「戦中、私は『軍国少年』でした。戦後は、朝鮮半島との和解を求めて…」~牧師・関田寛雄さんの語り / ムービー(日本 / 朝鮮半島)

牧師・関田寛雄さん(1928年8月18日生まれ):川崎市ふれあい館【応接室・図書室】にて

★「戦中、私は『軍国少年』でした。戦後は、朝鮮半島との和解を求めて…」~牧師・関田寛雄さんの語り / ムービー(日本 / 朝鮮半島)

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関田寛雄さんは日本基督教団の牧師です。しかし、戦中は牧師の父親のもとに生まれたため、まわりに差別され、悲しい思いをし、その境遇を恨めしく思っていた、といいます。そうであったからこそ、当時、関田さんは「より日本人らしく」なろう、と思ったそうです。誰もよりも率先して「軍国少年」になりきろうとした、というのです。

戦中、「軍国少年」として生きた関田さんは、それゆえに、戦後は自分自身を見失い、虚無感に苛まれまれた、といいます。最後に救いとなったのが「聖書の言葉」だったそうです。「聖書の言葉」によって、戦後の人生を、もう一度生きなおし始めた関田さん。その後、さまざまな人たちとの出会いをとおして、関田さんの命が形作られていくことになります。

戦後、日本で暮らす朝鮮半島の人たちとの関田さんの出会いは、神奈川県川崎市の桜本から始まりました。その場所は、そこで暮らす在日コリアンの人たちへの「ヘイトスピーチ」がもっとも激しかったところです。この場所は、関田さんが、戦後、生きてきた場所でもあり、関田さんの人生に大きな影響を与え、もっとも強い関係をもった人たちとの出会いがうまれたところでもあった、といえます。

胸がはりさけるような思いも抱えながら、その、ときどきのことを、訥々と語る関田さんの姿が印象的でした。

おそらく、関田さんは何度も何度も自分の生きる姿を見つめなおしながら、考え続け、自らの思考と行いを言葉にしてこられたのでしょう。こちらから質問を投げかけることもほとんどなく、最初から最後まで、ご自身の真摯に生きてこられた経験と思考の連なりを自らの文脈のなかで丁寧に語っていただきました。

撮影日:2018年7月19日・川崎市ふれあい館 (応接室・図書室)にて

聞き手:刀川和也(「隣る人」工房)

制作:「隣る人」工房

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