言葉、音声、画像、動画等を駆使し、個人に光を当て、個を大切にした記録活動。表現行為を通して、時空をまたぎ、人とつながり、人と人とをつなげていくことを探求しています。

私が「光の子どもの家」と出会い、関わり始めてから15年。「光の子どもの家」の暮らしを描いたドキュメンタリー映画「隣る人」を完成し、公開したのは9年目のこと。それから6年の歳月が過ぎようとしています。この間、全国の映画館と400ヶ所に及ぶ自主上映会において7万人もの方々に本作を観ていただくことができました。

そんな折、最初に「隣る人」を公開していただきました映画館「ポレポレ東中野」(東京)さんからリバイバル上映の話があり、去る6月2日から2週間、4年ぶりに上映していただくことになったのです。ただ上映するだけではもったいないと、連日トークイベントを開催することにしました。トークゲストには、さまざまなかたちで「隣る人」を応援してくださっている皆様をお迎えし、「私が受け取った『隣る人』の贈り物」と題して、思う存分語っていただくことになりました。

私は1回のみ聞き手を担当することになりました。お話を聞かせていただいたのは、フィリピン・マニラで、ストリートで暮らしていたような貧困層の青少年をスタッフとして育て、レストランを経営している、中村八千代さん(1969年生まれ)です。中村さんは「国境なき医師団」の日本事務所スタッフを経て「国境なき子どもたち」のスタッフに。貧困層の子どもたちの支援のためフィリピンへ。その後、イラク人難民支援のためにヨルダンへ赴任。退職後はマニラへ戻り、今度は個人で「ユニカセ」という名前のレストランを創業した、という面白い経歴の方です。

中村さんがフィリピンに戻ったのは、最初に赴任したとき、自分が直接関わった子どもたちのなかに命を絶ったり、殺されたりする子どもたちを見てきたからだといいます。そのなかでも「ユニカセ」創業のきっかけになったのは、生活・教育支援を始めたばかりの出会ってから一週間しか経っていなかった男の子が、スーパーでトマトソースを盗み、警備員に射殺されてしまったことだったというのです。

「仕事で収入を得ていれば盗みをしなくて済んだんではないか……」。

創業から8年。数々の困難があったといいます。遅刻や無断欠勤は当たり前。途中で投げ出して辞めてしまったり、お金をくすねて消えてしまったり、そうやって中村さんの前を通り過ぎていった子どもたちは100人を超える。中村さんもやめてしまおうと思ったことは数知れず。そんななか、はじめから1人だけ残って頑張ってくれていた女の子がいました。閉店後、この子とふたりで午前1時まで皿洗いをしていたこともあったと。「彼女がいてくれる限りやめられない」と踏ん張ったと中村さんはいいます。

いまは、この女の子(といってもいまでは20代半ば)と料理を担当する男性も加わり、この2人の、それぞれの子どもたちも含めた2家族とともに、血のつながりではない、同じ屋根の下で暮らすひとつの大きな生活共同体=家族として協力しながら、中村さんはレストランを続けています。

「隣る人」を観た後、中村さんはこんなことを語ってくれました。

「上映中、涙を堪えられませんでした。親を失う辛さ、ストレートに子どもを抱きしめてあげられない葛藤、血のつながり以外の関係構築……。私が今やっていることの原点のような映画でした」

埼玉の片隅で営まれている「光の子どもの家」での暮らしは、マニラの片隅の厳しい環境のなかで試行錯誤を繰り返しながら、なんとか今日を凌ぎ、子どもたちとの生活の基盤を築いていこうとする中村さんの日々の格闘にダイレクトにつながり、自分の原点を国境を越えて感じ取ってもらえたのだと思います。

ポレポレ東中野での2週間の上映では1300人を超えるひとたちに劇場まで足を運んでいただくことができました。公開から6年経った今でも「隣る人」にはひとびとの心をうつなにかがあるのです。この映画を作った私にとっても同じこと。映画づくりにおいても、自分の人生においても、立ち戻って考える原点として「隣る人」は、私のなかにも存在しています。

「隣る人」工房 / 刀川和也

社会福祉法人 児童養護施設 光の子どもの家 機関紙「光の子」2018年8月・186号への寄稿

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