亡き母・篠﨑シヅの夢が受け継がれた! 宅老所「悠々(ゆうゆう)」から、「隣る人」としての「まごの手」さんへ :「まごの手」大家 / 稲塚由美子

亡き母・篠﨑シヅの夢が受け継がれた!

宅老所「悠々(ゆうゆう)」から、「隣る人」としての「まごの手」さんへ

篠﨑シヅの宅老所「悠々(ゆうゆう)」ありき

前大家だった母・篠﨑シヅは、まだ介護保険制度もない1990年代に、「宅老所を開きたい!」と思い立ちました。それからは、まだ少なかった宅老所を訪ね歩き、仲間と共に念願の宅老所「悠々」を立ち上げました。確か栃木県初だったと思います。これが、今の「まごの手」さんに繋がります。「たんとんとん」と同じ場所で、同じく楽しいお年寄りの居場所でした。

母の口癖は、「人間はただ食べさせて寝せておけばいいってものじゃない」でした。年を取ると、耳も聞こえづらくなり、たとえ息子家族と同居していたとしても、「おかあさんお疲れでしょうから」と自室に(いざな)われ、障子の向こうから息子家族の楽しそうな会話が漏れ聞こえてくる…他の人に話しても、「あら、息子さん家族と一緒なんて幸せじゃない?」の一言で済まされる。母は「蚊帳の外に置かれる」とよく言っていました。年取ってからだけでなく、誰しもが自分のことを十分話し、楽しいと思える場所が必要なのだ、と母は言いたかったのだと思います。

シヅさんを囲んで 2013.4.16 撮影

特筆すべきは、一人一人を大切にする傾聴スタンスでした。利用者さん2人に対してボランティアさん1人と決まっていたことです。利用者さんが十分に話し、ボランティアさんが傾聴する、会話を交わすーそのためには2対1の割合でないとね、というのです。

クリスマス、お花見などイベントも大事でした。ビンゴゲームの景品を選ぶのもはすごく楽しいのだそうです。「共に」「お互いさま」「一緒に楽しむ」「共感する」笑い合いながら「遊ぶ」感覚です。

隣り合う「まごの手」と「隣る人シヅハウス」

しかし、母にも、一緒に悠々を支えてきた父にも老いはやってきます。自分たちが主体として「悠々」を続けることができなくなりました。その後社会福祉協議会が後に続いた時期もありましたが、母は自分の夢との乖離に悶々とする時期が続き、そこで出会ったのが当時別の場所に事務所を構えていた「まごの手」さんでした。

まごの手さんの「お互いさま」「かゆい所に手が届く」理念に運命を感じた母は、まごの手さんを「悠々」のあった自宅隣に誘致したのです。まごの手さんの理念と実践の素晴らしさは介護保険制度が始まってみるとよりはっきりします。たとえば、介護保険制度でヘルパーさんを頼んでいるけれど、買い物にも行きたい、音楽会も行きたい、自分で選んで自分で決めたいのに制度は紋切り型でできないことが多い。だからといって、本人がやりたいことを血縁だけで添おうとすれば、やがて「これをやって当然でしょ」が無意識のうちに始まり、皆が疲弊します。

そんな時に、血が繋がっていてもいなくても、程よい距離感で、かゆいところに手が届くのが、介護保険外の在宅福祉サービス・NPO法人「まごの手」さんでした。スタッフのメンバーさんたちが母を見守り、車いす送迎車も持ち、時給精算で母の行きたい所に連れていきます。お墓参りや病院、講演会もコンサートも一緒に聴きに行って一緒に帰ってきます。介護保険ではできないことをやってくれました。紋切り型の支援でなく、「人間の豊かさ」を保証した寄り添いです。

コロナ禍こそ、隣の「まごの手」さん(兄編)

コロナ禍の中、栃木県野木町の知的・身体障がい者グループホームにいる兄が、妹の私のいる東京との交流が不可になりました。

兄にとって、一緒に笑ったりお喋りが何より大切です。そこで頼るはまごの手さん。栃木県内なら交流OKというので、兄を佐野まで連れ帰り、お風呂に入れ、食卓も囲み、心豊かなひと時を過ごさせてくれました。親族だけではできないことが起こります。近くにいるから手を出し、交代してくれる、「お互いさま」と言ってくれる「まごの手」さんと一緒に生きることは、なんと幸せなことでしょう。

ばおばぶでの「隣る人」上映

懐かしいおばあちゃんち!?

まさか佐野市の河川氾濫⁉ どこでも被災は起こります。前大家の母は、こんな時こそ「お互いさま」と言ったと思います。「まごの手」棟左手に「(とな)る人シズハウス」を開設しました。まごの手さんにおんぶに抱っこの「お互いさまの居場所」ですが、台風19号で被災した老夫婦が、そこに被災後の仮住まいとして引っ越してきてくださいました。

もともと、16年間車椅子生活を続け、90歳で亡くなった母は、父亡きあと、兄が帰ってくるからと、数年間一人暮らしを続け、その間まごの手さんとまさに「共生」しました。母亡きあとも、たとえば一人暮らしのお年寄りが退院後しばらく「隣る人シズハウス」で療養して「まごの手」さんと共生することも夢ではないなあ、と感じたものでした。

さらに、夏に料理教室を開いて頂いた児童養護施設の子どもたちは、「たんとんとん」でも一対一の関係で一緒に遊んだ「自分のおばあちゃん」とつながっています。だから、佐野が被災したと聞いて、すぐに「おばあちゃんたちは大丈夫?」と連絡をくれました。卒園生の20代の若者が被災した家のお手伝いに駆けつけてくれました。心配してるよ、どこにいたってと。「共生」ってきっとそういうことかもしれませんね。本来あるはずの日本国籍を取得しにフィリピンから来日した日比混血児が日本での居場所が見つかるまで「隣る人シズハウス」に住んで、その間まごの手「たんとんとん」の利用者さんたちと遊んでもらったり、お礼に彼がフィリピン家庭料理を作ってくれたりしました。国境なんて感じません。

血がつながっていてもいなくても、血縁に関係なく、関わり合った人が、隣で、押し付けるでなく見守って、できることをやる。ただそれだけで、人はどれだけ豊かに生きられることでしょう。

母は、「まごの手」のメンバーさんが大好きでした。娘の私もいずれ老います。そうなったら、まごの手さん、「共生」させてくださいね、と今からお願いしています(笑)。

「まごの手」大家 / 稲塚由美子(「隣る人」工房)

《認定特定非営利活動法人『まごの手』 24年のあゆみ》に寄稿