「責任担当制による家庭的処遇」で子どもたちを育てていこうとして設立された、この『光の子どもの家』ができてから三十三年が経つ。
ずっと責任を持って、ひとりひとりに対して、一対一の関係で、関係を作っていく。一人の担当者が子ども四名以内を丸ごと担当する責任担当制を採用し、家庭的な暮らしを目標に子どもたちの養育に当たってきた。
その間、巷では、「家庭的処遇」の元となる、ある意味手本としてきた普通の「家庭」なるものの中身に大きな変質があった。
まず目に見える形の変化としては、両親がいて子どもがいての血縁でつながる家族モデルが幻想となりつつあること。ひとり親家庭もあれば、一人暮らし家庭もある。同性同士の親家庭も実質的にはほどなくできよう。いい悪いということではない。いわゆる今までの「家庭」がもっているはずとされた、子どもたちを育む揺りかごとしての家庭の形が変わってきているのである。
形が変化したから中身が変わったというわけではない。変質の元凶は、日本がぐいっと舵を切ってきた「経済的な効率主義」だと思っている。それは、家庭の構成者である人の心に内面化され、早く結果を出せ、うろうろする時間などあるものか、いち早く、一番の近道を見つけて駆け抜けよ、と人々を追い立てる。こうして近視眼的に「無駄」と判断されたものは、価値がないとして排除される。誰も待てない。ミヒャエル・エンデの名作『モモ』に描かれる「時間泥棒」だ。
効率がすべての価値観に知らず毒されると、失敗を許さず、人に考える時間を与えず、人を管理する。「何やってるの」「これが一番いい方法に決まってるでしょ」「バカじゃないの」…こうして家庭という閉鎖空間の中、特に大人と子どもの関係ではすぐ起こってしまう上から目線の支配が始まる。
ここでは家庭に限定して話をすすめているが、これはたとえば企業、学校、行政施設、およそ人の営みの細部にわたって起こっている社会問題でもある。
さて翻って、『光の子どもの家』では、創立以来三十三年が経ち、あらためて原点を問い直すことを、竹花施設長はじめ、それぞれの職員たちが、それぞれの「現場で」考え続けている。
「子どもを中心に、子どものためにという想いはあっても空回りになってしまうことも数え切れず」
「私たち自身の様々な劣化とたたかわなければ」
「そんな乱暴な言葉使わないでほしい。もっとわたしを大切にして。もっと話を聞いてーと子どもたちが言う」
いつのまにか上から目線になってしまう自分たちがある、ということ。また、日々起こる簡単ではないことたちへの対処への失敗、何より、その際の子どもたちの言葉・表情から学ぶのだ、というその心根だけが原点なのである。
また、職員の好きなことを中心に、それを楽しみにする子どもたちが集まって、「温泉同好会」、「肉会」、「チョコ会」、「ヘビ会(爬虫類好きの子どもたちとヘビカフェに行き、ヘビとふれあって楽しむ⁉)」、これから、ゆっくりお昼寝をする「シエスタ会」(これいいなあ!)なんてのもできるかもしれないという。責任担当外の大人と一緒に外出したりもある。担当の枠を超えて、一緒に遊ぶかかわりも大事だというのである。
ただ居続けるだけでいい。ぐちゃぐちゃした暮らしを共にして、泣いて笑って怒って喜ぶ。その繰り返しこそが人を生かす。人を育む。それが『光の子どもの家』であることに変わりはないが、さらに開かれて、外からの風も吹き抜けるように感じる。うろうろすること、それ自体に力がある。外に向かって立派に見せることなど微塵も考えず、正義と正論を振りかざすでもなく、その子供への大いなる共感を忘れまいと、振り返りを忘れない。
それは、子どもたちが、人を信じ、「助けて」と言える人になれることに大いに寄与するかもしれないとも思っている。子どもたちが生きて、よりよき人生を全うできますようにと願ってやまない。
「隣る人」工房 / 稲塚由美子
社会福祉法人 児童養護施設 光の子どもの家 機関紙「光の子」2018年4月・184号への寄稿