この歳になって、あー、あの時もこの時も「バカって言うひとの方こそバカなんだ」という考えを獲得していたら、どれだけ平穏に暮らせただろうとつくづく思う。

 しかも、ひとから誹謗中傷されて傷ついた、悲しかったというだけでなく、自分も、気がつけば「バッカじゃないの!?」とひとを断罪していた。息子よ娘よ、ゴメンナサイなのだが、娘には、「思春期に支配的で管理しようとされたらもう最悪」と鼻で笑われた。

ひとはすぐに自分のものさしで「これが正しいでしょ」「どうしてこうできないの」と言いたがる。正義は自分にあり、だから「どうしてこんな簡単なことが分かんねえかな」と、どこまで上から目線?

もちろん、自分がこうだと信じることや、これが正しいと思うことがあっていい。それでもそれは、世界中のヒトの中のただ一人の考えや信念であって、常識でもなく、ましてや押し付けていい話ではない。みんなが言ってる、みんなやってる、というのも、世界から見たらほんの一部。

だけどひとは、心理的にも身体的にも距離が近くなると、自分の都合のいいようにひとを動かしたくなることがある。

(ひるがえ)って、「光の子どもの家」の職員さんたちの日頃の言動の中に、「本当にこれでよかったのか」といつも悩む言葉がある。距離が近ければ近いほど、「こうでしょ」「どうしてこうできないの」とエスカレートしていき、本人のためだという言い訳も頭をよぎる。怒りもする。時にはバトルも繰り広げる(これについては、「光の子」205号p10小西さんの話が楽しい)。それでも、だ。もしや自分は間違っていなかったか、といつも反省を忘れない。卒園生に対しても、「聴く姿勢」を忘れない。何があっても断罪しない、ように見える。

居場所とは、()れ物のことではなく、「ひと」がいる場所のことだと思う。「光の子どもの家」とは、子どもたちが、職員さんたちとわちゃわちゃしながら暮らす場所。お互い失敗しても、時にはすこ~し離れたりしながら、「並んで」生きようとする場所なのだなあとしみじみ思う。

(ちまた)では、長いコロナ禍で閉塞感が極まり、(いま)だ自由が制限され、さらにロシアによるウクライナ侵攻で脆弱(ぜいじゃく)なグローバル経済はガタガタ。政治の自己責任論による家庭回帰という勝手な理想の押しつけが、子育てを個人レベルに責任転嫁させ、それは家庭、親、子どもへの抑圧構造を激化させる。DVや虐待件数の増大は知るところだろう。結果、のびのびと「遊びと学び」を担保されるはずの子どもの権利が損なわれているのが現状だ。

いつも誰かにとって管理しやすい、言うことをきく子どもを要求されている。世界の中で、日本ほど従順でお利口さんが喜ばれる国はない。そして子どもたちは外に出る。

こんな話をするのも、昨年の夏、大阪から家出してきた15歳の男の子から連絡があったからだ。家に泊めたものの、大人のあずかり知らないSNSで繋がった彼は、また歌舞伎町トー横界隈に出ていった。コロナ感染が再び拡大した頃、子どもを食い物にする半グレたちの姿が見え隠れする中、毎夜歌舞伎町で彼を探して連れ戻した。

それでもトー横は自分の居場所だと彼は言う。本名も住所も知らなくても、ただ干渉しない「友だち」がいるからここに来るという。

それは、今いる家庭や学校、大人社会、それに準じた子どもの世界からの、管理や束縛、抑圧で、そこでの息苦しさを感じていたたまれないのだと思う。それを「わがまま」「不良」と断罪すればコトは済むのだろうか。

誰しもが、のびのびと「バカって言うひとがバカなんだよ」と言い合える関係でありますようにと願ってやまない。

「隣る人」工房 / 稲塚由美子

社会福祉法人 児童養護施設 光の子どもの家 機関紙「光の子」2022年・206号への寄稿

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