きっと世界は、2020年~2021年、ひょっとしたらこの後何年?のことを、「新型コロナウィルスに翻弄された年月」として記憶するだろう。
6月20日現在、ワクチン接種の歩みは遅く、変異株の解明もできていないだろうに、オリンピックの中止はなさそうだ。まだまだ、一気に患者さんが増えて医療崩壊を起こさないように、人流の抑制と緩和を模索することしか手はなさそうだ。
個人的には、グローバル化の波に乗っかって、地球の裏側でも簡単に飛んでいき、人間にくっついているウィルスを免疫のない土地に運んでいる危険性が自分にもあったのだという自覚はある。それ以前に、開発という名目の自然破壊が、たとえば森の奥深くにあったウィルスを一気に拡散させたという人間の傲慢さを問わなければならないと思っている。
けれど、今や緊急事態宣言と解除を何度も繰り返させられた人々の心には、未知なるものへの恐れと、先が見えない不安の影があるに違いない。ワクチン接種か、特効薬か、制度上のきめ細かい対応策が功を奏することになるのか分からないが、いずれ明けない夜はないと思う。
それでも、コロナ禍による経済の停滞で、そこここで肥大化する社会問題。しかもそれぞれが複雑に絡み合って出現している―雇用不安、貧困、虐待、いじめ、外国人やマイノリティ差別、ヘイトスピーチ、オレオレ詐欺、自粛警察…。人は不安と恐怖を感じれば、自覚的であろうとなかろうと他者に対して不寛容や排除、攻撃を繰り返してしまうことがあるのだ。
政治の責任は大きいが、ここでやっかいなのは、ひとり一人の心に知らず知らずのうちに芽生えてしまう他者への排除、攻撃。しかも自分は正しいと思いこむ「独善」。自分では「正義」で、矛先を向ける相手の方が悪いのだと本人に認識されていてたちが悪い。
『光の子どもの家』も社会の一員。例外ではない。外から『光の子どもの家』に対して不寛容をぶつけられることもある。反対に、いらぬ忖度をしてしまうこともあるだろう。もとより、人間は社会的動物なので、ひとり一人の職員も子どもたちも、影響を受けないわけがない。
職員さんたちも、もちろんコロナ禍以前でも、子どもとの暮らしの中で、「笑顔ときどき顔引きつる」ことも当然あり、それでも、子どもたちとの暮らしは営々と続く。「何とかやっています」や「せっかくだから生活を楽しむプログラムをいろいろ考えました」という職員さんも。「プログラムといえば聞こえはいいが、『思いつき』とも言う(笑)」というオチ付きのユーモアがあって、そこがいかにも『光の子どもの家』らしい。続いていく暮らしの中で、あれがよかった、これがよかったなんて、ずっと後になってみなければ分からない。それでも失敗しちゃったことこそを口に出せたら最高だ。
不安と恐れが蔓延しているような世相に押しつぶされそうなとき、人々の知恵は、排除や攻撃、そして他者の支配ではなく、菅原哲男氏の言う伴走者、つまり「隣る人」の実践へと向かってほしい。
『光の子どもの家』では、話をよく聴く。何か片づけ事をしているときには、いなしながらでも聴く。話す。
「だよね~」
「どうした~」
そしてくっついたり離れたりのちょうどいい距離でそばにいる。人間誰しも誰かの眼差しがなければ生きられない。職員さん同士も、卒園生だって、卒園したから終わりではない。
誰でも安心できる相談相手や居場所は必要で、コロナ禍だろうと原点は一緒。ステキだ。
「隣る人」工房 / 稲塚由美子
社会福祉法人 児童養護施設 光の子どもの家 機関紙「光の子」2021年7月・201号への寄稿