生方はね、現場を見てないから、「差別はない。差別はない」っていうふうに…あり得ないと…いうふうに仰るんだけどもね…。それが、こう…事実とぶつかってくるわけです。激しい言葉が飛び出しますしね…。そのとき、イ・インハ牧師は一番前に座っててね…「先生方、聞いていただきたい」、と…。「先生方は、我々同胞の子どもたちに対する教育をね、恩恵とお考えですか…それとも、権利とかお考えですか?」…って聞くんですよね…。先生方は、もう、厳しい…若いアボジの批判の言葉にショックを受けてたからか…一生懸命に、こう…黙って…メモばっかりしてるわけですよ…うつむいてね…。答えられない…。そして、「もし、私たちの同胞の子どもたちに対する教育を恩恵とお考えなら、私たちは屈辱です」、と…。「権利とお考えいただきたい」、と…。「自然法から言ってもね、人間、誰しも生まれて、教育を受ける権利があるはずです」、と…。「これは、普遍的なものです」、と。「そういうことをご理解いただきたい」、と、こう…切なる…順々と…イ・インハ先生が丁寧な言葉で、こう…訴えるわけですね…。それが何度も続きました。その会が終わった後ですね…これが、またね…オモニたちの知恵なんだけども…受け持ちの先生も、知ってる方がいるわけです。会の激しいやりとりが終わった後…オモニたちが先生の袖をつかまえてね…「先生…きついことを言ってごめんね。ちょっと、そこに焼肉、つきあってちょうだい!」って…焼肉屋に連れて行ってですね…それでもって、膝詰めでね、ビールつぎながらね…「きついこと言ってごめんね。でもね、ほんとのこと、ほんとなのよ。うちの子が泣いてるんですよ」って…。そういうことの繰り返しの中で、硬軟のね、方法の中で…教育委員会の先生方が段々、わかってきたですね…。本当の実態を知ることになって…ほんとに、あの…イ・インハ先生の功績だと思うんですけど…。教育委員会がすっかり意識が変わってきましたね…初めて、川崎市…「外国人教育基本方針」っていうのを、出したんですね!…。だから、民族差別のことについて…述べてですね…そして、新任の教員については、1年間、川崎市の教育としては、民族差別の学習を1年間続けるっていうことが、条件になってる。まあ…そういうことでもってね、ほんとに教育委員会の意識が変わってきたし…それで、また…イ・インハ先生との、非常に豊かなね…日韓の交わりが、そこに生まれたわけですね…。その流れのなかで、伊藤市長が…なんとしても、これはね…日本人、韓国人…子どもたちとのふれあいの場を作ろうっていうことになって…この「ふれあい館」のアイデアがね…具体化してきたわけなんですね…。

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関:それで、そのことが公にされたときにですね…一番、激烈に反対したのがね…桜本の町内会長…。それから、子ども会の会長…。朝鮮人にまかしたらね…この施設は、朝鮮人の施設になってしまう…。許せない!って、言ってから…反対だ!っていって、ビラまでまかれてね…ほんとに、この…つらい…時期が続きました…。私とね…先ほどの、裵 重度(ぺェ・チュンド)さんと、私と…インハ先生と、3人で雨の中、傘をさしながらね…一軒、一軒、町内会長の…訪ねましてね…「そんなことはない」と…。「これは、市の設備であるから…施設であるからね…お預かりするけども…市の設備ですので、けして、そんなことはしない」…。むしろ、それよりも…日本人と韓国人、朝鮮人とがですね…仲良く、一緒に生きる道を拓くための施設で、って…説明を…するんだけどもね…中には…わかってくれる人もいましたけども…子ども会の会長なんか…あるところに行ったときには…玄関先でね…「お前たちの話は、聞く耳を持たんわ!」…「出ていけ!」(笑)…。おん出されて…それで、もうね…ほんとに、もう、寒々とした気持ちで…帰ってきたことがあったんですけどもね…。しかし…そこでもって、市の方で…じゃあ、その…3年間ね…教育委員会から出向して…館長を務める、と…。その後、3年、のちにね…実績をみて…再度、考えるっていう…条件を出したもんですから…うーん…町内会も、まあ…納得してね…それで、始まったわけです…。

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川崎市ふれあい館

関:始まったところがね…まああ、とにかく…日本人の子どもがかけつけるわけだし…それから、いろんなプログラムの中にね、日本人も参加するわけだし、識字学級でね…韓国のおばあちゃんたちが一生懸命にこう…文字を学ぶわけだし…特に4月のね…桜祭っていうのは、そのときには…必ず、韓国の…若い、あおい人たちのね、チャンゴと銅鑼と、それから、笛のね…要するに、能楽のメロディーでもって、その祭りに参加するわけですよ。それが、ほんとに、こう…日本人と韓国、朝鮮人の豊かな交わりが増えていく…。ほんとに、民族共生っていう実りが出てきてるわけですね…。そんなことでもって、本当に、川崎市長が英断を下してね…この「ふれあい館」を作ったということは、ほんとに素晴らしいと思うんですね。ちょうど、ふれあい館のね、その開館のときに、僕は立ちあったんですけどね…イ・インハ牧師と、それから、韓国教会のね、長老さんで…青丘社の理事長だった方…ええ、キム:ホンシクさん、っていったかなあ…。それと、伊藤三郎市長とね…。インハ先生が司会をして…セレモニーが五つ、続いていって…で、伊藤市長の方から、ふれあい館の鍵をですね、キム・ホンシクさんの方に渡して…「ふれあい館の鍵です」って…。キム・ホンシクさん…長老さんがね…「この鍵は、桜本地域に対してね…場を拓ために、の鍵として受け取ります」って(笑)。「開くための鍵として、受け取ります」っていうのが、忘れられないですね…。そうして、その後ですね…和太鼓とね…韓国のチャンゴとのね、合奏なんですよ。同じリズムで、ドンドンと…。和太鼓とチャンゴがね、一緒に演奏するわけですね。それで、もう…伊藤三郎市長も、ニコニコ笑ってるし…韓国のオモニたちやアボジたち、みんな、やってきて、ほんとに喜んで、拍手、拍手して…ほんとにね…素晴らしい…人数は、そんなに多くなかったですけどね…3、40人いたかしらね…。この庭でもってね…。やったんですよ…。それが、ふれあい館の出発だったですね…。そして、識字学級には、もう…たくさんの日本人の夫人たちが…やってきて…とっかえひっかえ…ハルモ二たちに、日本語を教えるんですね。そのことには、ほんとに、ハルモ二たちは感謝されて…素晴らしい、日本人との交わりが出来ましたしね。そんなことで、ふれあい館の働きっていうのは、ほんとにね…素晴らしい…。まあ…インハ先生は、そりゃあ、いろんことがありましたけども…インハ先生が10年前に…亡くなられたんですけどもね…結局、それはね…肺疾患なんですよね。先生は、教会を辞めた後もね…息子さんたちが川崎のずーっと北の方のね、空気のいいところで住んでらっしゃるから、川崎の北に来いって言われたんだけどもね…インハ牧師は、「いや、同胞のいるところに自分もいるんだ」って…いうことで…。それで、この、池上町に家を持たれてね…そこで住まわれたんだけども…そこは、もう…産業道路に面してますからね。とにかく、トラックの走る排ガス、排塵のとこですよ。そこで、先生は肺疾患で…83歳で亡くなられたわけですけどね…。最後の最後も…ものも言えなくなって…酸素吸入してらっしゃるときに…行って…握手してね…。ものも言わなかったけども…とにかく、お祈りして別れたんだけども…。遺族の、家族の方々に…自分の最後のときに、送る言葉はね…関田に頼んでくれ、と…言われたそうです…。亡くなるときに、東京の韓国教会で…700人ぐらい集まったそうですけどもね…そこで、葬式がありまして…インハ牧師を送る言葉を…また、そこで、遺族の要望があって…申し上げたのは…。インハ牧師ともあろうお方がね…韓国人の立派な牧師さん、いっぱいいらっしゃるわけですよ…にもかかわらずね、私に最後の言葉を述べろって言われた…。そこに、僕はね…ほんとに、彼の…まあ(涙ぐむ)…友情というかね…信頼というか…。ほんとに、尊い…役割をいただきました…。

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関:そんなことでね…インハ牧師が亡くなった後、6月に亡くなられてね…9月にね、亡くなった後にすぐに…ふれあい館、当時、創立20周年の会が、東桜本(おそらく、桜本小学校)小学校であったんですよね。そのときに、20年経ってるわけですよね。町内会の会長さんがね、まあ、新しくなった方なんですけどね…ふれあい館は、我々、この地域に住むものにとってはね…なくてはなんらない大事な存在です、って言ったんです。その町内会長がね。その言葉をね…インハ牧師に、ほんとに聞いてもらいたかったよね。6月に亡くなっちゃってるんですよ…。9月に、その町内会長の言葉が発せられるわけです…。そういう言葉をね…ほんとに、インハ先生に聞いてもらいたかったなあ…と思うんですね…。すべてを川崎のために…民族和解のためにね…捧げ尽くした、インハ牧師のね…この…賜物というか…働きというか…。そりゃ、ほんとにね…この、ふれあい館に刻まれていると思いますし…。私は、ほんとに…この方との出会いの中で…自分自身が変えられていったね…ありがたい、あれを、持っているんであります。

【「指紋押捺」拒否 運動】

それで、まあ…そんなことで、それこそ、「指紋押捺」のときにもね…細かい話になって、申し訳ないけども…さっき、言った…イ・サンホ君というね…児童クラブの責任者だった方が…14歳になると…指紋を押さなきゃいけないわけですよね。そのために…中学生たちが、非常に…まあ、悲しみ、苦しむわけですよね。で、イ・サンホ君が、ちょうど、切り替えのときにね…自分が、この指紋制度のね、この、悪い制度を…乗り越えるために…自分から…指紋を…拒否するっていうことで…。それで…指紋を拒否したんですね。そのときに、前もってね、意志がはっきりしてましたから…警察にもね、言って…本人が、こういうふうに言ってるから…無理無理、イ・サンホを逮捕しないでくれ、と…。ちょうど、そのころ…さっきの、伊藤三郎市長がね…この人は…全国市長会の議長でもあったんで…この、伊藤三郎さんっていうのは、やっぱり…まあ、あの…川崎の市労協というか、市の労働組合の中から出てきた、市長さんですからね…それが、よく、わかると思うんだけどね…とにかく、記者さんの前でね…外国人登録法の側に問題があると…だから、川崎市に住んでいる…外国人市民が、仮に指紋押捺をしなくってもね…地方自治体としては…告発しません、と言ったんです。「法も規則も、人間愛をこえることはできない!」って…(笑)この有名な言葉がね…新聞記者の前で言ったもんだから、大変な、これは、反響を呼んだんですね。「法も規則も、人間愛をこえることはできない」っていうんで…。この発言はね、伊藤三郎さんの発言…これは、やっぱりね…インハ牧師との交わりの中から出てきたのだと思うんですよね。それで…そういう市長の発言があったからこそね…外国人市民であるイ・サンホ君の…この、拒否についてね…逮捕しないでくれって…私と、それから…神奈川大学の梶村先生っていう、有名な…この方はね、朝鮮史の問題…ほんとに、素晴らしい学者でしたけどもね…。梶村先生…何人かの、教会の牧師なんかと一緒に、臨港警察に行ってですね…「逮捕しないでくれ!」っていう申入書を出したんだけどもね…結局、法務省としてはね…伊藤三郎の発言にもかかわらず…法務省の面子があるんでしょうね…とにかく、無理無体に…イ・サンホ君を通勤途中で、逮捕しちゃったですね…。

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関:それで…インハ先生から電話がかかってきて…「イ・サンホ君が逮捕されたんだ!」って…で、臨港警察にものを言いに行こうと思ったんだけども…インハ先生に、一緒に来てもらえないか、って…「はい、行きます…行きます」って言って…で、まあ、一緒に…教会に集まってね…20人だか30人だったかなあ…ささやかな、ささやかな…在日のアボジ、オモニのね…一緒に、ぺェ・チュンドさんも行きましたけどね…。臨港警察に捕まっていますからね…そこへ行って…それで、抗議しに行こうっていうんで…。そのときにね…ささやかな…こう…隊を組んだわけではなくて、ずらずらと…並んでいくわけなんですね…。一番後ろの方に…保育園のオモニと一緒に並んで行ったら…一番前に立ってた、座ってた…歩いた…インハ先生が後ろを向いてね…呼ぶんですよ、僕をね。「僕ですか」って聞いたら、「そうだ、そうだ」って…。「来てくれ!」って。それで、行きましたらね…「一緒に歩いてくれませんか」って…言うんですね。ハッて、そのとき思ったのはね…インハ先生はね、朝鮮戦争中にね…朝鮮半島の植民地支配の中でね…日本の警察権力がね…どんなに朝鮮民族を痛めつけたか、って…。身に染みて、知ってるわけだから…インハ先生はね。ひとり、いま…日本人の…日本の警察に抗議に行くわけでしょ。そのときに、さすがにね…僕を呼んで…一緒に歩いてくれ、って言われた…。そのときの、先生の辛そうな気持ちがやっと分かってね…申し訳ないなあーって思って…。先生、ごめんなさい。失礼しました、って…。一緒に行きましょうって…こう…腕を組んでね…で、角を曲がって…ゲートの前に行ったら、ずらーっと並んでるわけですよ、もう、分かってるからね。一歩も入れようとしない。で、インハ先生が…抗議の文書を持ってきてね…所長を呼んでくれって…。「所長はいない」って…。「じゃあ、この件については、責任者は誰だ」って言った…。「責任者を呼んでくる」って…。責任者は警備課長ですね…。市民課が来るかと思ったら、警備課の課長が来るわけですよね。そこに…こう…在日問題は、警備課の課題だって…その扱い方にね、またショック受けるわけですけどね…。警備課が来たのかって…。それで、インハ先生が抗議の文書を読んでね…。しかし、また、それを受け取らない…。ところが、一緒にやってきた…オモニやアボジたちがね…チャンゴと銅鑼とでもってね…ジャンジャガジャンジャガ…ゲートの前でグルグル回りながらね…「イ・サンホ君、頑張れよー。イ・サンホ君、頑張れよー」って…こう…叫びながら回るわけですよね。あとで聞いたら…イ・サンホ君が、よく聞こえていてね…ほんと、励まされたって…あとで、言ってましたけどね…。そんなふうにして…とにかく、抗議デモを…。そのときは、またね、若いオモニたちのね…度胸というか…知恵というかね…並んでいる警察官の前に立って…「お巡りさん!…トイレ行かせてちょうだい。トイレ行きたいの」って(笑)…「これ、人権問題よ!」って(笑)…。さすがにね…トイレに行きたいって、若い女の…オモニにね…あけるわけですよ・だから、ぞろぞろ、ぞろぞろ、みんな、トイレに行くわけですよね。ユーモアというか、なんというかね…。そこらの、したたかなね…在日のオモニたちの度胸というか…。子どものことを考えて…必死になって…動くんだろうけどもね。ユーモアたっぷりの…発言と行動でね。そんなこともあって…。やがて、弁護士が来ましてね…接見するから、引きあげたらどうですかって言うんで…引き上げたんだけども…。

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関:その晩にね…市労連のホールでもって…イ・サンホ君を支える会、励ます会だったかな…。やっぱりね、3…400人、集まりましたね。そこでもって、いっぱいのところで…インハ先生がまずもってね…市長が…こういう発言をしているのにもかかわらず…国の方としては、イ・サンホを逮捕した、と…。地方自治体のね、権限を無視してね…国家が動くということは、どういうことなのか…ということで…順々とまたね…インハ先生らしい…おだやかな、しかし、説得的なね…言葉を語られてね…。ぼくにも、また、回ってきて…ぼくも、また…実は、あの…キング牧師と僕は一遍、文通したことがあるもんですから…。キング牧師から、言った言葉の中にね…自分たちは、一番苦しい状況に立ち至っているけれども…1961年のときの…送った手紙の返事でしたからね…。一番苦しいときに立ち至っていると…。けれども…すでに、勝利してる…。なぜなら、この運動は正しいからだ、って…。自分の人生は、いつ終わるかわからないかもしれないけど、しかし、この運動は続く、と…。なぜなら、正しいからだ、って…。手紙をもらっているんですよね。その言葉を引用しながらね…正しいことを行っている、そのときにね…どんなに、力で押さえつけてきてもね…正しいことに従事する…人間解放…正しいことに関わっているということで、すでに…すでに勝利してるんですよ、って…。バーと拍手してね…。そしたら、弁護士がやってきて…で、イ・サンホ君からみなさんにことづけがありますって…。ことづけ、なにかって…イ・サンホ君のメモを読みますからって…。それで、弁護士が、そのメモを読むわけ。「わたくし、イ・サンホは、鳩のごとく素直に、蛇のごとく賢く闘います」、って(笑)…。それは、イエスの言葉なんですよね。その言葉を引用して…闘います、って。まるごと、バーッて万来の拍手でね…そんなことでもって、ほんとに、盛り上がったですね。で…結局、それで3、4日…留置されて…まあ、一応、釈放されましたけどね…。いろんな経過があって、何人も何人も、とにかく…それこそ、在日の宣教師たちが、次から次からね…カトリックもプロテスタントもね…指紋拒否しましたね…。

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関:指紋の側に、こう…つまり…指紋押捺してね…本人確認のためって言ってるけどもね…本人確認するのに、指紋でね…本人確認するというのは…まあ…区役所側にある、本人が持っている、国が保存している…三つあるわけですよね…。それを照合して本人確認なんてことはね…普通、できないわけですよ。拡大鏡かなにかで、じっくり見なければ…できないわけですよね。みんな、写真でやってるわけですよ。なぜ、あえて、指紋をとるかっていうと…90パーセントが警察用なんですよ。ということはね、在日外国人はね、犯罪予備軍だっていうことなんですよね。そういうことがわかっているからね…宣教師たちが、次から次からね、指紋拒否しましたね…。ついに…指紋制度は終わりましたけども…。最近またね、別なかたちで始まってますけど…。ニューカマーには始まってますけどね。とにかく、そういう動きの中でね…イ・サンホさんのために、ほんとに、インハ牧師が努力して、動いて、働いてね…ほんとに、それこそ…イ・サンホ君もいま…ここに通っていますけどもね…。素晴らしい働きをされましたし…。

【「就職差別」問題・裁判闘争】

それから、日立の就職差別、これも…有名ですから、詳しくは言いませんけども…とにかく、日立の就職裁判で…パク・チョンソク君がね…12回か…就職差別…就職運動をして…全部、はねられた…本名のために。だから、「あらいしょうじ」という日本名を使ったら、一発で…日立に採用されたっていうね…。で、一週間勤めた後…戸籍謄本出せって言われて…在日であるということがわかった…。で、首を切られた、と。それで、裁判になったわけですけど…。4年間の、素晴らしい…中平さんという、クリスチャンの弁護士で…ほんとに、いい働きを…弁護してくれましたけど。全面勝利でね。パク・チョンソク君が、終わって…で、彼は、日立に勤めましたけどね。明日、勝利の判決が出るっていう、その前の晩にね…この教会に集まりましたね…感謝の集まりがあったんだけども…そのときに、インハ先生が司会をしてね…明日、勝利の宣言が出るということで…。みんな、ほんとに、喜んでね。この教会の長老の方が…白髪のね…お歳の方が前に立って…自分はね、この裁判には反対だった、と。日本人と朝鮮人がね…争って、勝ったためしがないんだ、と…。負ける裁判、やめろ!って、ずーっと反対してきた…。おもいがけもなくね…今日、この日を迎えてね…ほんとに、驚いている、と…。若者たちの力だ、って…。若者たち、おまえたち、ほんとに、よくやってくれたって、深々と頭を下げたんですね…。韓国でね…お歳よりの先輩がね…後輩…若者に向かって、頭を下げるなんてことは、滅多にないことなんですね…。そういう、倫理があるわけですから。そのときに、深々と頭を…よくやった、よくやった、ありがとう、カムサムニダーって…頭を下げて…そのときに、すすり泣きが起こった、すすり泣きがね…。うん…そのときに、はじめて…在日が…裁判で日本の法廷で争ってね…正義が認められて…。そして、憲法違反だっていうことでもって…日本の憲法において…在日が救われた、と…いうことでもって、ほんとに、みんなね…感謝、喜んでね…。そして、そのあと…力強い讃美歌が歌われてね…あの場面をいまでもね…ほんとに、忘れられない思い出でありますね…。初めてのね…あそこからね…在日コリアンというのがね…日本で生きていこう、と…日本で一緒に生きていこうというね…その思いになれたのがね…あの裁判が大きく…きっかけになったと思っていますね…。そんな現場をみてきてるわけなんですけどね…。

【差別の本質】

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差別っていうのはね…まあ、宗教的なあれで言えばね…原罪的な事態であってね…人間性そのものに、こう…巣喰っているというか…人間性から切り離せないね…負の部分だと思うんです、差別っていうのは…。どうしても、差別せざるを得ない…それが、人間性そのものが…そういうものだと思うんですね。というのはね…これもね、インハ牧師から聞いたことなんだけどね…アメリカなんかだって、中西部のある町でね…理髪店をやっていた黒人の人がいると…。非常に丁寧に、理髪をするし、白人も、みんな、利用してね…すごく、好感を持ってる…。それで、「いいやつだ、いいやつだ」って、評価が高い。その黒人の理髪店の方…家族ぐるみ…パッと、あるときに…どこに行ったかわかんない、消えちゃったって、言うんです…。「あいつ、どこに行ったんだろう」って、白人が噂をして…あんな、いいやつはいなかった…なにしろ、あいつは…自分がなにものだって、わかってたからなあ、って…言うんですよね。自分がなにものかって、わかってたっていうことは、黒人だっていうことがわかってるから、白人からちょっと低くね…自分を位置づけていた、と…。それをね、白人たちはね…だから、いい男っだ、いい男だ、って…。同情し、可愛がり、好意を持つってね…。ところが、それが差別なんですよね。だから、普通の、差別が常識化している社会においてね…その、差別されている在日コリアンにしても、黒人にしてもね…同じように人格として…むしろ、尊厳性に目覚めて…同じような言葉を語り…自分自身の立場を認め、発言し始めると…「生意気だ!」ってなるわけです。「生意気だ!けしからん!」…。こうあるべき(上下関係)なんじゃないか!、って…そういうね…比較から始まる…差別というかね…。それが、典型的なヘイトスピーチですよ。ヘイトスピーチの、あの恐るべきね…おぞましい発言の裏っ側にはね、劣等感の裏返しがあるんですよ。「朝鮮人のくせして、あんなとこに行きやがった!」(高い位置)って…こういうね(笑)…変な言い方ですけどもね…。姜尚中さんにしてもね…弁護士の人も、お医者さんも…韓国、それから、台湾の人も…どんどん上がっていくと…。そういうのを見てると…憎らしくて、仕方がないっていう…ヘイトする日本人ですよね…。自分自身がそこまで行けないっていうか…。そういう方々が…憎悪を感じるわけです…。それが、ヘイトスピーチの…もう…根幹にある問題ですよね…。そういう体質というか、そういう傾向性というのはね…人間、誰でも持ってる…差別はなくならない…。なくならないけどもね…それに気づいて…差別に抵抗するっていうことをしない限りは…差別に…あの…協力してるわけですよ…。自分は、韓国・朝鮮人を差別してません…差別してません、というのは多いけどもね…。部落差別なんか、してません…とうのもね…差別に気づいてね、一緒に抵抗するというところまでいかないと…差別してない、と言えないと思うんですよ。黙ってるかぎりはね、構造的な差別…差別構造になってるわけですから…。これは、構造に加担することになるわけですね…。黙ってるかぎりは…差別してるんですよ。だから、それは、人間性にまつわるね…もう、原罪的なね…人間性と切り離せない…ものだと思う…。だからこそね…人間…それこそ、教育の中で、自分は差別する人間なんだ、と…いう自覚に目覚めるときね…初めて、そして、また…痛んでいる人間と…足並みをそろえてね…同じ、この、差別に抵抗するっていうところにいって、初めて…共に生きるということがね…実ると思うんですよね…。

【「現場」から学ぶことの貴重さ~「現場」から生み出される言葉】

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関:その他、いろんな…たくさん、ありますけどね。もう、限りない…時間ですから。とにかく、そんなことで、わたしとしては…このインハ牧師の…ともにですね…49年…一緒に歩んできて…わたしなりに、考え方が変えられ…生き方が変えられ…ですね。そのことは、ほんとに、大きな感謝です。でも、わたし自身の教会のことについて、ちょっと、ふれていきますけども…。わたしも桜本で教会…して…そのあとですね…長男が、この川崎の大気汚染のためにね…喘息になってしまって…医者から転地を勧められたもんですから、やむなくね…長男がまだ、2歳か3歳のころですけど…喘息になってしまって…ある方の紹介で…戸手っていう、多摩川のね…堤防のすぐ近くの…引っ越ししたんですけどもね…。まあ、長男はいま、元気になって、働いていますけどね。そのときに…桜本でも始めたし…それを続けて、戸手でもやったんだけども…。小さな無認可の、保育園をやって…地域の方々のためにね…なんかお役に立つことをしたい、っていうことで…地域のために保育園をやったわけですけども…その保育園の中でね…やっぱり、この…「いと小さきもの」というか…障害を持ったお子さんが、入ってくる…迎えたんですね…。そのころ、川崎…市の方では…公立保育園でね…障害児を迎えなかったんですね…。だけども、妻が保育士の資格を持ってましたので…もう、たまりかねて…保育を始めたんだけども…。で…そもそも、桜本で始めたときにはね…結婚して間もなくのことだったんだけども…。とにかく、トラックがどんどん走るような道路の脇でね…若いお母さんが、背中に赤ちゃんをおんぶして…3歳か4歳ぐらいの女の子の手をひいてね…寒い、寒い風が吹くころ…ずーっと立ってるんですよね。妻が上尾に用事があって…出かけて…1時間ぐらいして帰ってくると、まだ、立ってるわけですね…。「子どもさん、風邪ひくから…寒くありませんか…。おうちに入ったらどうですか」、って言ったら…「いやあ、実は、主人が夜間に働いてね…朝、帰ってきて、いま、寝てるんだから…子どもがいると起きちゃうから…主人に寝てもらうために、外で待ってるんです」っていう…話なんですよね。それを聞いて…妻がね…帰ってきて、ちっちゃな礼拝堂でね…9坪、ほんとに小さなスペースだけどもね…昼間空いているじゃないかと…。このときにね、あの、三交代で働いて、朝帰ってきたお父さんをね…寝かすために、寒い思いをしてる子どもを考えたらね…この中に入れてもらったらいいじゃないか…って。役員会で話しましょうよって。で、まあ…役員会で話をしたら…牧師の責任でね、預かるなら、預かっていい、と言われたもんだから昼間空いている礼拝堂にね…椅子、片づけて…。それで、無認可の…こひつじ保育園っていうのを始めたんだけども…。そのことを妻が、そのお母さんの家に行ってね…こんなふうにして…奥さん、預かることができますけども、どうでしょうか、って言ったら、もう…涙流して、「そんなこと、していただけるんですか」ってお母さんが涙して喜んでね…。「ぜひ、ぜひ、お願いします」って言って…で、翌日から来始めた…。2,3日したら…次から次から来るわけですよね…長屋ですからね…長屋から…。で、一週間経ったら、23人、子どもが集まった…。そしてね…こひつじ保育園というのは、うちの妻がね…子ども、23人抱えてね、無認可ではとてもやっていけないということで…どうしようか、って…。明治学院の社会福祉学部の、学生の方々にボランティアをお願いしようよって言って…。で、まあ…電話してお願いしてね…。快く来てくれて。とっかえひっかえ…明治学院の社会福祉学科の学生がボランティアで、保母の助けにきてくれましてね。それで始めたのが、こひつじ保育園…。そのなかでも、さっき言ったように、壁が汚れていくんだけども…。

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それで、戸手の方に移りましてね…また、もう、今度は…これもね、やっぱり、なんというか…川崎市で長く、中華料理をやっていた方がおられてね…中国人。中国人に…結婚した日本人の夫人なんですね。これもね、まあ…みゆさんという人なんだけども…戦争中に、乳飲み子を置いて…妻が亡くなった…家族なんですね。6人か、7人、子どもがいたのね。一番小さな子どもは、乳飲み子だったんですね。それをみかねて、その…ナカマルさん、という夫人がね…この人も、さまざまな家庭の事情があって…水商売の仕事をずーっと続けていた方なんだけども…。みるにみかねてね…自分の方から中華料理のお店の方に入って行ってね…乳飲み子の…その方の世話を始めた…。戦争中ですからね…。戦争中に中国人と…チャンコロ。チャンコロっていって、みんな、差別を受けてるわけですよ。その家に、自分から入り込んで行ってね…乳児だった、赤ちゃんを育ててね…。それで、結婚式もしないまんまに…とにかく、中華料理の店を手伝って…自分が結核に病みながらもね…とにかく、頑張って、頑張って…川崎で…あそこの…本町小学校のすぐ近くの店ですけどね…。そこでもって…。なかなか、そういう苦労人はね、世の中の動きというのがよくわかるもんだからね…。つまり、そろばんが、よくわかるわけなんですね。その人の知恵を借りてね…その、戸手のスペースを紹介してもらって…。その人がね、必ず、あとに役に立つからね、一軒分、土地があるけどもね…前が空いているから、二軒分、買いなさい、って。私が援助するから…って言われて…一軒分の土地の前にある、もう一軒分の土地を買ったんですね。果たせるかな、それがね…無認可保育園の、こひつじ保育園の…場になってきたわけなんですよね。

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関:そのときに、障害を持ったお子さんのね、受け入れるっていうことで…。川崎市の方で、断わられているからって…相談にくるわけですよね。市の方で断わられたけども、無認可のお宅で、うちの子どもをね、預かってもらえますかって言うんで…それで、家内も、障害保育っていうのは初めてなんだけどもね…勉強しますからって言って、預かって…よくね…家内も障害児保育はどうなんだろうかっていうんで…滋賀県の近江学園に行って…障害児のことを一生懸命勉強してね…帰ってきて…。それで、障害児保育…。18人のうちの、6人が障害を持った子どもだったですね、自閉的傾向の子とかね、筋ジストロフィーの子どもとかね…。それから、ダウン症の子どもとかね…。そういうところで、一生懸命、妻と、それから、明治学院を卒業した方、ボランティアの方なんかが来てくれたりして…それでやってたんだけどもね…。そのときに、私も…大学の研究日っていうのは、一応…学校、休みをとれるんですよね。そのときに、研究日だから、勉強しなきゃいけないんだけど、無認可保育園で…妻が一生懸命やってるもんだから…手伝う気持ちでもって、ちょっと…出たんだけどもね…。そのときに、こんなことがあったですね。ダウン症の子どもでね…言葉が出ないんだけども…。ある子どもが、この…小さな椅子を上げては、バタン、バタンと、こうね…これが、なんか面白いんだね。やってるんですね。そこにダウン症の子どもが寝っ転がって、パーッと倒れたんですね。ここに(手に)、椅子がバンって当たったんですね。キャーって泣いたんですよね。あ!、これは痛かっただろうって思って、その子を抱きしめてね、あー、痛かったね、痛かったねーって、抱いて…言葉は全然出ないのね…。痛かったねーって、抱いてね…。しばらく、抱いてたの…。それで、お弁当…お昼が終わって…また、午後のプログラムで、丸く椅子を並べていって…。そのときに、ダウン症の、その子がね…椅子を持ってきて、並べて…あいてる椅子を持ってきて、並べてね…僕は、こう…引っ張るんですねよ。それで、ポン、ポンって…ここに座ってくれ、って…。ダウン症の男の子がね、僕を引っ張って…隣に座ってくれ、って…。ほんとに、心をうたれたっていうか、感動しましたね。その子の手の痛みをね…抱きしめて、痛かったねーって、さすった…その…なんていうか…皮膚の接触っていうか…。そういう、ボディーの接触っていうか…。そのなかで、伝わるものがあったんでしょう…。自分が…座ってくれって(笑)…。そのときに、あー、ここにね…ここに言葉があるんだなあー、これが言葉なんだなあー…っていうことをね…しみじみ感じましたね…。この子に、僕はいま、受け入れてもらったんだあ!…。そんなことがね…やっぱり、なんていうか…大学の教師として教えている人間がね…その小さな出会いの中でね…いったい、学問とはなんぞや、と…。学問を踏まえた上で…生きていくということが、どういうことなのかっていうね…話はつながっていくわけですよね…。大学の中で、君たちが…卒業して…社会生活に入っていくときにね…出会いの中で…なにが大事かって…。こんな小さなことからね…自分は教わっている、と…。どうなんだって…というようなことをね…講義の中に、雑談としてね…その話題を入れるわけです…。そうすると、学生はね、すごく、反応するんですよね。そんなことがね、やっぱり、こういう小さなことがね…大学の言葉になるんだっていう(笑)…。そこでも、人間にとって…言葉とはなんぞや、っていうことがね、また…非常に…自分にとっても…教わってきたし…。

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関:あー、こんなこともあったですね。クリスマスの日程を決めようっていうんでね…保母さんが一応、決めたんですね。そうするとね、筋ジストロフィーの男の子がいてね、その子は毎週一回、川崎市の障害センターというところへ、筋肉トレーニングに行くわけですね。どうも、クリスマスの日程がね、その子がセンターに行く日に重なってしまったらしいのね。その子がやって来て、クリスマスが決まったよーってね、それで、カレンダーを見て、自分は行けない、と…。クリスマスに参加できないって…。で、まあ…お母さんが迎えにきたときにね…クリスマスに出られないよーって、泣くんですね。で、お母さんが…「あのー、この子がセンターに行く日なんで、なんとかならないでしょうか」って言って…保母さんに言ったわけね。「それじゃあ、考えてみましょう」っていうことで、みんな、もう一遍集まってね…「それで、しいな君がね、センターに行く日なんで、この日をはずして、もう一遍クリスマス、考えましょう」ってね…。「みんなで決めたんだよ」なんてのも、いたけどね…「しいな君がいないクリスマスなんてつまんないよ」なんて子もいたしね…。みんな、話し合って…それで、別な日に決めたんですよね。そのことも、またね…非常に、こういうことがね…保育園で、子どもの世界に…あり得るんだなあって思って…。クリスマスのときにね…その話をしましてね…17対1っていう、ことなんですよ。普通はね、多数決でもって…決められていくんだけどもね…この保育園ではね…その、17対1の…1の方のことのためにね…17がゆずったんですよ、って。これがクリスマスなんですよー、って。お母さんたち、拍手してくれてね…。そのことも、またね…そこに、こう、なんていうかなあ…障害を持った子どもたち…の命がね…どんなに、こう…大事なものであって…それを数によってね…切られてしまうんじゃないっていう…そのことも、また、教わるわけなんですよね。それこそ、小さな保育園の現場で…。これまた、大学に行って(笑)…多数決っていうけども…いったい、なにが一番大事なのかって、ね…真理っていうのは、数で消え去るか、どうか…。真理ってのはね…数を越えたもんじゃなかろうか…というようなことで、これが、またね、大学の言葉になっていくわけですよ。

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関:それから、あの…こんなこともあって…。川崎の、さっきの粉塵公害でね…ずいぶん、肺気腫、肺がん…うちの息子も、喘息になりましたからね、そのために。公害反対運動をやって…参加して、始めてね…デモなんか、出たんだけども…。そういう、公害反対運動の中で…熊本県の水俣病の患者さんの代表の方でね…ええ…いま、ちょっと、名前が出てこないんだけども…その方をお呼びして…公害問題…公害と国家、ということでもって…講演してもらったことがあるんですね。その方が、川崎の教育会館で講演して、そのあと…最後にね…「私もね、せめて、高等学校だけでも出ていたならば…チッソにあんな真似させませんでしたよ!」、って…で、終わったんですね。この人は、中学しか出てないんですね。で…せめて、高等学校だけでも出ていたならば、チッソにあんな真似させませんでしたよ!って、最後の言葉だった…。それが、グサッと、くるわけですよね…。私は大学で教えている、と…。高等学校さえも出てこなかった人がね…あの最後の言葉で、こうね…叫んでいる言葉は…やっぱり、機会を得ない、チャンスを得ない…そういうようにして…押し込められている…人たちの声を代表してね…彼は語ったのではなかろうか、って…。それは、またね…いったい、なんのための学問かっていうことになってくるわけですよね…。入学式、終わって…最初の大学の授業のときにね…必ず、こういう方の話を持ち出すんですね。大学で学ぶっていうことね…知識はどういうもんなんだ、って…。どういう知識を学ぶつもりなのか、って…。知識には方向性がある…。人間…抑圧のために働く知識なのか…人間解放のために働く知識なのか…。それをね、大学ではっきり…学びなおしてもらいたい…。水俣の患者さんの代表が、こういうことを言って…せめて、高等学校だけでも、って言ってるんだ、と。君たちは大学に入ってきてる、と。その知識は、どういう方向性を持っているのか…。また、大学で話をするわけですよね。

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関:私にとって、大学の学問っていうのはね…川崎での…公害問題…民族差別の問題…保育の問題…そういうところで、出会ったところからね…生まれてくる、経験…といっていいかもしれない…経験から生まれてきた、言語…それがね、私にとっての…大学での言葉なんですね…。大学での言葉っていうのは…重箱の隅をつつくようなね、細かい、歴史の些末なことを…理論的なこと、いろんなこと…もちろん、それも大事だと思いますけどもね…生きることをめぐってね…基本的な言語っていうのはね…現場から学ぶっていうことですね…。それは、ほんとに、大きな力になりましたね…。青山学院で、ちょうど…丸々40年、大学で教えましたけども…わたしにとって、現場から得た言語が、僕の学問の…言語になっていったと思うし…。それが、また、逆にね…そこでの知識が逆に、現場にもどってくる、と…。というかたちでもって…どのように、人間解放にね…知識が結びつくのかっていうところで…この…現場と、学問というか…行きつ戻りつ…というかね…。そういう循環のなかに…ほんとの学問というのは…あるんじゃないのかな…。論文をたくさん書いて、本をたくさん書いて…いわゆる、ドクターコースを、あれしていくような、道筋はあるだろうけども…否定はしないし、当然と思うけれども…。もっと、原点的なところでね、人の、人間をめぐって…どのように生きようか、人生とはなんなのか、っていうことをね…問題にすることが、学問の、教育的な目的ではないだろうか…。その言語は、どこからくるか…。痛み、喘ぎ…苦しみ…悩んでいるね…現場の人間との出会いの中から…初めて生まれてくる言葉ではないだろうか、って…。そういう言葉が生きなくってね、なんで学問か、っていう…そういう、気持ちをね、まあ…90に近い人間ですけど…ようやく、そういうことが、わかってきたっていう状況ですね。

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