私の戦争の記憶 :石川公三郎さん・木島弘良さん~学校生活・疎開・東京大空襲・学徒動員・食料不足…  / ムービー(日本/東京)

私の戦争の記憶 :石川公三郎さん・木島弘良さん ~学校生活・疎開・東京大空襲・学徒動員・食料不足…  / トランスクリプト

以下、
石:石川公三郎 / 昭和7年9月生まれ
木:木島弘良 / 昭和7年11月生まれ
稲:稲塚由美子(聞き手)
(敬称略)

※数字は映像内でのタイムコード

【学童疎開先の長野から帰ってきた列車から見た東京は、「真っ赤」だった】

00000
稲:小学校はいつ入ったんですか。
木:昭和14年だね.
石:20年に卒業だから…
木:15年か。
石:15年に入学。
稲:それは国民… 
木:西新井尋常小学校。
石:尋常小学校って言ってました。
木:途中から西新井国民学校。
(卒業証書のコピーをみせながら)
木:あ…国民学校だね。
稲:これが、修了証書。 
木:私はもらってないんだけど…。
石:いやいや、戦後のね、長野から帰ってきてね、混乱のときですから、卒業式っていう式はやってないんです。長野から帰ってきてね、教室で渡されただけなんです。だから木島さんなんかはもらったのに記憶はないんですね。わたしはもらったのがあるんです。
木:3月の9日に長野の駅を…10時50分の上野行きの夜行列車、それでですね、それは特別列車なんですよ。進学のための学童をみんな、乗っけてきたんですね。
稲:とういうことは、小学校6年生だけが… 
木:ええ。6年生だけが、足立区の6年生の人たちだけが…それで、ちょうど、軽井沢の碓氷峠をあがって、横川の駅についたときに、列車が、いま、東京は大空襲で… 
石:空が真っ赤だったんだよね。
木:空が真っ赤だったんですね。
石:東京が空襲でね、焼けてんじゃないかってね。
木:結局、列車は遅れて、大宮まではのろのろ行って、列車が着いて、大宮でいったん止まって状況をみながら、赤羽までいったんです。赤羽から先はもう行かれないということで…それで、板橋線にのって、板橋からずっと行って、田端へ出て…
稲:板橋線というのは、いまは…
木:いまは赤羽線になるのかな。赤羽線だよね、私もそれは定かではないんだけど…それで乗り換えて田端まで来て、田端から、いまの京浜東北線だね、あれで王子まで来て、王子から徒歩で西新井の学校まで徒歩でかえってきたんです。
稲:そのとき真っ赤だったとうのは…
石:熊谷あたりまできたら、東京が真っ赤だというのがわかりました。軽井沢についたときは、ただ、「向こうの空が赤いね」っていうぐらいで。
木:熊谷あたりからだと、もう向こうが真っ赤だった。
稲:それをみながら、6年生がね…進学のためにかえされたっていうことですが、そのとき、どんな お気持ちで…

00350
石:その当時は、親元に帰れたっていうんで、うれしさ半分ですね。
木:それから、変な話ですけど、うちへ帰ったらたらふく食べれると、まず、それですね。一番うれしかったのは、もう、進学とか関係なくて、「親元にもどって、食べ物が食べられるんだ」、これがまず、第一だったね、私なんかはね。
石:疎開に行っている最中はなにしろ食べ物が少ないですからね。朝は、寮の先生が弁当箱にご飯を入れてくれるでしょ。2キロ先の学校まで歩いていくと、蓋をあけるとね、お弁当が半分になっちゃうんです。フワフワでいくらもないですから。
木:それも いまでいう 白米じゃないですからね。麦飯ですからね。最後の方は高粱めし…知ってますか。いまでいう東北地方、満州の高粱を、あれを、まあ、籾みたいな、赤い、あれを…赤飯、まずい赤飯だって、あれをごはんにいれるから赤くなってね…
石:とにかく疎開時はおなかが空いたのが一番の印象です。

00510
稲:少し前後しますが、学童に行ったのはいつになりますか。
石:あれはね、6年生… 
稲:こっちから行ったのは…
木:メモしてきたんで…それはね、8月13日です。その前に、この辺で台風があって、「ふじくら」のところで、手づかみで魚を取ったのを覚えてるんですよ。そこのところで。金魚池があったんで、手でっとって、このぐらいのをお袋に、「これ、生かしておいてね」ってたらいに入れて、それを私は覚えているんです。
稲:金魚池っていうのは、金魚がいたんですか。
木:金魚を養殖していたんです。
稲:いまは埋め立てちゃったんですか。
木:今の、シルバーのマンションのところです。あそこの入って右側です。「かわしま」っていう 
稲:それを埋め立てて、マンション建てたんですか。
木:その前に、埋め立てて、「ふじくら」化学っていう、化学工場だったんです。
稲:じゃ、昭和20年(昭和19年の間違い)、8月13日に… 
木:8月13日の上野発10時50分…SLですね。
稲:朝の10時50分? 
木:いえ、夜です。夜行列車です。それをなんで覚えているかというと、私たちの旅館は、昔の長野駅はハーフのつくり…お寺のようなつくりの…ご存じないでしょうか…写真があると思います。私たちの旅館と「あらい」さんのソバ屋さんの先ぐらいがちょうど、長野駅だったんです。
稲:すごいじゃないですか…もう駅前だったんですね…
石:これが長野の駅です。(写真をみせながら)
稲:これは疎開30年で…行ったんですね。
石:そうです。
稲:これは同窓生ばっかり? 
木:ええ。 
稲:お孫さんを連れていかれた方もいたんですか。これは… 
石:そういう人も行ったかもしれません。
稲:じゃ、駅は変わってないんですか。 
石:いまは立派なビルになりました。
木:私はこれは保存するべきだと思うんです。
稲:そうですよね。
木:こういう駅だったんですよね。この駅の真ん前で…なんで覚えているかっていうと、うちへ帰りたくてしょうがなかったんですね。夜中の10時55分ていうと、マイクが聞こえちゃうんですね。「上野行き~ 上野行き~」ってね。最終列車なんですよ。夜行列車。
石:これに乗って、帰っちゃおうかなんてね。
木:毎日のように聞こえるんですよ。マイクがそばにあるんできこえちゃんです。
石:まったく駅前だったですからね。
木:いまは新幹線が通ったから、壊してしまって…全然、ムードがないですね…
稲:そのあと、二人で(長野駅には)行かれたんですか? 壊したあとに?
石:何回も行きましたよ。信州を偲ぶ会っていうのがありましたね、それで、何回か行っているんです。
木:信偲会っていうんです。これがいまだに続いているんですよ。
稲:同窓生が信偲会のメンバー?
木:疎開に行った人たちがぜんぶ…6年生が…(写真付きの冊子を見せながら)これが、信州のですね。これ、全部、あるんですね。西新井小学校だけなんですね、こういうのをやっているのは。これとわたしたちの恩師の磯野先生っていうのがいるんですけど、この先生がとても几帳面な先生で、それこそ、私たちの親からきた手紙や、私たちがお習字の授業で書いたものとか、全部、段ボールにとってあって…すごい先生なんですよ。
稲:その先生はまだ… 
木:去年、なくなったんです。97かな。
石:98歳だな。
稲:なんという先生?
木::磯野先生。
石:(資料の写真をみせながら)この人が磯野先生。この先生は足立区では、校長会、「しだん会」という会があるんです、区役所に。そこでは有名な先生です。
稲:ふたまる会とは? 
木、石:にーまる会。20年卒ですから、小学校の。
稲:にーまる会は毎年開かれていたんですか?
木:毎月です。信偲会は隔年、2年に一回ですが、もう40年になりますかね。
石:いや、戦後から…名前はにーまる(二丸)会ってつかないけど…
木:名前はつかないけど、その前から行ってたんです。
稲:学童でみんな一緒だった人たちが…。
木:ですからね、いまでもいいますけど、いまでも(指さして)石川さんて言わないからね、「きんちゃん、きんちゃん?」って(笑)言ってるからね、だからね、70、いや80になって、みんな名前言ってるから、はたから見ると、「なんだ、あのじいさんたち」ってみえちゃうよね。
稲:いま戦後71年ですもんね。

01125
石:ですから、疎開から東京大空襲のときに帰ってきたでしょ。学校から帰ってきて…うちにきたら、うちのおやじがね、浅草に…千足におじさんがいるんですよ。「死んだかどうかわからないから見に行こう」というわけです。だから、10日の日のね、疎開から帰ってきてすぐ、浅草に行ったのよ。
木:3月の12日に、南千住にうちの父親の弟がいるっていうんで、一緒に行こうって言って。千住大橋渡って、こう分かれますよね、4号線と「こつ」通り?ね。こつ通りいくと、あの当時、防火用水っていうのがあったの。江戸時代によくほら~…時代劇であるでしょ。あれにみんな寄ってね。あんまり思い出したくないけど…子どもが、こうやって(体をまるめて)。みんなあそこに…水の中に入ってね…。
石:ですから、浅草、千足におじさんがいたんですね。そこへ行ったら、もう一面、焼野原ね。ただ、建物として残っているのは「まつや」と、いまなんと言ったかな、あの大きな…あ、国際劇場。それだけしかなかったんです。
稲:大きい建物として残っていたのが?
石:そうです。それだけで、あと一面焼け野原。私が行ったときは焼野原で…まだ、煙が残っていました。それで、黒焦げになった人間をね、一生懸命に収容しているところを見ました。あれは本当に戦争の悲惨さを、あれでね。もう、ああいうことは経験したくないよね。子ども心に、ちょうど人間が焦げて…サンマを焼くときに炭がくっつくじゃないですか。ああいうふうなんでね…焼き立ての魚みたいにね…それを収容しているのを何体か見ました。
木:もうね、南千住だって、私はあんまり言いたくないけど、もう、通り端で…でも、ああいうときは、ほんとに悲惨だなあって思って。でも。あんまり考えなかったよね… 
石:むしろ、あの当時は夢中だったからね。
木:夢中だったよね。それよりもなにより うちなんかでは父親の弟ね、それを探そうって思って…ごろごろしてるのはあんまり目につかない、そっちへばっかり気がいって…おじさんが元気かな、元気かなって思ってね…。

01420
石:それから…卒業してから間もなく、木島さんがどうかわからないけど、小学校高等科っていうのがありましてね、そこから学徒動員っていうのに行っていたんです。勤労動員っていうんですか…小学校であったんんです。
稲:学徒動員って言ったんですか。
石:そうです。
木:小学校は昔、6年生で卒業なんですよね。だけど、高等小学校と中学校とあったんです。高等小学校というのが2年間あって、いまでいうと、中一ですよね。中一になると、もう学徒動員で…
石:私たち、そこで学徒動員で、1か月、30円だったかな、給料がね。そこで一番おっかない思いをしたのはね、昼飯の昼休みのときにね、外へでて遊んでいたんです。艦載機のP51という飛行機があるんです。それに機銃掃射を受けて…よく映画でさあ、弾がパッパッパッパって土煙があがるでしょ。あれが我々の目の前で…ひとりのけが人もなくてね…助かって、今考えると無茶なことをして…空襲警報の最中にね…外で遊んでててね…。
木:あと、西新井の、いま、あそこマンションだけど、前は操車場があったでしょ…あそこなんか年中艦載機が来てね…P51って、あの頃は子供だからね…P51っていうのは、胴が細いんですよ。グラマンというのはこういう(大きく腕でわっかを作って)…この辺は、ほとんどP51だったよね。
石:そうですね。
木:機銃掃射が一番怖かったです。
石:あれね、映画では見るけど、パッパッパッパってね、われわれのね、目の前。
木:実射攻撃ですからね。30センチごとに…
石:よくあれで助かったって思ってね。大勢いたんだけど、ひとりもけが人がでなかったんです。あの当時、木島さんは?
木:他の学校に行っていたんだよね。いつか機銃掃射がきたときに、いまの、興野団地あるでしょ、あそこに行ったわけよ。「めいでんしゃ」を機銃掃射にきたときに…あのときに、パイロットが背中向けて…飛行眼鏡かけて…マフラーをこう(なびかせて)…かっこよくって…子ども(だから)…かっこいいなあと思って。こうやって、パッとあいて…片方は狙撃者で、片方はパイロット。ホンダベルノがあるところに「東京鉄鋼」とか「めいでんしゃ」っていうのがあったんですよ。いま、一部では有名な電気の会社ですよね。あとは、西新井駅によくね…機銃掃射きたよね。

【学童疎開していた長野でのこと~お腹が空いて…】

01730
石:(写真を見せながら→先生を先頭に行進している写真)これなんかはね…疎開時のね、「かわばた国民学校」っていうんですけどね…運動会かたがた、6年生、軍事教練みたいなことをやってるの。これでアメリカ軍が上陸したらね、竹やりでやっつける、なんてやってたんです。いま考えると、バカみたいな話ですよね。
木:これが磯野先生ですよ。
稲:これは、そのものなんですね。この中にいらっしゃる? 
石:このなかにわれわれはいるんです。
稲:この本はいま、新しいのも出てますよね。「昭和の足立区」みたいな…これはなんなんですか?
石:これはね、こういうことを一生懸命にやっている、早乙女勝元さん、この方の監修の本ですね。これ、5、6冊あるんです。
木:こういう記録があるのは、あのころ、フィルムというのは規制されていてなかったんです。私たちの疎開先の北村さんっていう…いまでも郵便局があるんですけど、郵便局の局長さんが兵隊さんの偉い人とのツテで、その人が疎開児童を大切にするっていって、それでその方がフィルムを(磯野)先生にくれたわけです。それで、先生が全部撮ってくれたんですね。だから足立区で写真があるのは、100枚あるうちの50枚は西新井小学校なんです。私は見ればすぐわかるんです。
石:だから、この先生のおかげでね、西新井国民学校は足立区で記録が一番あるんですよ。こういうのは…あの先生が撮ったんです。
木:フィルム自体はなかったんだけど、先生が、北川さんという局長先生がね…私たちは長野の駅の前のすえひろ町っていって…いまでいう北千住の駅の前ですよね…わたしたちより、西新井より賑やかなところにいたんですから…町会の人たちがすごく親切にしてくれたんですよね。今考えてみると、責任者はね…町会長さん…中島弁当っていう。善光寺の一番偉い…長野市の商工会議所の会頭さんをやっていたんですね。その人たちが、西新井小学校の学童っていって…すごく丁寧にしてくれたんです。本当に感謝、感謝ですね。
稲:旅館だから大部屋だったんですか?
石:一般のお客さんも泊まっていたよね。
木:わたしらのときは一般のお客さんも… 
石:私らは「まつや」は小さな旅館ですから、疎開学童だけなんです。
稲:そしたら、お二人は別々のところにいたんですか?
木:そうです。
石:隣の旅館です。長野駅前の5、6軒だね。西新井小学校で。 
木:要するに、長野駅はね…駅前は…5軒です。まず「、ほていや」っていうのが…ここですね(写真を指差す)。駅の…わたしたちが一番真ん前。その隣が「まつや」(石川さんを指差す)。その先、7、 8軒先にいった木造の三階建てが「あおきや」っていって、これは、校長先生がいて、本部だったんです。わたしたちの道路をはさんで真ん前が、「いけもん」っていう…「池紋」。その先いきますと、これはひらがなで「えびすや」っていうのね。駅からこう入ってくる道があって、駅のところに引っ込んだ道路が一本あるんですね。そこに「金城館」っていうのがあってね。地域別にわかれていまして、うちの左側が「ほていや」。右側が「池紋」。ヨーカドーの先は、そこから先は全部、「えびすや」だった。あとは、西新井は「金城館」だね。地域でわかれていました…。
石:われわれ「まつや」はね、この…もとき町の人…。
・・・・・(当時の西新井国民学校の学区の説明)・・・・・

02300
稲:じゃ、6つの旅館ですね。「ほていや」さんのこの写真、この中にいらっしゃいますか?
石:(写真を指差しながら)ここにいる人がこの人です。一番かわいい子です。
木:一番わんぱくの…
稲:そのあと、木島さんは石川さんと別々の学校に行かれたんですね。
石:小学校は一緒ですよ。
木:まったく同じです。
稲:そのあとは…
木:そのあとは、戦争中ですから…縁故疎開に行った人たちもいるし、中学に行った人もいるしね…高等小学校に行った人もいるし、いろいろと…。
石:そこから先は、旅館は別々でしたけど、学校も一緒でした。
稲:この旅館へ、長野へ行くということは行政が決めるんですか、それとも…
木:これはですね…執行されたのはね…前年度の何月かだったかね…。東京都で、文部省で決まって、足立区はだいたい長野県へ…第何条かな、ここに書いてあるかな(本を指差しながら)…
石:書いてありますけどね…これもね(写真を指差しながら)6年生、プールでね。
稲:きんちゃんはどこにいるんですか?
石:これは、このなかで一番かわいい子ですね(写真を指差しながら)…磯野先生のおなかのところにいるのが私です。私にはよくわかるんですよ。これこれ…一番かわいい子だから目立つんです。
稲:これですね…磯野先生のすぐ前ですね…。よく写真が残っていてね…。
期:これは、磯野先生のおかげ…他の学校では、こんなの一切ないですよ…。
稲:見たことないですね。

02603
木:あと…これは、二次疎開のお風呂のところ…これも磯野先生が撮ってくれた…。
石:(新たに写真を出しながら)これはね、皇后陛下の「ちきゅうせつ」というのがあったんです。生まれた記念日、昔は「ちきゅうせつ」って言ったんです。
稲:ちきゅうせつっていうのはどういう字を書くんですか。
木:ちきゅうせつというのは、6月の6日。
稲:どういう字を?
木:普通の地球ですよ。皇后陛下の生まれた年です。 
石:昭和天皇の奥さん…。 
木:いまの天皇のおかあさん。このとき、食べ物もなかったんですね。おんしのおかし、恩賜のたばこじゃないけど、昔は兵隊さんが…恩賜のお菓子。
石:おいしかったね。 
木:おいしかったですよ。これは。固パンだけど。
稲:どんなお菓子だったんですか。
石:ビスケットです。 
木:ビスケットっていっても味のないビスケットです。
木:このときに、皇后陛下が歌を贈ってくれたんですね。
「次の世を 背負うべき身と たくましく 正しく伸びよ さとにうつりけり」と、この歌と一緒にこれ(ビスケット)を…
石:でも、こういのはね この人(早乙女勝元)のね、みんな出てますよ。(写真集をめくる)
・・・・・・・・・・・石:どこかだか、いまはちょっとわかんない。・・・・・・・・・・・・・・

02830
木:過去はね…一番最初に話した通りね、寝ても起きても、食べ物…ですから。今の人がね、変な話ですけど、食べ残しを捨てるでしょ。あれがどうも見ていられないんですよ。文句言いたくなると、「じじい、黙ってろ」って言われちゃう。だから、黙ってますけど。 
稲:食品ロスはすごいですね。工場で1トン…2トン平気でね…ごはんを捨てるっていうね…。
石:いまの子は「ストレスだなんだ」ってよく言うじゃない…あたしら三度三度の飯が食えれば、最高の幸せですね。三度三度、飯が食えなかったんですから。
木:いまでもそうですよ。うちの女房とはあるもんで…冷蔵庫にあるもんで。最低のときは…冷蔵庫の掃除ですよ。ごはんはね、茶わんで一粒も残さないです。これはいまでも、俺、一番できる。ぜったい残さないです、はい! 
石:ちょうど食べ盛りのとき、戦後でもそうですよね。物のない時代ですから…三度三度の飯が食えれば、それがほんとに幸せですよね だから、ストレスだ、なんだって、みなさんよくいうけど、どういうことだかわかんないよね。三度三度飯が食えれば、わたしら、なんにもいうことないですね。
稲:疎開のときもそうですよね。朝ごはんから食べているんでしょうけど、いつも少ないんですね…。
石:ええ! 少ない少ない…。
木:子どもさんの茶わんがあるでしょ…あれに軽く一杯ですからね。5、6年生で男の子だったらね…。あとはおやつはリンゴ…長野はね。おやつはリンゴだね… 
石:一番おもしろいのはね…窓際に座っている「まつだ」っていうやつがいたの…。畑に生えている大豆をもってきて…日がちょうど差しているんですよ。レンズでもってこうやってあてて…豆一粒一粒…
稲:温めている?
石:いや、温めているというか、焼くんです。そして、こうやって食べているんです。 
稲:ほんとに焼けていたんですか?
石:焼けますよ。レンズで。焦点をあてて。授業中、一生懸命、そんなことやってんの。
木:わたしらは…きんちゃんは知らないかもしれないけど…「金城館」の連中なんか…あそこには薬屋さんがあったんですね。あのころ、「わかもと」…「わかもと」はね…それはいいんだけど。あれはなんていったけ…
石:あの当時は「みくろげん」って… 
木:「みくろげん」っていうやつ! それがまたね…お菓子みたいでおいしいんですよ。
石:買ってきて食べてんだよね
木:みんなそれを買ってきて食べるわけね、お菓子のかわりにね。でも、それは消化剤なんです(笑)でもそれをみんな買ってた…。
石:ちょうど香ばしくておいしかった…。
稲:食べられたんですか?
石:食べたですよ。
木:わたしはあんまり知らないんだよね。
石:私は買って食べたよ。 
木:おれたちはね…ほら…「オカダ」がいて…乾燥リンゴがあるところ…「木島、いいところがあるから教える」って言って…「乾燥リンゴ」…行かなかった?(石川さんに)…
石:来たよ。「おちあい」が売りに来て… 
木:あいつは売りに来たんだけど…おれたちは買いにいったね…乾燥リンゴって…こう皮をね…(手をひろげて)なって…・そういうの、やっぱりおいしかったですね。
石:あの当時は「はしっこい」やつがいてね、仲間同士で闇屋やっているやつがいるんです。
稲:どういう風に…なにを?
石:なんか仕入れてきて…仲間に売ってるんですよ。
稲:どんなものを?
石:お茶碗から…リンゴとか。食べ物…。
稲:それは6年生?
石:そう。6年生で。仲間がやってんの。そいつからみんな買って食べたりして…。
木:彼は彼で…やっぱり賢いから。それなりに成功したよね。

03235
稲:学童疎開は6年生だけではなかったのですか?
石:そうです 
木:3、4、5ですね。 
稲:みんなおんなじだといいながら、やっぱり3年生とはね…
石:3年生は可哀想ですよ。寝小便はしてね~。 
木:われわれはどうのこうのって言ったってね、6年生だったから。一番上だったから…。ただ いまと違って、どんなに食べ物が少なくて、どんな不自由しても陰険ないじめはなかった…。かばいましたね、みんな…。さっき言ったとおり、3年生は3年生でかわいそうだけど、おまえ、どうのこうの、そういうことはいっさい言わないね。自分が同じ身だから…。だから、仲間はずれとか…いっさい…。
稲:誰に聞いてもそうなのかな…。さみしい思いしたとか悲しい思いをしたとか…。
木:いえいえ…自分がそう思っているから。下の人たちはなおそう思う…。わたしらは不思議だけど、みんなね…かわいがったというのはおかしいけど、なぐったり、おまえ、どうのこうのっていうようなことは一切なかった。それから…おまえ、ちっちゃかいから、おまえ、よこせっていうようなことも言わない…。分けたもの、6年生だから。「おまえ、多いんだ。こっちへ寄こせ」なんて、そういうことはいっさいしない。

03350
石:疎開で一番つらいのはおなかがすいてんのと、夜になるとシラミとりね。あれは嫌だったですよ。 縫い目にびっしりですよ。血を吸ったシラミがね。夜になると、内職がわりにね、つぶしてんですよ。  木:印象に残るのはそういうことですよね。シラミつぶし…。
石:シラミっていうのはご存じですか?
稲:わたしは見たことはないですが…。
石:あ~そうですか…。蚤はいるけどね。
稲:縫い目の間にいる… 
石:そうそう…
木:こういうとこ、縫い目があるでしょ。縫い目を…って開いて…こう…。
石:血を吸ったシラミがぞくぞくいるんです。それを一生懸命取ってつぶしてるんです。 
稲:血だらけになって… 
石:そうですね。 
稲:西新井尋常小学校の同級生たちはみんな…仲がいいっていうか…だったのかなって…
石:ええ。ですから、磯野先生が書いた(壁にかかったなにか(書?)指差しながら)…戦後からずっとつながっているんです。毎月、集まっているんです。二丸会っていうのを作って…同じ苦しみ、楽しみを一緒に…。この先生は(写真を指さしながら)…先生とは言わない。もう、われわれの仲間とおんなじでね、先生もね。
木:先生もそうしてくれって…。「おれは先生という立場は嫌だから」って。仲間とおんなじですよ。 みんなバカなことを言って…だからわたしたちがよく言うのよね。わたしたちはごはん少ないでしょ…「先生が、陰で食ってんじゃねえか」って。いや~冗談! いまだから冗談で~! 絶対に足らないよ 先生も。いま考えたらね。
石:ですから、そういう苦しみを一緒に味わったから、先生も二丸会。会長は、この木島さんなんです。世話やきは…。毎月集まって、飲み会やってるんです。それでね われわれのくだらない話を聞いているのが唯一の楽しみで…。
稲:99まで生きておられて…
石:そうです。その先生は九州に行ったときだったかな…。校長さんたちとばったりと旅行先で出会ってね…「この連中は わたしにとってみれば宝物だって」って…。「この教え子たちは、私にとっては宝ものだ」って。「毎月集まってね 会合やってくれるのは教師冥利につきる」なんてね、喜んでましたけどね。
稲:磯野先生も28、9だったんですよね?
石:若かったね。
木:だいたい…26歳ぐらいか…。師範を出て、一番最初に就任したのが西新井小学校だよね。
石:そうですね。
木:だから23,4だろうね。
石:そうね。
木:98だから。われわれより15歳ぐらい上だから…そうだね、23だね。おれらは12歳だからね。 
稲:一番、兄貴分のような…まあ、先生だけど…。
石:兄貴分ですね。70年もお付き合いしてるんだからね。普通、みなさんは大学に行ったり高校に行ったりしてるけどさ…小学校の先生が一番…なんていうの…親しみやすくてね。
木:そうだね。
石:それっていうのも疎開っていう苦しい思いをして…同じ釜の飯を食べたっていうことで、先生もあれでしょうね…。 
木:二丸会はね…いろんなエピソードがあるんですよね。毎月20人以上が寄ってたでしょ…料理がこう…出てくるんだよね。一番最初に行くとね…まあ、冗談ですけどね…こう見てね…(全体を見渡すようなそぶりして)…「ああ あいつのエビ、少し大きいな」ってね…「あそこへ座ろうかなあ」ってね(笑い)…そして、最後に来たやつのを見て…「お前の天ぷら、一番大きいなあ」って(笑い)…いまのはね、冗談でやってんだけどね…。
稲:どの辺でやっていたんですか?
木:あそこの料理屋です。「こやなぎや」…大師の…いま無くなってしまいましたが…「むさしや」さんのちょい先…あそこの社長が同級生なんですよ。
石:とにかく70年もお付き合いしてるなんて聞いたことがないですよ。それが小学校の先生なんですからね。去年亡くなったのかな。
木:そう、去年。
石:だから、この二丸会っていうのはね…気の合ったもんだけ20人ぐらいかな…発足したのは…。
木:発足当時は24人いたの。それがね、いま…大勢亡くなりまして5,6人になってしまいました。
石:わたしもこの病気でもって、この6月に退会しちゃったんです。 

【昭和19年(1944)~20年(1945)の頃の東京での暮らしー学校生活・空襲】

03915
稲:どうしても訊きたいのは、まだお父さん、お母さんいらして…おうちまだここにあったと思うんですが…喜ばれたと思うんですけど…帰ってきたとき…。
石:私の場合は喜ばれてるんだかなんだか…帰ってきてすぐに浅草にいったでしょ…なにしろどさくさまぎれですから…そんなあれはないんでしょうね…。無事でかえってきたというのは、親は喜んでいたでしょうけどね…。
木:うちはあんまり…母親なんかはね。兄弟多いしね。 
稲:何人兄弟ですか? 
木:男ばかり5人ですね、うちはね。私は一番下の方だから…。兄貴は兵隊に行っちゃったから…。一番長男はね、外国には行かなかったんですよ。いまでいうと近衛兵かな。だから天皇陛下を守るって赤坂にいたから。二番目はね…中国のね…まあ…口幅ったくなっちゃうけどね…医者になるって言ってたからね。その系統の…中国の日本軍の病院へ…。
稲:軍医さん? 
木:軍医では…まだ軍医にはならないんですよ。そのころ、あのころね…年子なんですよ。年子だから繰り上げになってしまってね。21歳から徴兵検査で…21になると、国へ行くんだけど…たまたま、うちの兄貴のときは戦争で一年繰り上げになってしまったんです。だから、20歳と21歳でいっぺんに行っちゃったんです。兄貴が9月に、弟が12月に行くんです。 
稲:それは何年ですか? 
木:昭和20年ですね。じゃなくて…19年だ。
石:あの当時は、疎開から帰ってきて無事でという喜びとかなんとかというより、明日のごはんをどうしようかっていう…親もね…。
木:親もひとり増えたからどうしようかって…。母親だからうれしいだろうけど、いまのように感情を表してどうのこうのっていうのはないよね。 
石:その日その日生きるのに必死だったから。 
木:わたし、いつもね…疎開の話があって…西新井小学校の生徒は幸せだなというのがひとつあって、それは、帰ってきて…親もみんなも無事だったわけね。わたしたちの奥のあれは、みんな下町だもんね。帰ってきて上野に着いたら、もう戦争孤児ですからね。だって下町ですから…全部焼けて。親も兄弟もどこに行ったからわからない。結局そのまま、戦争孤児になってしまったからね。西新井小学校は幸せですよね。 
稲:そのとき特別列車で帰ってきたんですよね?
石:そうです。
稲:ひとつの学校だけですか? それとも他の?
木:ほかの…足立区の6年生…長野県の人は全部。あれ、12両編成だったかな…。
石:かなり…
木:かなり長かったですよね。たまたま、西新井小学校の生徒は親も兄弟もいるし…おうちもちゃんとあるし…これは一番うしかったですね、いま考えるとね。わたしたちはよかったですけど…奥の下町ですから…上野とか江東区とか。一番焼けたところだから、そのまま帰るところがないから戦争孤児になってしまった…。かわいそうですね。親も兄弟もどこに行っちゃったかわかんないしね。うちはなくなっちゃったしね、あれは…。西新井小学校は幸せだなあと…。こうやってみんなしてね…何十年もして会えるっていうのは…ここが焼けてなかったから…。 
石:だから 同級生で戦争で亡くなったという人はいないです。われわれ 6年生ではね。 

04340
稲:そのあとも、みんな…ごはんはお母さんが作ってくれた…まあ、大変でしたでしょうけど…。
石:まあ、その当時は大変だったですよ。買い出しに行ってね…いくらも買えなかったりね。帰ってきてね、うちらの家のあたり一角は残ったけど、お宅さん住んでるところ…前のあたり…ほとんど焼野原だったんですよ。 
稲:西新井も機銃掃射あったって…。
木:なぜか、大師から西新井橋の通りは焼けてないで、こっち焼けてんだよね。
石:もとき町はずいぶん燃えましたよ。 
木:あと栗原の万願寺なんかも…直撃でなくなっちゃった。うちの本家なんかも、田んぼの…畑のなかにぽつんとあって。母屋は焼けなかったけど、蔵が焼けちゃって。見たらば…ネギの畑でしょ…一尺ぐらいの。焼夷弾がワアッワアッワアッって…って落ちて…畑のなかに…。
石:あたしらね…焼夷弾の筒があるでしょ…あれ落ちたやつ集めてね…屑鉄やさんに持っていくと、小遣いになった…。
稲:焼夷弾って落ちたら中からぶわって…。
木:あれは…
石:ゴムのりみたいなやつでね。火がついて飛び散るんですよ。
木:日本の家屋は木造が多いからっていって、アメリカのなんとかっていうやつが…5月ごろになると 焼夷弾が落ちると…30何発…油が入ったちっちゃいやつ…飛び散って…あれは… 
石:油っていうよりゴムのりみたいなやつ。あれがひっついたらとれないんだよ。
木:それが30なんぱつ。そういう、普通の焼夷弾はそういうのじゃなかったんだけど…
石:そのなかのさ…われわれはそれを集めてさ…お金にしようってわけなの…。
稲:焼夷弾のまわりは金属だったんですか?
石:ええ、金属です。丈夫な金属です。それ集めたりね。日本が高射砲を撃つでしょ…そしたら弾がはじけて、こんな鉄の塊がいっぱい落っこちているんです。あれを一生懸命に集めてね…小遣い稼ぎです。
稲:昭和20年…3月に帰ってきたんだから…8月15日までの間に…。
石:そういうことばっかりです。学校から帰ってきてもね。木島さんはどうかわからないけど 学校から帰ってくるとね、「ふじくら」っていうクレヨンだとか作っている会社があるんですよ。
木:しゅうわ(シルバー)のマンションのところ。あそこ、全部工場だったのね。
石:そこへ、学校から家にかえってこないで、そこへ…荷物預けてね…アルバイトしてたの。自分で使う鉛筆とかノートとかは自分で稼がなきゃいけない。親は必死でしたから、うちは…。もとき町は全体…貧乏してたから…自分で稼いでいたんです。 
稲:鉄を集めたり…。
石:そうです。それがないときは学校から帰り、クレヨン作る会社でね。そこでアルバイトしてるんです。それで夕方、うちに帰ってくるんです。 
稲:クレヨン作る会社で、作る手伝いして? 
石:そうです。
稲:たくましいっていうかね… 。
石:いまでは言えば、中学1年生ですね。アルバイトの方が忙しかったです。そのおかげで頭がからっぽです(笑) 
稲:学徒動員ではないけど…それもあったわけでしょ…。工場に行かされるっていうね…。
石:はい。

04725
木:いまだって、二丸会だって…昔でいう級長ね…先生が頭がいい子を選んで…5人ぐらい…。だいたいメンバーは同じなわけです。われわれその他は、そういうのは心配ないからね。 
石:家庭が裕福なうちは勉強できたでしょうけどね。
木:塾なんか行かないしね。
石:塾どころじゃないですよ。 
木:塾なんか金持ちしかいかない。塾なんかなかった…。 
石:学校の宿題をやってるでしょ…そしたら親に怒られるんです。そんな勉強する暇あったら、内職を手伝えって言うんです。 
木:夏休みなんか…いるでしょ。そこらへんにいたらうるさいから「外へ行って遊んで来い!」って。 
石:ひどいよね…勉強して怒られてんだか。 
木:うちなんかは「遊んで来い!」って…。宿題なんか、おれはいつもやんなかったよ。ただ、今ね、一つね…「カナザワ」さんによ…感謝しなきゃいけないのは…あいつは…「あいつは」って先生なんだけど…西新井小学校で一番やかましい先生…。子どもをいじめて、もてあそぶような…。いまなら一日で退職だろうけどね…。そういう先生だったの…。いまでも、ちょっと感謝してるのはね…国語があるでしょ。国語で漢字が出るとね、必ず、5つずつ書かせるんですね。月だと、月を5つずつ…。それを毎日宿題出すんです…。それをやってこない。だって男のクラスですよ。いまなら笑い話ですけど…69人いたんですよ、一クラスに。男ばっかり…。
稲:二部制もない? 
木:ないです。わたしらのときはまだなかった。みんな男ばっかりでしょ。
稲:男組、女組とわかれていたの? 
木:ええ。一組の前に行くと、最低5人はね…バケツを持って立っていたの。
石:だから、おれは旅行に行ったときに先生に言ったの。先生に怒られてね…教室の後ろにバケツを持って立たされてね…そのおかげで脚が丈夫になったんだって…。皮肉を言ってあげんの、先生に…。 年中立たされてね…。悪いことばっかしやっててね…。
木:だって60何人なんだから、今の先生じゃやりきれないでしょ。で…先生もひでえんだからね。やつは…もう…成績の赤丸つけるでしょ…墨汁で…あれをね、ここに(顔の前で指でばってん書くふりをしながら)書くんですよ。 
稲:それが20年の…終戦前のこと? 
木:19年ですね。
石:19年から終戦の間ですね。
木:一番、戦争が激しいとき…。
稲:学童疎開に行ってたときも「こんなん(顔にばってん)」だったの? 
木:それは(手を横にふりながら)ないです。磯野先生は…。わたしたちは、カナザワ先生。一組なんですよ。この先生(磯野先生の写真を指差しながら)は4組だから…。疎開で初めてこの先生(磯野先生)に習ったんだから…。先生が違っていたんです。 
稲:カナザワ先生? 
木:そうです。藤吉郎…秀吉の藤吉郎と同じ名前でね…。だからね、大人になってからね…「どこへ行くんだ」ってきかれたら「藤吉郎のところに行くんだ」ってね…。「おまえら、おれが退職したら…」 …リンゴが好きだからね…「国光」なんです。「国光」とかみんさんは食べないでしょ?
稲:昔は「ふじ」とかなかったですよね。
木:昔はインドリンゴと「国光」なんです。いまはね、「国光」はね…すっぱくておいしいんだけどね。 いまは加工場で使ってますね…。それでね…「おれのところに木が一本あるから、おまえ…取りに来い」って言って…。ほんとはね…行きたくはないんだけど…あのころはほら…別所温泉のそばだから…上田なんですよ…。
稲:それは、カナザワ先生? 
木:カナザワ先生のところはね。そこから車で30分…ここで言うと、北千住あたりで…「お前ら来い」っていうから行くわけですよ…。行くはね…結局ね。他の旅館に…行きたくて…それをだしにして行くようなもんだ…。変わってんですよ…。だって、車が混んでね…こっちから生徒が行くわけでしょ…わざわざ先生に会いに…。たまたま車が混んで、30分、1時間ぐらい遅れたんですね…。そしたら料理を出していた奥さんが…こうね(両手を横に広げて)…。そしたら、玄関前に立っていて…「時間に遅れたから、おまえら東京に帰れ」って…。そういうへそ曲がり…。
稲:まあ…おもしろい先生というかね…。
木:二科展なんかね…絵が上手でね…。

05225
石:でも、これはね(教育勅語のコピーを出しながら)…毎日暗記させられたから…。かなり覚えましたよ…「教育勅語」…。
稲:ここ、破けちゃったの?
木:「御名御璽」です。これは小学校3年生のときに…。
稲:3年生から? 
木:3年生からですね。これができないと、立たされた…。何度も立たされたもんね。
石:うん。
稲:これは自分で 口で言えばいいわけですか?
石:そうですね。暗唱させられて…。「朕思うに我が皇祖皇宗…」ってやってるんです…。
稲:意味って分かっていたんですか、みんな? 
石・木:いや、わかんないですよ! 
木:だって小学校3年生で、こんなんわかんないですよ。「朕思うに」なんて。朕なんて言葉がわかんないでしょ。
稲:それは朝の朝礼で…?
石:そうです。
木:そうです。必ず月曜日の一時間目は「修身」なんです…いまでいうなんですか…。月水金が「修身」なんですよ。必ず、1時間目は「修身」なんです。それでね、修身の時間はね、必ず、カナザワは スリッパをはいてくるからね…。木造でしょ…「あ、来た来た!」てね。いまの話ではないけど、こういう風に…(正しく背筋を伸ばして座る姿勢を示して)こうやってやってるわけ…。そうすると先生が入ってくるわけ…そうすると、いきなり…長い竹棒があるの…それを持って回って歩いて、姿勢が悪いとバーンって!…。それから授業…。
石:いまの児童はさあ…先生のいうこと…こうやって(机に手をのせてうつぶせの姿勢)聞いているんですよね。あんなことしたらたまらないですよ…ぶん殴られて…。ちゃんと手を後ろにやって(その姿勢をやってみせる)。
木:目をつむってね…先生が「修身」に入ってくるわけね。まずは「おはようございます」じゃないんだから。いきなり黒板の端っこにある長い竹棒をもって…あの…生徒のあれがあるでしょ…そこをグルって回って…姿勢が悪いと…。
石:だからね…あたしら「姿勢がいい」なんていわれるけど、小学校時代にそういう躾だったからいいんでしょうね。いまは病気だから腰が痛いから曲げてますけど、姿勢はいいですよ。
木:おれも腰を手術したでしょ。みんなこうなってしまうけど…おかげさまで…カナザワのおかげで 脚が悪くてしびれてるんだけど…こういう(前かがみ)にはならない。やっぱりここ(腰)はしゃんとしていますね。
石:先生のお話はちゃんと手を後ろにやってね(姿勢で示す)…こうやってないとね。だから、どうしても姿勢がよくなっちゃうんです。
稲:でも…これが当たり前だったから…まだまだ、日本は勝つって…。
木:あの頃はね、先生というのは権威もあったし…たとえば、わたしたちが先生に殴られるでしょ…そしたら傷つくわね…そしたら、「おまえどうしたんだって」、親に聞かれて、「先生に殴られた」って言ったら、そしたら親が怒って、「お前が悪いからだ」って言って…。「お前が悪いから先生に殴られたんだ」って。だから、先生に殴られて傷ついても、ぜったいに親には言わない。かすり傷で、親は、だけど、知っていたんだろうけどね。かすり傷だとかなんとかごまかしてね…。 

05555
稲:遊びは?
石:遊びなんてないですよ。アルバイトで一生懸命です。だから空襲が盛んなあくる日は、収穫の時期ですよ。焼夷弾が破裂した、てっぺんを拾って歩くんです。
木:うちの裏の…奥の…「しん」がいたところ…。あの辺でね、前田さんという人がいるのよ。俺より二級上の人でね。焼夷弾が落ちてよ。破裂する寸前で…なんか…1分か2分…破裂しないというのがあったんだね。その先輩が、その焼夷弾を手でつかんで、それをバッと投げて、それで破裂したから。それであの辺は助かったんだ。でないと、あの辺全部燃えちゃったんだから…。英雄だったよね。
稲:1,2分…ほんとに破裂しないんですか?
木:だから、不発弾みたいになってたんだ。
石:まあ…とにかく、戦争はいやですね。戦争はおなかがすいて嫌です、とにかく…。 
稲:千足でおじさんを探したり…やっぱり忘れられないですか?
石:そうですね…焼死体をね…始末している光景を見たときには、子ども心にも嫌だったですね。
木:あの…「まんのう(万能)」って知っていますか?…シャベルで…。牛の残飯のやつ…とがったやつが5本ぐらいあってシャベルのような…。あれでこう(死体を掻き揚げる動き)だもんね。考えられないよね…兵隊さん二人で。
稲:南千住のね…。
木:南千住のこつ通りはすごかったね。
稲:こつ通りっていうのは?
木:こつ通りっていうのは大橋を降りると、左側に南千住があるでしょ…あれがこつ通りっていうんだ。 稲:「こつ」っていうのはその「骨」っていう…。
木:それは昔…わかんない…。 
石:そういう焼死体っていうのは、わたしはね…浅草だけじゃなく…深川でも一回見ました。深川にはお米の倉庫がいっぱいあるんですね。あれ…さが町っていったかな…あそこらへん…運河がありましてね…死体が運河にいっぱいありましてね。流れ出さないように、荒縄で結わえてね…収容するまで。そこに流れ出さないように荒縄で結わえて…いっぱい…そこに死体があったんです。あれ見たときも、ほんとに嫌だったですね。
稲:お水吸って…?
石:もちろん…焼け焦げているんです。熱くて飛び込んだでしょうね。 
木:3月9日は…隅田川へ…河口に行った人は全部だめだったんです。上野の山へ逃げた人は全部助かった…。 
稲:熱いから、みなさん…お水のなかへ入ってね。
木:「橋の上ならいいだろう」っていって、みんな、こととえ橋にみんなつかまったら…あれが煙突じゃないけど…風気口じゃないけど…あそこがツーっとみんな川の方へいっちゃった…。
稲:あ…そうか。みんな…川の上渡っちゃうのね…。
木:だから、煙突みたいなかたちになっちゃって…川の方へみんな…火がいっちゃった…。だから、こととえ橋が一番亡くなっている。あれがずっと南千住の方へいって…はしばの方へいくと…結構、助かってるの…うちには「はしば」の方で知っている人がいて…水の中へ入ったから助かってる…。上野の山へ行った人は全部助かってる。川の方へ行った人は全部だめ。あと…深川とか向島とかは…全然話にならない。助かった方がおかしいくらいだもんね…。
石:でもね…死体が流れ出さないように荒縄で結わえてとめておくなんて…あんな光景はね…嫌だね。 木:それはわかんなかったなあ。
石:だから、中東の戦争でさ…写真でよく見るじゃないの。あれとまったく同じだよね。だから中東で無残な戦場の写真なんかみると、ほんとに嫌ですね。すぐ浅草だの深川のことを思い出しますね。 
木:三平さんのおばあちゃんいるでしょ。林家の…あの人なんか…自分だけ残って…。疎開していたから… あとは全部死んでね…。 
石:だって、一晩で10万人以上死んだっていうんですから。死体がいかに多くあったかというのは…。 
木:でも原爆は、もっと悲惨で、あれどころじゃないね。 
石:原爆っていえばね…終戦ちょっと前…終戦後だったかな…上野駅に避難してきた少年…。あれもみじめなもんですね。焼けただれていましてね…上野駅にちょうど来たんでしょうね…。 
稲:広島から電車で?
石:来たんでしょうね…。 
稲:上野に行かれてたんですか?
石:ええ。あたしら戦争中…兄貴に連れられて…あちこちみて回っていたんです。
稲:おにいさんと? 
石:ええ、そうです。自転車の後ろに乗せてもらってね。うちの兄もちょうど兵隊から帰ってきて、やっぱりめずらしいもんですからね…都内をぐるぐる回って見せてくれたんです。憲法発布記念とかいろいろね。
稲:憲法が出たときの発布記念?
石:そうです。皇居の前に見にいったりね。
稲:おにいさんは…ちょっと思いがあったのかしら…。
石:兄貴も兵隊に行ってね…つらい思いをしてきているからね。
稲:お兄さんはおいくつ?
石:兄貴はいくつで亡くなったんだっけ? 90歳か?
(石川さんの奥様):90歳です。大正10年生まれです。
石:一番…兄貴に連れていってもらって思い出すのが、イトーヨーカドーがあそこで初めてね…グローブを買ってもらったの。イトーヨーカドーの一号店…いとう商店っていって…。
稲:北千住にあるね。
石:そうそう。
木:あそこね…もともと、紳士ものの洋服の高級で…。 
石:戦後はね…いろんなもの売ってましたよ。
木:イトーヨーカドーはね。 
稲:お兄さんは大正10年生まれということは…? いまだったら90?
石:92、3…4,5歳になるのかな…
(石川さんの奥様):いまいればね… 
稲:うちは父が大正11年…もう亡くなりましたけどね…うちの父も内地で…。
木:うちの兄は大正13,14だから…年子だからよ。

【磯野先生・同級生との思いで】

10350
石:そういう戦争中のことも…だんだん風化してさあ…足立区なんかも…これにも(コピーをだしてきて=「あだち広報」)書いてあるけど…最初のころは必ずやっていたんです…戦争回顧展を…。ところが5,6年やらなくなっちゃったんです。磯野先生なんかもね…区役所にお願いに行ってね。またやってくれっていうことで、また始まったんです。戦争…のことをね…忘れてはいけないということでね…風化しちゃいけないということで、足立区で ここ2、3年…また、やるようになったんです。今年もやりました…8月に。 
木:これね…おかあさん…。学校の先生かなんか、やってたんだと思う(広報を指差しながら…手紙の文字)。だって、あの頃で、明治の生まれで、これだけの字が書けますか。これ、原文ですから。字も上手だし…。相当、教養がある人だと…。
石:「磯野先生様」って書いてあります。 
稲:よく残してありましたね。私も見たはずなんだけど…。いま、ちょっと見てみて…あの…磯野先生とは全然違いますね…やっぱりお話を聞くと…。
石:ですから、この先生はね…細かいことまで全部集めていました…収集してね。だからね、足立区役所でね、この学童疎開のこと…資料はほとんど、磯野先生が提供しているんです。 
稲:区役所のどこかに保管してあるのかな?
石:ええ。してあります。倉庫にね…みんな…しまってあるんです。区役所の役人さんたちも面倒と見えてね…しばらくやんなかったんですよ。だからみなさんで働きかけてね…戦争のことを忘れてはいけないということ…やらせるようにみなさんで働きかけて…で、ここ2、3年…またやるようになったんです。

10550
木:わたしらは年寄りっていわれるかもしれないけど…わたしがいつも思うのは…日本のあれですね…教育はあんまり自由っていうかね…。過去にこういうことがあって…みなさん…日本のために犠牲になって…特攻隊なんか…みんな17、8で戦闘員で死んだってね。こういうことがあって…みんな…いまの平和があって…生活があるっていうこと…教えていないから…。だから、わからないんですよね。こないだもテレビでもやっていましたが…陸軍のね…少年航空隊っていうのは16歳からですよ…4500人卒業生がいて、450名は17歳で特攻隊で死んじゃったんですよ。そういうのを教えていない…。日本を守るために…そういう風にね…いまでいう中学生、高校生がね…飛行機に乗っかって…帰りは燃料がないんですから。出たら、もうおしまいなんですからね。そういう風にして…犠牲にして…日本を守ってきたんだから。一応、話だけでも教えていけばいいけど…そういうこと言うと「古い」っていわれちゃう…。だから、われわれもあんまり喋らなくなっちゃう…。 
石:だから、子どもや孫には…あんまり、そういうこと…話をしないですね。「また、じいちゃん…始まった」なんて嫌われちゃいけないっていうことでね。
木:うちもそうだもんね…。「また始まった」っていうことになるから…。 

10710
木:韓国に行ったときなんか、すごいんだから。韓国なんて幼稚園からね…過去にね…日本にいじめられたって…植民地化っていうことになったってね。全部…幼稚園から教えているんですね。博物館行くと…また大げさだけどね…日本の憲兵隊がこうやってやって(刀を振りあげるポーズ)…妊娠した女性をこうやって…そういうのを幼稚園からね…先生が説明してんだよね。だから、日本のことをいい感じで思っていないかもしれないけど。でも、過去にうちの国はこういう風に…よその国にいじめられたっていう…被害妄想がありますよね。なにごとも被害妄想がありますね…あの国はね…。ちゃんと、やっぱり歴史だからね…ちゃんと教えることは教えたほうがいいんだけど…いまはそういうのないもんね。 
石:学校の先生もそういうこと…教えれないんだよね。まあ…共産党系の先生が多かったからね…あの当時はね…戦後は…。いま、「日教組」というのはあるの? 
木:いや、どうだか知らないけど…私に言わせればね…日本の国から…文化、伝統ね…芸術…そういうものをいっさい…けなして…過去に日本はこういう悪いことをしたんだ…って。日本の国とか文化とか伝統とか芸術とかいろいろあるでしょ…そういうものを一切否定して教育してきたから…。だから、だめじゃないのかなと思うんですよ…。日本の国柄とかね…文化とか伝統とか…。それから、一番わたしが悔しいなあと思うのが…国家に対する誇りがないんですよね、日本人…。いまの若い人は…。まず 「誇り」…自国に対する…まず誇りがないでしょ…。文化とか伝統とか芸術とか日本の国柄がいいところを全部否定して!…これは「全部悪かった」っていって教育してきた。だから、いま こうなっちゃうんじゃねえか…わたしは…思っているんですけどね…。だって、国歌だってそうでしょ…。高校の先生がね…君が代を歌っちゃいけねえとかなんとか…。そんなのないと思うんだよね…。そういう点でおかしいのは…オリンピックになると…みんな…国家を歌って…。国歌のない国家なんてないし、おかしいでしょ…。外国の方は国歌を歌うときは必ずこうやって(胸に手を当てる動作)胸に手を当てて、自分の国を尊敬しているけど…日本はそれないもんね。

10935
稲:韓国は…博物館は独立博物館に行かれたんですか…それとも…。
木:あれはね…ソウルの…博物館…。
稲:ナショナル博物館…。
木:なんとかっていう…私はよくわかんないですけどね…。
稲:韓国へはご旅行で?
木:いや…同級生がいる…さっきの同級生がいて…。
石:6年生まで一緒にいたんです。それで韓国に帰ったんです。
稲:韓国の出身の方が…。
石・木:そうです。 
稲:ずっと、ご連絡をとってらっしゃったんですか?
木:いままではとってたんだけど…ここんとこね…信偲会には何回か出席しましたね。朝鮮からわざわざこっちへ来て。 
稲:では おとうさん、おかあさんはこちらにいらしていたんですか?
木:そうそう。ちょうど 郵便局の裏の方に。終戦後すぐに帰っちゃった…。
稲:わたしはほんとによそ者だから…30年ちょっと前に引っ越してここへ来たんですね…。わたしが聞いたのは…学校が…中学校が荒れたときもありましたよね…地元の子と…それから在日の方と…それから…部落という…ところとか…そういう…抗争が、ということがあって…そういうのは戦争のときは全然なかったんですか? でも…学校には来てて…。
石:学校では…磯野先生は立派な方ですよ。朝鮮の子を級長にしたんです。頭がいいからっていってね…「シン・ヨウケン」っていうんですけどね…その人はね。朝鮮人でも、この先生はちゃんと目にかけて級長にしてくれたということでね…韓国の大きな…大新聞社だよね…。 
木:そう。
石:(彼が)投書しましたら…「日本でもこういう立派な先生がいる」っていうことでね。それが…日本でも、その記事をもとにして、毎日新聞だったかな…大々的に…日本でもね…こういう分け隔てなくやってくれた先生がいる…。ですから、この先生は朝鮮人であろうが日本人であろうが、頭のいい子はどんどん級長にしたりね…。 
木:一番、先生が特徴なのは…「シン」というのは朝鮮の名前だから…下に「山」をつけて。だから、 「辛山(からやま)」っていったんだよ…先生が日本の名前にした…下に山をつけた。「辛」のこの字を買いて… 山をつけて「辛山」っていえば日本の名前になるから。だから、「辛山ヨウケン」って言ってたの…。「シン・ヨウケン」ではなくって「辛山ヨウケン」。先生が日本の名前にした…。 
稲:そうすると、ほかの子や人からなにか言われないとか…。
木:辛山っていうと、ちょっと日本の名前になるし…辛、シンっていうと、完全にあれでしょ…。鄭(てい)とか辛(シン)とか、みんな、むこうの人の名前だから…。 
稲:結構、いらしたんですか?
木:在日はいっぱいいましたよ。
稲:みなさん、関係なく…一緒に遊んで…?
石:ええ。みんな仲良くやっていましたね。 
稲:だって、みんな、まだ、小さかったし…。
石:そうね…。
稲:一緒に疎開とかも行ったんですか?
石:ええ、一緒に…。わたしたちと一緒にここに(写真)…。同じ旅館に行ってましたよ。

11325
稲:わたしは、ここへ引っ越してきたときは、その抗争がすごくってっていう…?
石:いや~そういうことはなかったです。 
木:まあ…一部のね…その筋の人間はやったのかもしれないけど…われわれは、そんなのはなかったですよ。
稲:それより食べることが大変だったから…。
石:ええ。明日のお米の方が心配だったですよね。 
木:だから辛なんか、日本へ来るたびに…旅館代わりに年中うちに泊まっていたんだから…。 
稲:木島さんのところに…?
木:ええ。うちの泊まってね…。
稲:それで行かれたんだ(韓国へ)?
木:むこうが来てくれっていうんで…。わたしは、あんまり韓国が好きじゃないから行かなかったんだけど、先生も行くって言うからよ…。で、先生としょうちゃんと飯島と…5人で…行ったんだ。ただね、あの頃…昭和40年ごろね…うちに来たとき…まだ韓国が生活悪いんですよね。なんにもなくてね。折り畳みの傘とかなんでも日本のものは欲しがったよね。うちのやつがよ…お土産に…あのころは折り畳みの傘を贈れって言ってたんだよね…ないんだって…韓国にはね。いろんなお土産を持たせてやってもね。お礼の手紙っていうのが一切ないんです。だから、うちのカッかしてて…で、いつか辛に会って…「手紙ぐらい…いいんじゃねーかな」って…。そしたら、友達でもなんでも韓国の人たちは、そのまま、うちへ来るでしょ。それはもう親戚と同じだから…手紙とかそういうお礼はださないんだ…。そういう国柄なんだ…。そのかわり、俺たちが行ったでしょ…先生とか全部…。まったく金を出させないんだ…。全部…車からホテルとか全部用意して…。「金、払うよ」って言ってんだけどね…「いや、いいんだ」って…。韓国ってそういうとこなの…。だからね、日本の文化と違うでしょ。お礼の手紙とかなにかぐらいはいいんじゃないかということで…文化の違いで、兄弟と同じでくるから、兄弟のうちに泊まって、お土産ぐらいまでもらうのは当たり前だって。そういう文化らしい。そのかわり、「お前が来たときはやるよ」っていう…ほんとに…この間、一銭もお金を出さなかった…出させなかった…。 
稲:韓国は何年に行かれたたんですか? 
木:忘れちゃったなあ。
稲:昭和52、3年? 
木:いや、飯塚がいたころだから…。
石:でも、この先生は、辛が韓国で出世したんで…ずいぶん喜んでいたね。これ…おれたちが行ったときに磯野先生の文章よ…辛が投稿してよ…向こうで新聞で出た…。やつは頭がいいから、新聞に投稿して、日本にもこういうね…立派な先生がいたっていうね。新聞に出て、見せてくれた。中央日報かなあ。 有名な…日本でいうとね…朝日とか毎日とか…そういう大きい新聞社で。
石:とにかく、この先生は分け隔てなく…だれでも公平に扱ってくれてね…とてもいい先生です。ですから 足立区役所に行ってね…「しだんかい」(史談会)…それから、校長の集まりである…校長さんのOB…そういう方たちはみんな…この先生のことは知っています。 
木:尊敬してるよね。
石:尊敬…「偉大なる尊敬すべき先生だ」なんて…「しだんかい」(史談会)っていうのは聞いたことあるでしょ? 足立区でね…足立区の文化、教育とか…そういうことを一生懸命にやってる会なんです。 この先生もそこへ入っていてね…あそこの人たちはね…磯野先生のこと…「偉大なる尊敬すべき先生だ」とかなんとか…みなさん、尊敬しています。

11740 
木:ただね…さっきの話に戻りますけど…韓国と日本の文化の違いというと…ほんとに、一番わかったのがね…シン・ヨウケンっていうんだけどね…シンがね…「おい。木島、みんな来いよ」って…。「今日はね…ソウルにね、世界一高いタワーがある」っていうんだよ。世界一高いって…おれは聞いたことがないなあって。そしたら、入った途端にね…タワーの入り口。そこにでっかいパネルが四つぐらいね…「世界一」って書いてあるんですよ。タワーが…。確かにね。日本は…海抜ゼロからの計算なんだよ。 300何メートルのところに建ってるから、それで世界一なんだよ。高さは…確かにね。文化の違いでね…。どこの世界でもね…海抜ゼロからやってんだよ。プライド高いっていうのかな…なんというのかな…。文化の違いかな…われわれが向こうに行くと、日本(おそらく、韓国の間違い)の文化がおかしいし、向こうのものが日本へくると 日本がおかしいし…。でも、最近、2,3年やりとりしてないけど、いつも手紙を書いて…字がうまいんですよ…日本人より。頭がいいからね…文章。弟はほら…筑波大の…留学して…向こうでいうとね… 高麗大学のね…教授だとか。日本でいうと…どこになるのかな…。高麗というと…日本でいうと、早稲田かな…。高麗ともう一つあるんだよね…国立じゃないけど、高麗大学っていえば韓国では私立じゃナンバーワン。日本でいうと、早稲田大学かな。早稲田か慶応かなって…。私立の…そこの教授で…。シンの長男は、漢方薬で…次女は歯医者で…次男はお習字の先生かなんか…。みんな優秀なんだよ。
稲:だから…見抜かれてね…。

12000
稲:わたしは…終戦の前後ですけど…おかあさんが…ごはんをつくるわけですけど…ちょっと買い出しも大変だったみたいで…食べ盛りの子どもがね…帰ってきたりすればね…どういうふうに女の人たちはなさってたのかなあって…。もし、思い出があれば…。
石:結局、わたしら…三田のせいちゃんも…この近所の人なんですけどね…朝はおかゆでしょ…野菜の入った…。それで、お弁当を持っていけないわけですよ…おかゆですから。それでまた、食べにくるんです。戻ってきても、食べるもんがないから食べずにまた行く…。そういうことが何回かありました。 そういうつらい思いをしたんでね。さきほど話したように、三度三度、めしが食えれば、ほんとにありがたいというのは、そういうことなんです。 
稲:おかあさんたちも、みなさん、子どもにも食べさせたいけど…それだけしか…。
石:ないんですから…。 
稲:おかゆって…白い…?
石:いやいや…野菜が入ったり…いもがはいったり…
木:いまとは違いますよ。いもを中へいれるのは当たり前。要するに量ですよ。質より量なんです。
石:だって、そんなもの食べているんですから…学校ではおなかがすきますよ…すぐに。
木:学校はね…あの頃、お昼…お弁当があるでしょ。みんな…近所はね。食べに来られたんです…うちへいったん帰るんです。
石:弁当を持っていけないからね。ところがね…三田のせいちゃんとよく話をするけどね…「あの当時は嫌だ」って。うちへ帰っても食うもんないから、食わずにまた「ごはん食べてきました」って。また 学校に行くんですよね。
木:先生がよく言ってたよなあ…あそこの森でよ…木島さん、食べるもんないからよって…ぱちんこで すずめをとったって(笑)…。いっぱいあったらね、木がね。この辺にはね。
石:あの当時は、終戦直後は食べ物がなかったからですね…。
木:うちはおかげさまでね…父親と母親が…この辺の農家の出だから…米はないけど、ジャガイモとか サツマイモとか…なんとかね…量としては食べられたね。 
石:だからね、大師の裏あたりの農家出身の子はね…白米のお米がぎっしり入ったお弁当を…そういうのが…あたしらはうらやましかったですね。
木:江川のゆうちゃんがよ…彼が農家だろ。弁当の上に白米があるんだよ。われわれの弁当を開けると…半分はいもで、半分はごはん…。でも、弁当は…あればよかったよね。
石:そうね。
木:無い人…食べられない人が多かった…。
石:あたしら…ほとんど弁当は持っていかないで、食べに帰っても、食べないで、 また学校に行く…。 そういうことが何回かありましたね…。 
木:おれは近かったから…弁当じゃなくて、うちへ食べに来てた…。
稲:ほんとに。夜もね。女のひとたちはどういう算段してね…してたのかなあ?
石:母親なんかはずいぶん大変な思いですよね…いま考えればね。食べ盛りの子どもにね…なにもしてやれないんですからね…してやりたくても、ものがないんですからね。 
木:だから、西新井小学校だって…長ズボンだって…昔…冬だってね、半ズボンで…。昔、ズボン下の 長いの…あれの膝小僧なんて、みんな、縫ってたりね。足袋で…下駄だからね…。みんな、つぎはぎのズボンなんか当たり前だった。はずかしくもなかったしね。それから、学校の運動会だって…いまとちがって靴なんかはいているの…ひとりもいなかった。全部…裸足だもんね。必ず、水の洗い場があってね…昇降口にね。あそこで洗って…すのこで…こうやって…。
石:食料のない時代ですから…学校でたまにね…コッペパンがもらえるときがあるんです。それ持ってきてね…砂糖つけて食べるのが唯一のごちそうだったですね。砂糖もその当時はなかったですから…。 コッペパンに砂糖をつけて食べるのが最高のごちそうだったですね。おいしかったですね。  
稲:それはどこかから? 恩賜とか?
石:いやいや…学校でたまにね…配給があるんです。
木:なんでも配給ですから。
石:たまにあるんです。それをもらってきてね。砂糖をつけて食べるのが、ほんとに最高のごちそうです。だから、今の子はさ、「どこどこのケーキがおいしい」「こっちのケーキががおいしい」…そんな贅沢なことを言ってるだから…今の子はね。それどころじゃないですよ。口へ入るもんでしたらなんでもよかったんです。 
木:終戦後なんて…おれは一番下の方でしょ。弟は小さいからよ…水がでないから…毎日、水道まで… 一番下まで…時間でしか出ないんだよね…終戦後…。忘れもしない…商売やってるからね。結局、男しかいないから…ガスはね…朝ね…6時から8時までかな。お昼は11時から1時まで…。 
石:まだガスがあったんだ。うちはガスもなんにもないよ。
木:うちはガスはあったんだよね。水道はでないから…いまの郵便局の裏の方までバケツふたつ持って。 必ず甕(かめ)があったじゃない…2、3回やって…。兄貴たちは大きくて…勤めていたでしょ…男ばっかりでしょ。今度はごはんを炊くとき…おかまで…まず火種ね…消し炭からね、火をやってね…。ごはん炊きはずいぶんやったよ…お釜で。
石:だから、そんな風ですから…宿題なんかやってるより内職手伝えっていうことは…そういうことですよ。明日のごはんの方が大切だったわけです。命の方が大切なわけです。 
稲:内職って…何を?
石:うちの場合には、おふくろが、昔…なんて言ってたっけ…昔、草履に…上のほうになんて言うんだろう…竹の皮でやったね…草履があるんです。それが…細く…こう…裂いてね…針がいっぱいあるところに…こう…さしていくんです。 
稲:まわりの?
石:いやいや、こういう板があるでしょ。そこに…はりが…いっぱい刺さっているんです…そこに。竹の皮を裂いたやつを…こう…押していくんです。それを、今度はミシンでざっと縫うんですね。縫ったものをかたちに…下駄の上に…草履にするんです。 
木:畳表! 
石:畳表か…。
木:そうそう。
石:そういう内職を全部手伝わされました。それを一生懸命にやって、「おかもと」っていう草履屋さんに持っていくんです。そうすると、手間賃がもらえるわけです。そして、もらったお金で帰りに、高橋っていう米屋さんがあってね…そこでお米何合か買って…それが夕飯になるわけです。ほんとに、その日その日の生活ですよね。

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木:終戦後の歴史の本なんか…こうやって開けるでしょ…。いままで習ったやつが…全部黒く…読むところ…いくらもなかった…。戦争中…教えたことは、ちょこちょこしかなかった…。本を開けたって、 黒線引いたところが多いわけ。だから、先生も大変だったですね。 
稲:これって…自分でこう…塗られたんですか…みなさん? 
木:いや、先生がもう…先生が言ったとこを自分で…先生が「ここは消していけ」って…。
稲:それは…どんな感じだったんですか?
石:わたしは…黒線を塗った本は見たことがないです。だいたい、勉強しなかったから見なかったんでしょうが…。
木:それはそうですよ。だって、天皇陛下のためならね…命を捨てますとか…そういうニュアンスがいっぱいあるわけでしょ。じゃあ、やっぱり消していくじゃないですか。先生が大変だったよね…あれは。 いままで「おまえら兵隊さんになって、天皇陛下のために命を投げだすのは神の教え」とかなんとか…天皇陛下は神様ですからね。そういう教えできたのが急に…8月15日になって…ぐっと変わるわけですから…。 
石:だから、こういう先生なんかもずいぶん矛盾を感じたでしょうね。戦後は今度は民主教育だなんてね…。
稲:磯野先生はそんなことは一切なんにも…?
木:この先生はね…無口なんですね。
石:言い訳しないですね。
木:言い訳しないし…。
稲:先生たちも…たぶん、いままでのね…価値観がひっくりかえってしまって…それも…口つぐんだ方多かったですよね…しゃべれない…。わたしは、うちの父が大正11年で…やっぱり、ほんとに話したがらない。もう、死ぬまでチャックしてっていう…。内地での将校で終わっているんです…。あとで いろんなことが、日記…亡くなったあとの日記とか…そういうことでわかるっていう…。要するに…しゃべらないで亡くなった方がどれだけいらっしゃるかっていうね…。
木:まあ…いっぱい、いるんじゃないですかね…。
石:この先生も…子どもたちには話していないですね。われわれにもこぼさないから。
木:もう40年も50年も付き合っていて、旅行に行ってて…たまに、ぽつんと言うだけ…。だから、正直にいって、この先生が亡くなるまでね…孫が何人いて、家族構成…ぜんぜんわかんないの。
石:ほんとに…。
木:初めてお見舞いに…石川さんと先生のところにお見舞いに行って…初めて、嫁さんがいるんだって。だって、孫が何人いて息子がどこにいて、何人いるのか…全然わかんない…。初めて行ったら、妹さんが…姉妹と長男と三人…子どもがいるんだって…はじめてわかって…。50年…一言も言わない。家庭の話は一切しない…。 
石:それで、他の人の悪口も言わないしね、この人は。ほんとの聖人だね。人のうわさとか悪口はぜったい言わないし、聞いたことないです。だから、みなさんに尊敬されるんですね。だから、九州で…校長会で…旅行のとき…わたしはたまたま…二丸会があったときね…「この教え子たちは、わたしにとっては宝ですよ」なんてね…あのときは…われわれも、うれしかったですね。それだけ、先生がわれわれのことを思ってるのかって思ってね。 
木:暖房がどうのって…。
石:信州に行ったときだね。
石:「いまの若い人は…ちょっと寒いとね…すぐにスイッチを入れる…一枚羽織ればなんでもないものをね…スイッチいれる」って言うわけだ。
稲:先生が?
石:そうそう。それ一回、聞いたっきりです。うちのなかの話はね…何十年になるか…20からずっと付き合っていて…。
木:おれなんか、いつもよ…こうやって…窓際の…両方で…先生はこっちでわたしはこっちで…飲まないからね…12時ぐらいまで…いろんな話をしていたけど…こっちが言わないと、ほとんどしゃべらない…口きかない…。
稲:このくらいのお歳の方は多いんですね…。
石:そうです。 
木:でもね、先生が亡くなるね…去年の…あそこの…鬼怒川に行ったとき…初めて、先生がみなさんに お酌して…初めてだよね? 
石:ええ。 
木:あんまり…ひとりひとりにお酌なんてね…自分でわかったのかね…初めて…たいがい「いいです」って言うから…遠慮しちゃうから…ひとりひとり…お酌してまわってね…。
石:だから、この人のせがれも、なに商売やってんのか…学校の先生みたいなタイプだけどね…わたしが撮った写真をね…遺影に使ってくれて…わたしもうれしかったね~。 
木:鬼怒川の駅のスペーシアね。あのときに写真を撮ったの…それを遺影に飾ってくれた。 
石:(戸棚からアルバムを引っ張り出して)…何月だっけ? 先生が亡くなったのは?
木:10月。 
石:あ、これだ (アルバムの中の写真をみせる)。これを遺影に使ってくれたんです。去年の…5月かな…鬼怒川で…二丸会で行ったんです。亡くなったのは去年の10月か…。私が二丸会で旅行に行くと、写真を撮らされてね…それはちょうど…。
木:先生とは何十年て…若い時分からね…悪ガキがわあわあーしゃべって…先生は…なにして楽しみにしてるのかなって…ずっと…2時間…口きかないし…。 
石:この先生もね…子どもらがね…バカ話をしているのをね…それを聞いてるのが楽しみなんでしょうね。

【とにかく、お腹がへっていた…】

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石:まあとにかく、戦争は腹がへることが一番つらいね。腹がへったのと、蚤、虱にいじめられたのが ほんとにこたえたね。 
木:終戦のね…昭和22年ぐらいまでね…もう、虱がすごかったの。それで、進駐軍がきて…一軒一軒 …全部ね。あのころは土足なんだよね…かれらは。脱ぐってこと知らないから、あがってきて…頭からシャーって…。それでみんな、女の人は…あれだっていうのでね…みんな…かなり…出ない人がいたのよ。あれされるんじゃなかってね…。みんな心配したの…特に若い人は。進駐軍にあれ…されるんじゃないかってね。 
稲:それは…DDTはいつ?
木:DDTは…ジープできて…
稲:20年のいつ?
石:もう、かなり長い間、使われていましたよね。 
稲:それでも、女の人の話っていうのは…
木:ありましたよ。
石:女の人は…こう…櫛でやると虱がパラパラっと落ちるんだもんね…毛じらみがね。
木:あれから…もう、うちなんか…お店だから…店にあがって…座敷に平気にあがって…かれらは軍靴だからね…こうやってシャーって。 
石:あのとき、石鹸もなかったよね。
木:石鹸もないよ。
石:石鹸なかったね。 
木:石鹸とか…そういうものはないよね。石鹸とかあんまりないよね。だから、みんな、それぞれ…おかあさんなんかは…ほんとに、子ども5人で…わたしら1組だったでしょ。5人で普通だからね。5人で普通で6人、7人では多いとは言わないね。5人っていうと…まんなかなのね。一人っ子っていうと、 いまでいうと養子…。あのころは「もらいっ子」っていってね…よく言ったよ…悪い言葉だけど…。ほとんど、そうだった…。ひとりの人は…もう、ぜったい…。
石:あの当時、カレーを作るっていったらね…うちあたり…5人も6人も家族でね…肉が100グラムぐらいしか…。だしをいれないんです。早くよそおってね…肉だけを。競争ですよ。ですから、たかこに訊けばわかると思いますが…「おじいちゃん…めし食うの速いね」って。もう、だいたい、うちあたり5分だね。そういうくせがついちゃって…。 
木:おれも…今日、洋食を食べたのよ。早食いでさ。
石:めしっていったらね…速く食わないと食われちゃうかうから。そういうくせがついちゃってるんですね。いまになっても。だから、食事っていったら5分だね。女房が作るのが1時間ぐらい。食べるのが5分…。
木:仲間で旅行に行くでしょ。みんな速いよね。あっという間に終わっちゃうよね…ごはんが…。
稲:とられちゃうもんね。 
石:「やっこさんに食われちゃ大変だ」っていってね…はやく食っちゃう。だから、食事はいまでも5分。 娘のたかこなんかはね…「また始まった」なんて…もう、あきれかえってるよね。そういう習慣があるから速いんですよね。5人も6人もいて…肉なんかだしに使う程度。肉なんか食ったことないからね。 はやくよそおってね、食っちゃうんだ。わかんないうちに…みんな食べるの。 
木:栄養失調でよく死ななかったよね。
石:そうだね。
木:母親はどういうふうなね…。洗濯板で…こうやって…夜遅くね。子どもたちのほころび縫いをやってね。大変だったでしょうね。
石:おかあさんたちは大変だったね…。
稲:おとうさんたちは、まあ、会社っていうか… 
木:うちは商売だからね。
石:うちも商人ですね。
稲:ここで?
石:はい、そうです。 
稲:この辺は、みなさん…商売?
木:いや、この辺はね…細かいね…靴屋さんとかね。いろんな内職っていうかね…ちょっとしたところだと「けとばし」ね。 あれ…プレス屋が多いよね。うちの前…郵便局のところ…みんな、プレス。玄関先でがっちゃんこ、がっちゃんこって。機械でね…多いですよ。 

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稲:お二人に「ぜひ、これだけは言いたい」っていうことを…なかでも言ってくださいましたけど、最後はそれを…。
石:そうですね…戦争だけはやりたくないね。戦争はおなかがへって…だめです。おなかがすいたのが もう、第一ですね。戦争はやらないでもらいたいよね。 
木:わたしももう、石川さんとおんなじ意見です。とにかく、おなかがすいた…。食べ物がね…とにかく不自由しましたよね。余計なことですけどね…いまは、ポイポイポイポイ捨てるけど…見てられない…。 
稲:いまは、おいしく食べられていますか?
石:ええ。食べ物は好き嫌いないです。
稲:作ってくださる…奥様が?
石:いやいや…誰が持ってきていただいても…なんでも、おいしく食べます。 
稲:でも、毎日 作ってくださる?
石:ええ。もちろん、そうです。
稲:ありがたいですね…。
石:こうなってから…感謝感激です。 
木:わたしなんかは男ばっかりの兄弟でしょ。お勝手…ずいぶんやったからね。うちの女房がね…子どもは大阪にいるんですね。一か月いなくても、一回も電話かかってこないよ。なんでって…ぬか味噌なんか…平気でやれるからね…。店屋物は一回しかとらなかったよ…この前…一か月…。自分でつくった…自分でつくった方が面倒臭くなくてね。 
稲:奥様が…ふつうは作ってくださるんでしょ?
木:普通はね。いまはやってもらってますけどね。だから、うちのやつは、どっか出かけても、電話 ぜったいにかかってこない。なにして食べてるなんかも…かかってこない。 
稲:でも、それもお元気だからね。
木:うちは…誰が出てもね…そういう習慣なんですよね。旅行行ったんだから…「今日一日どうだった」って聞いたら旅が面白くないでしょ。だから、「緊急以外はぜったい電話よこすな」って…。そうじゃないと…行ってね…「今日はどうだった…ああだった」ってね…心配したら面白くないでしょ。徹底的に遊ぶ。遊ぶときにはね。 

稲:ありがとうございました。
14257 終わり