その人はその人であるということ(日本/埼玉/ベトナム/フィリピン)

コロナ禍は過ぎ去った!?わけでもないらしい。それでもぼちぼち海外にも行けるようになり、私は7月にベトナム、8月にフィリピンに出かけた。

ベトナムは児童養護施設「希望の村」で、耳の不自由な女の子の里子バンちゃんに会いに行った。希望の村の子どもたちの入所理由は、ほとんど貧困である。子どもを手放したくなくても、食べて行けないし、ましてや学校に行かせてやれない。学校に行く費用や食費を補助する里親だが、それだけでなく、手紙や訪ねることで、あなたのことを大好きだよ、と伝えたり、将来の夢を聴いたりする。コロナ禍でできなかったぎゅっと抱きしめたり、手をつなぐこともできた!。

希望の村(ダナン)入口

世界のどこかで誰かが自分のことを気にかけてくれている。ただそれだけのことがその子にとって大きなことだったりする。希望の村の卒業生で日本に留学する子どもたちは、その後結婚してアメリカに渡ったランちゃんという子もいれば、日本で永住権を取ろうとして、なかなかうまくいかず、転職転職で苦労しているビンちゃんという子も口を揃えて言う。自分を心配してくれる「隣る人」が世界のどこかにいる、それで頑張れるのだという。

ランちゃんの子ども、ラナちゃん(左) ダナンでのビンちゃん(右)

こういうの、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん冥利に尽きるというのかな。相談されたって、できることは限られているかもしれないけど、それでも「う~ん、そっかぁ」「だよね~」「困ったね~」と一緒に悩んだりはしてみる。

フィリピンでは、ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン(日比混血児―特に日本人の父親が行方不明になったケースが多い)の家に滞在して、まだ見ぬ父親に向けて「お父さんはボクを(私を)愛しているんだよね?」という想いの発露を受けとめる、というよりただ聴く。兄妹の中で自分だけ認知されていないマークくんは「どうしても妹に嫉妬してしまう」と言う。自分のアイデンティティーに関わることなので、結論がでないままの子どもたちは、いつまでも引きずるし、反対に私が保証人になって来日し、日弁連の補助を受けて父親捜しをしてもらい、DNA鑑定の結果で認知されたケースもあるが、それで日本に来て万々歳、とはいかない。それでも人生は続く。

「光の子どもの家」の原点でもあるが、人は誰か一人でも心を寄せる、心配する、ただ周りをうろうろする、そんな「隣る人」がいるだけで、生きていける。それは血縁があるなしに関わらず、誰であってもいい。

だけどたった一つ、落とし穴がある。人は、心理的にも身体的にも距離が近くなると、自分の都合のいいように人を動かそうとする。その人はその人であっていいはずなのに、管理しようとする。「この人はこういう人」とレッテルを貼り、「これはどうしたって、こうでなければならない」と決めつける。それが、「差別」や「偏見」の(あらわ)れなのだと自覚するのは、思う以上に難しい。

コロナ禍を経て、人の温もりの大切さを再認識させられた今、「光の子どもの家」とは、子どもたちが、職員さんたちとわちゃわちゃしながら暮らす場所でもあるし、また、血縁であろうとなかろうと、いろんな人が「並んで」生きる場所でありたいとしみじみ思う。おじいちゃん、おばあちゃん、おばさん、おじさんもどき!?みたいな、たっくさんのそれぞれ違った人が、「光の子どもの家」の子どもたち一人ひとりと関わって、つながっていって欲しいなあ。

誰しもが、のびのびと、時にはけんかしてんのかい?と思えるほど、それぞれが言いたいことを言い合える関係でありますように、と願ってやまない。

「隣る人」工房 / 稲塚由美子

社会福祉法人 児童養護施設 光の子どもの家 機関紙「光の子」2023年10月・211号への寄稿

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