「悩ましいよなぁ…」それが菅原さんの口ぐせでした。
子どもとの暮らしの中で、「これがよかった」と結論づけられるやり方などありはしないと宣言されているかのような厳しい現実がある。それでも、日々起こる簡単ではないことたちへの対処への失敗、何より、その際の子どもたちの言葉・表情から学ぶのだ、というその心根を原点とし、永遠とも思えるほどに、いつも悩み続けていました。だから独断専行せずに、相談し合うことができた。まるで柔らかい風が吹いているようでしたね。
「責任担当制による家庭的処遇」で子どもたちを育てていこうとして設立された、この『光の子どもの家』ができてから三十四年が経ちます。
相変わらず世の中の眼差しは、いまだ血縁でつながる両親がいて子どもがいる家庭をモデルとし、それが「普通で幸せなのだ」という幻想に満ちています。現実には、形としての家庭も、ひとり親家庭もあれば、同性同士の親家庭もあり得るし、家庭の中身も様変わりしているのに。
少子高齢化、格差社会などの社会構造の変化、たとえば「経済的な効率主義」に心身ともに追い立てられ、それが人々の心に内面化され、早く結果を出せ、うろうろする時間などあるものか、早く早く、と人々を追い立てる。効率がすべての価値観に知らず毒されると、失敗を許さず、人を管理する。「これが一番いい方法に決まっているでしょ」「バカじゃないの」…こうして家庭という閉鎖空間の中、特に大人と子どもの関係ではすぐ起こってしまう上から目線の支配が始まる。これは、その子が「いる」ことから始まる子育てとは真逆です。密室の中で起こるDVや虐待は、「普通」といわれる家庭の中で多く起こっているのが現実です。
押しつける、決めつける、正義を振りかざす…大人と子どもの関係では上から目線の支配・管理は容易に起こる。およそ社会のどこでも起こり得る。「光の子どもの家」だって普通と言われる家庭で起こることと同じことが起こり得るのです。その時にこそ、「悩ましい」と口に出して相談し合ってほしいです。
ただ居続けるだけでいい。ぐちゃぐちゃした暮らしを共にして、泣いて笑って怒って喜ぶ。その繰り返しこそが人を生かす。人を育む。人は誰か一人でも心を寄せる、心配する、ただ周りをうろうろする、そんな「隣る人」がいるだけで、生きていける。もしかしたらヒトが人になる現場とはそんなところなのかもしれない。それは血縁があるなしにかかわらず、誰であってもいいのかもしれない。それが「光の子どもの家」だったし、これからもそうあり続けます。「悩ましいよなぁ…」の言葉と共に。
ベトナムのダナンにある児童養護施設「希望の村―Village Of Hope」で育ったホーティランさんは、「希望の村入所中は、こんな所来たくなかった、こんなとこすぐ出てってやる!」と、ずっと思っていたそうです。
それが、日本に留学して、社会に出て働くようになってから希望の村の暮らしがどれほどあたたかいものだったかに気がついたというのです。希望の村を出てちょうど十年の時でした。ランさんは、「あんなに嫌だと思っていた希望の村だったのに、誰かがいつもそばにいてくれたことで、自分は世界中どこにいても生きられる」と思ったと教えてくれました。
「光の子どもの家」の多くの卒園生も、ランさんと同じようなことを告白しています。「光の子どもの家」には、卒園生が実家のように帰ってきます。今では、職員の6人に一人が卒園生です。社会に出て、また戻ってきて正規職員として働いています。
今や「光の子どもの家」は、懐かしいおうちです。
「隣る人」工房 / 稲塚由美子
社会福祉法人 児童養護施設 光の子どもの家 機関紙「光の子」2019年9月・192号への寄稿