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「マニラ戦」生存者インタビュー : ベニート・レガルダ・ジュニアさん+ジェームス・リットンさん+アルベルト・モンティーリャさん /ムービー(フィリピン)

「マニラ戦」を子ども時代に体験した3人のフィリピン人の方々への戦中の記憶を辿るインタビュー。

「マニラ戦」生存者インタビュー : ベニート・レガルダ・ジュニアさん+ジェームス・リットンさん+アルベルト・モンティーリャさん /ムービー

(有料・77分・Vimeoよりクレジットカード/PayPalで購入可)⇒Vimeo動画へ

※ 本編での主な使用言語は英語ですが、映像に翻訳字幕等はございません。全インタビュー内容を日本語翻訳した簡易なトランスクリプトが次ページで閲覧できます。

☆  ☆  ☆  ☆

①Mr. Benito Legarda Jr.(ベニート・レガルダ・ジュニアさん)1926年生まれ。
・タイムコード:00000(冒頭)~

レガルダさんは著名な歴史家であり、経済の専門家でもありました。母親はマニラ交響楽団のトップを務めていたこともあり、祖父はフィリピン第一共和国の初代大統領、エミリオ・アギナルドとも関わりがあったという文化的にも知的にも豊かな家庭環境の中で育った方です。2020年8月26日逝去。

②Mr. James T. Litton(ジェームス・リットンさん)1933年生まれ。
・タイムコード:02425~

戦後、繊維関連の仕事で何度も日本を訪れたことがあるというリットンさん。訪問の度に、日本人の親切で温かいもてなしを受けたといいます。「なぜ、 戦中の日本人たちはあんな蛮行を働いたのか。私はいまも理解できない」と語っておられました。2019年12月18日逝去。

③Mr. Albert Montilla(アルベルト・モンティーリャさん)1935年生まれ。
・タイムコード:04320~スタート

スペイン語を日常的に話していた家庭で育ったというモンティーリャさん。家の外ではタガログ語で話し、乳母はイロカノ語(地方言語)を話していたといいます。当時のマニラの様子も含めながら、戦時下の記憶を辿っていただきました。

④3人一緒に自由に話をしていただきました。
・タイムコード:04935~スタート

●収録日:2017年10月25日
●収録場所:「メモラーレ・マニラ・1945」代表、ホセ・ミゲル・カバルスさんのオフィスにて
●コーディネート:ジーナ・ウマリ(フィリピン大学ディリマン校・教授)
●インタビュアー:刀川和也(「隣る人」工房)

制作:「隣る人」工房

「マニラ戦」とは、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までフィリピンの首都のマニラで戦われた日本軍と連合軍の市街戦のことをいう。この戦闘に巻き込まれて、フィリピン市民の10万人以上が死亡したといわれる。徹底抗戦をした旧日本軍は全滅。その中で、旧日本軍はフィリピン市民への多くの虐殺事件を起こしている。

「メモラーレ・マニラ・1945」とは、戦後50周年を機に「マニラ戦」戦没者の追悼と記憶の継承のために設立された民間団体。「メモラーレ・マニラ・1945」が建立した記念碑の碑文には以下のように記されています。

☆  ☆  ☆  ☆

メモラーレ – マニラ 1945

”この記念碑は、何の罪もないすべての戦争の犠牲者に捧げられる。
その多くは、名もなく、名前も分からないままに共同墓地に葬られたり、墓地にさえ眠ることができなかった犠牲者もいる。戦火で灰となり、廃墟の瓦礫の下に砕かれ塵となって埋もれてしまったのだ。

この碑を、1945年2月3日から3月3日までの「マニラの開放ための戦い」で殺された10万人以上に及ぶ男性、女性、子ども、幼子、すべての、一人ひとりの墓碑としよう。わたしたちは、彼らのことを忘れてはいないし、これからも決して忘れることはないでしょう。

いま、この神聖な、わたしたちの愛する街、マニラの地の一部となり、どうか安らかにお眠りください。

1995年2月18日”

MEMORARE – MANILA 1945

“THIS MEMORIAL IS DEDICATED TO ALL TOHOSE INNOCENT VICTIMS OF WAR. MANY OF WHOM WENT NAMELESS AND UNKNOWN TO A COMMON GRAVE, OR NEVER EVEN KNEW A GRAVE AT ALL. THEIR BODIES HAVING BEEN CONSUMED BY FIRE OR CRUSHED TO DUST BENEATH THE RUBBLE OF RUINS.

LET THIS MONUMENT BE THE GRAVESTONE FOR EACH AND EVERY ONE OF THE OVER 100,000 MEN, WOMEN, CHILDREN, AND INFANTS KILLED IN MANILA DURING ITS BATTLE OF LIBERATION, FEBRUARY 3 – MARCH 3 1945. WE HAVE NOT FORGOTTEN THEM, NOR SHALL WE EVER FORGET.

MAY THEY REST IN PEACE AS PART NOW OF THE SACRED GROUND OF THE CITY : THE MANILA OF OUR AFFECTIONS.

FEBRUARY 18, 1995 “

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「マニラ戦」生存者インタビュー : ベニート・レガルダ・ジュニアさん+ジェームス・リットンさん+アルベルト・モンティーリャさん / トランスクリプト(全インタビュー・日本語翻訳の書き起こし)は次ページへ