「マニラ戦」生存者インタビュー : ベニート・レガルダ・ジュニアさん+ジェームス・リットンさん+アルベルト・モンティーリャさん /ムービー(フィリピン)

「マニラ戦」を子ども時代に体験した3人のフィリピン人の方々への戦中の記憶を辿るインタビュー / トランスクリプト

日本語翻訳責:刀川和也

①Mr. Benito Legarda Jr.(ベニート・レガルダ・ジュニアさん)1926年生まれ。

レガルダさんは著名な歴史家であり、経済の専門家でもありました。母親はマニラ交響楽団のトップを務めていたこともあり、祖父はフィリピン第一共和国の初代大統領、エミリオ・アギナルドとも関わりがあったという文化的にも知的にも豊かな家庭環境の中で育った方です。2020年8月26日逝去。

※ ベ:Mr. Benito Legarda Jr.(ベニート・レガルダ・ジュニアさん)

00020

Q:1942年以前には、普通の暮らしがあったんですよね…
ベ:通常の暮らしがありましたよ。日本人のコミュニティーもありましたよ。キアポには、小さな日本人地区がありました。そこは「リトルトウキョウ」と呼ばれていました。小さな散髪屋があったりね…ロータリークラブのメンバーの日本人もいましたよ。ムラセという名の…キャンディーの製造業者や私の父の…近所の…通りを挟んだところには、家具製造業のヨシナカ(さん)がいました。まともな人でしたよ。

Q:どのように戦争は始まったのですか?
ベ:その日は祝日だったんです。カトリック教会の「義務の休日」(obligation of Catholic church)の日で…immaculate of conceptual(聖母マリア処女懐胎) の日でした…。授業はなかったのですが、集会(ミサ)はありました。わたしたちは学校へ行って…そのときに、パールハーバーが爆撃されたということを聞いたのです…。そして、学校に戻ることはありませんでした…。学校は閉鎖されてしまいましたからね…。日本軍が入ってきてからは、フィリピン人たちは…より密接に(日本兵と)関わるようになって…それが、よくなかったんです。日本人(軍)の行いはとても傲慢で、もし、お辞儀をしなかったら、兵士はびんたをくらわしたんです…。フィリピン人はとても困難な状況を抱えました。

Q:日本軍が来る前はどうでしたか? 
ベ:普通ですよ。通常の暮らしを営んでいて、人々は交流していて…

Q:その当時、何歳でしたか?
べ:私が15歳のときに戦争が始まりました。

Q:1941年…
ベ:はい。

Q:そのとき、15歳?
ベ:はい。 

Q:ということは、戦時中のことをよく知っているんですね…
べ:はい。なにが起こったのか覚えています。

Q:どこで暮らしていたんですか?
ベ:マニラで暮らしていましたが、北側(パッシグ川の)にいました…。破壊された場所からは離れた場所にいました。

Q:日本軍がやってきてから、どのように状況は変わっていきましたか?
べ:変化はとても、根本的なものでした…。一つは、わたしたちは「自由」を失いました…。発言の自由もありませんでしたし、集会の自由もない…。情報の自由もない…わたしたちは短波ラジオ放送を聞くことも禁止されていました。それは、攻撃的なものですからね。二つ目は…交通(移動手段)が困難になりました。とても少なくなってしまったのです。軍や政府の高級官僚のためだけに使用されていたからです。わたしたちが使えるのは、市街の電車や自転車、馬車でした…。大きな変化はそんなことでした…日々の生活においてはね…。

Q:当時、あなたは学生でしたか?
ベ:はい、学生でした。しかし、私の学校は閉鎖されていました…。アメリカのイエズス会によって運営されていたのですが…。占領期には学校には行きませんでした。クラスメートの何人かは別の学校に行っていました…ラサールとかね。そこは、ドイツの修道士たちによって運営されてましたから…開校をすることが許されていました。もう一つの学校は、レトランです…。そこは、スペイン人の修道士によって運営されていました…。でも、私の父は「学校には行かなくていい」と…。「どうせ無駄だから」ってね…。

Q:行かなかったんですね。
べ:行きませんでしたが…家庭教師から学んでいました…。スペイン語も個別のレッスンで…。高校の科目もね…。

Q:日本軍は、学業を妨げることはありませんでしたか?
ベ:日本軍は学業を管理しようとしました。すべて教科書を検閲しましたし…。アメリカの教育はすべて、隠されてしまいました。教科書のページは覆い隠されてしまいました。そして。日本語を教えようとしたんです。

Q:どのようにですか?
ベ:わたしの妹はドイツの尼僧によって運営されている小学校に通っていましたが…日本語を教えていましたよ。「ポコリ、ポコリ歩く」…「馬」…。

Q:そんな状況をどのように受け入れましたか? また、どのように感じていましたか?
ベ:わたしたちはとても敵対的でしたよ…日本軍(人)に対してね…。一つには、戦争の前は、わたしたちは平和に暮らしていたのに、突然、彼らがやってきて占領してしまったんです…。わたしたちにとっては、それは犯罪です。わたしたちを苦しめて…。誰とも戦って(戦争して)いなかったのに…。わたしたちは 平和に暮らしていたのに、彼らがやってきて占領してしまったのです。二つ目は、わたしたちに対して酷い扱いをしました…。人びとを通りでびんたして…そんなことをしてね。三つ目は…わたしたちの生活様式を変えてしまいました。政治制度も変えてしまいました。わたしたちには発言や表現の自由があったのに、それらは消えてしまいました…。わたしたちは敵対的で…わたしたちのほとんどは、最終的にはアメリカに戻ってきてほしいと、強く思っていましたよ。

Q:あなたもそう思っていましたか?
ベ:わたしたちは、そう思っていました。わたしたちは待ち…耐えて…困難に耐えて…。そうしてましたが、徐々に状況は悪化して…。最初にアメリカ軍は港の倉庫を開放して…「自分たちでなんとかしなさい」と…。最初は、重要なものがたくさんそこにあったので、自分たちでなんとかしていくことができていました。しかし、少しずつ…最初の一年でそれらを消費してしまいました…。また、最初の一年は米の収穫もよかったのですが…だから、不足することは、ここではありませんでした。そのあと 段々と悪化していきました…。不足していたのは、輸入に頼っていたものです…薬剤と繊維です。そして、大きな台風もやってきたました。1943年11月でした…。その台風が分岐点になりました。その台風の後、状況はとても悪くなりました。また、交通機関も悪化しました。市街の電車は壊れても修理をされずに、交換されることもされませんでした…。どんどん状況は悪くなっていって、市街の電車は、もっともっと、混雑するようになっていきました…。日本は、文化使節団を送ってきたこともありました。音楽の使節団が…ちょうど、11月の台風が来る前でした…。とっても良い使節団でした。山田耕作を筆頭に編成されていました。参加者には、若い女性で…「ルリコ・トミナガ」がいました…。とても優れたピアニストでしたよ。シューマンの曲を演奏しました。作品82、交響曲の…。歌い手は、少し年長の女性で…「テルコ・ツジ」といいました。彼女は、とても美しい日本の歌を歌いました…。「からたちの花」です。3人目は、「ヨウイチ・ヒラオカ」でした。彼は、マリンベスト(マリンバ奏者)です。モーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」を演奏しました…。かれらは台風で動けなくなって…台風の後、「さよならコンサート」をやりました。私は「さよならコンサート」には行っていませんが、私の父は参加して「とてもよかった」と言っていました…。山田(耕作)が現地の音楽家を指揮して、オーケストラで彼の曲を演奏したそうです… そのうちのひとつは 「神風(しんぷう)」です…。「カミカゼ」…。

Q:あなたの父親は、当時、どういう状況にあったんですか? なにか仕事をされていたと思うのですが…日本軍占領期に…?
ベ:わたしたちの主な収入源は賃貸によるものでした。所有していた(不動産)から収入を得てましたから。父はなにもしていませんでした…。わたしたちは、秘密裡に短波ラジオを持っていました。なにが起こっているのを聞いていました…。

Q:毎日毎日…
ベ:毎日です。事実、わたしたちはマッカーサーがレイテに上陸する前に、そのことを知っていました…。なぜかというと、10月19日、1944年の…私はBBCを聞いていましたから。BBCの放送で「ラジオトウキョウがアナウンスして…アメリカ軍がスルアン島に上陸した」と…。なぜ、スルアン島なのか…なんのためなのか…。スルアン島はレイテ島のすぐ近くです…そうか!ってね。翌日、私は朝食前に、自転車で駆けまわって、友人や親戚に、「アメリカはレイテに上陸する」って言いまわったんです。まだ、上陸はしてなかったのにですよ…。そのあとに上陸したんです。すでに、わかっていたんですよ。

Q:当時は短波ラジオを聞くことは禁止されていたんですよね… 
ベ:はい。禁止されていましたよ。 

Q:どうやって聞いていたのですか?
ベ:わたしたちの家は道路から少し離れたところにあったんです。わたしたちは大きな庭のあるところに住んでいました。通りから離れたところにいて…。わたしたちの地域は、そんなにいい場所ではなくて、中流の少し下ぐらいの収入の人たちが暮らすような場所だったんです。わたしたちはラジオを庭の方の部屋の片隅に置いていたんです。

Q:恐怖感はなかったんですか?
ベ:チャンスがあったときだけにね…特に…。

Q:だって、通りの角には日本兵が立っていたんでしょう…
ベ:日本兵は…私の家の近くには学校があって…レガルダ・スクールという、わたしの曾祖父の名前にちなんで名付けられたね。学校は、わたしの曾祖父の財産で寄付したもので…家族によってね…。そこは、日本軍の兵舎のひとつとして使われていました…最初は。そこを補強して、その後 近所に多くの(兵舎)ができ…戦歌を歌っていましたよ…。司令官が…「シマオカ」という名前でした…。彼はよく歩きまわっていました…。肘までの長さのシャツを着て、中帽(軍隊のヘルメット)をかぶってね…。スリッパ履きで…。わたしたちは彼を避けようとしていました…。彼と目があっても、彼は通り過ぎていました…。なので、接触はありませんでした…。それは、最初のころのことです…。最終的には、アメリカが報復を始めると…44年の9月には、日本軍はその兵舎を、マニラに向かう(兵士の)待合所として使うようになりました…。そこを(マニラ)への出入りに使っていたんです…。しかし、日本軍への支援が滞るようになると…近所の家へやってくるようになって…人びとの家に入ってくるようになったのです…。わたしたちの庭はとても大きかったので、父は、庭には200人の日本兵がいるのを数えていました…。

Q:いつぐらいの話ですか?
ベ:1944年です。

Q:何月ですか…
ベ:9月からです…。1944年の12月に…英語を話す若い日本兵が…彼は…とても横柄でした…。わたしたちが招待したわけではありません…わたしたちは一度も日本人を招待したことはありませんでした…。彼は中に入ってこようとはしませんでした…不平を言うだけでね。彼は「私は一度もこの家では中で食べたことがない」「招待されたことがない」と言いましたが…私が言ったことは…「わたしたちは近所のつきあいのなかではいっしょに食べています」と…「隣組」…そうです…。彼は「私はあなたを殺すことができるんだぞ、この刀でね」と言いました…。私は、「わたしにはそれを避けることができません(どうすることもできない)」と言いました…。でも、そのあと、彼はなにもしませんでした…。わたしたちの文化を尊重したのか…近くにいた軍曹を呼んで、彼は糸を要求しました…。ジャケットのためのね…。わたしたちは彼に貸しました…針と糸をね…。そして、使った後に、また返却しにきました…。そんなことがありましたよ…。

Q::日本兵についてはどう思っていましたか? 嫌っていましたか?
ベ:わたしたちは嫌っていました…。

Q:マニラ戦は…アメリカ軍が戻ってきたんですよね…
ベ:マニラ戦は…アメリカ軍が侵攻してきたとき、まず、特殊部隊を送ったのです。3個所を解放するためにです…。マラカニアン宮殿、サントトーマス大学の収容所、そして、立法府ビルです。マラカニアン宮殿は2月3日の日没前に…。サントトーマス大学は…暗くなった、日没後には取り戻しました。。しかし、立法府ビルを取り戻すことはできませんでした。(パッシグ)川を越えなければなりませんでしたから。そこは日本軍がブロックしていましたからね…。わたしたちは夕食の後、家族でのお祈りを捧げていました…。7時ごろです。叫び声が聞こえてきたのです…。サントトーマスの近くに、わたしたちはいましたが、当時はあたりは静かで、物音もしないようなところでした…。わたしたちは叫び声を聞いたにので「虐殺が起こってる」って…。だから、近くの人たちを呼んで、「叫び声を聞いたけど、なにが起こっているんだ」ってまわりの人びとに聞いたんです。「かれらがやってきたんだよ!」「誰が来たって?」って…。そしたら、「アメリカ軍だ!」って…。窓から外を見たら閃光が見えて、とても明るくなって…。叫び声は…喜びと歓声の叫びだったのです。それは…テロに対するものではなかったのです…。

Q:それは…
ベ:2月3日のことです。かれら(米軍)が入ってきて…主な部隊は2月5日に入ってきましたが…2月4日には…37…それが最初にやってきた部隊(師団)です…。かれらは北東から入ってきました…。第37師団が2月4日に入ってきて…刑務所を発見して…約800人の囚人がいたのですが…だれも、そんなものがそこにあることを知らなかったのです。アメリカ人(軍)は、そのことを知っていました。囚人たちは、かれら(米軍)がやってきたことを知っていました。…しかし、その場所の日本軍の警備兵は、かれらに対して非道な行為は行いませんでした。かれらは収容者たちに言ったそうです…「わたしたちはここから立ち去るが、あなたたちは外へ出てはいけない。自分たちの身の安全のために」と…。そして、かれら(日本軍)は2月4日に立ち去りました…。そして、アメリカ軍が入ってきたのです。2月5日には主力部隊が入ってきました。わたしたちは通りに立って…人びとは歓声をあげて、花束を投げていました。かれら(米兵)は聞くのです…「マニラはどこですか」って…。わたしたちは指差して…黒煙がもうもうとあがっていました…。マニラ(パッシグ川南側)はすでに日本軍に燃やされていたのです。そして、あたりに6、7人の日本人の集団がいて…かれらは、そこからこっそりと抜け出そうとしましたが…服は普段着を着ていました…。でも、もちろん頭髪は(丸刈りで)…そして、靴は…つま先がふたつに別れた靴(地下足袋)をはいていて…そんなものを全部脱がせて…人びとは彼らを殴り殺して…そして、パンツを脱がして、かれらの陰部を蹴り上げたのです…。

Q:マニラ戦が始まった当初は、あなたは安全な場所にいたのですね…北側にいたということなので…
ベ:はい…安全でした。わたしたちはマニラが燃えいているのを見ていました…そこからね…。

Q:その後、多くの虐殺事件が起こりましたよね…。2月3日以降、あなたはどのように過ごしていましたか?
ベ:戦闘はちょうど一か月間ぐらい続きましたが…ほとんどは3週間でした。わたしたちは…まず、やったことは…日本軍が残していった物資を取りに行くことでした。その後、アメリカからの物資も得ることができるようになりました…。アメリカ軍には缶詰がありました。どっちがかれらは好きだったかっていうと…かれら(米兵)はそれ(缶詰)があまり好きではなかったようです。わたしたちには新鮮な食べ物があったので…私の母はよく、新鮮な食べ物でアメリカ兵を歓待していました。アメリカ兵はとっても喜んでいました。そうして、かれら(米兵)は缶詰をわたしたちにくれるんですよ…。わたしたちは…わたしたちの生活は、その後、とても困難になっていきました…。交通機関(移動手段)がないこと…電話もなく…電気もきていませんでした…。2月4日に壊されていました。そして、水です。水は2週間分は貯蔵されていました…。でも、2週間後には水もなくなってしまいました…。わたしたちはartesian wellを利用しなければなりませんでした。 

Q:それはなんですか?
べ:artesian wellとは地下水のことです。幸運にも私たちの家の近くには自噴の井戸があって…。そこへ行って、お金を払って…15センタボをね。銀のコインです。缶にね、ガソリン缶に水を毎日…。そんなことをやっていましたよ。そうやって生きていました。そこには、わたしたちの家がもうひとつありました…。そこは、避難民の家族に使ってもらうようにしました。避難民の誰かが…ある晩のこと…どなたかの親戚が避難してきて…イントラムロスへの砲爆撃が始まったから…50人ほどの人たちがやってきました…。80人が家の中にいたそうです…。電気もなく、水もなく…。母親は二つの木炭で、80人のための調理をしていたというのです…。わたしの父は…小さなカナーレ(おそらく用水路とか掘みたいなもの)がありましたが…2月には乾きあがっていて…父はいすをそこに置いて、底(座板)をなくしたね…。穴を掘って…こてを横に置いて…「用をたしくなったら、そこでやりなさい」ってね…(笑)。それに(土を)かぶせるだけで…。そのようにわたしたちは生きていたんです(笑)…そんな毎日でした。

Q:幸運にも、あなたの家族や親族は、みんな生きていたのですね…
べ:わたしの家族は…ほとんどのものは…。ただひとりだけ…わたしの結婚していたいとこが…斬首されました…。彼は退役した大佐でした。日本兵が彼の家を訪れて、彼のユニフォーム(軍隊の制服)を発見したんです。それと、儀礼刀をみつけたんです。彼を連れ出して、マシンガンで銃殺して斬首したんです…。犠牲となったのです…。一方で、わたしたちの多くは同じ側にいましたから。北側(川の)にね…。

Q:マニラ戦が終わった後、イントラムロスの中には行きましたか。そこは完全に破壊された場所だったと思うのですが…
べ:わたしたちは…わたしはイントラムロスには行っていませんが、南側(川の)には行きましたよ…。父がパス(許可書)を取ってきたのでね。戦闘で街は破壊されていて、死体がいっぱいありました。父は、アメリカ軍警察からパスを得ていたから、車でその中へ入って行きました。なにもなくてね…。一人の男が自転車に乗って通り過ぎていっただけでした…。車で回りましたが、ほんとに、なにもかもなくなっていました。家々も破壊されていて…。タフト通りを知ってるでしょ…大きな通りで…。そこからでもマニラ湾が見えるんですよ。すべてが燃え尽きていましたから…。もっとも特徴的なこととしては…臭いです…。腐った肉片のね…。何週間も残っていました…。消え去りませんでした…。

Q:その臭いは…人が腐った臭い…どんな臭いでしたか?
べ:腐った肉だよ…。どんなふうに表現したらいいでしょうか(笑)…。

Q:一度も、そんな臭いを嗅いだことがないので…
べ:そんなことがないようにと思いますよ…。

Q:マニラはとても綺麗な場所だったのですよね…特にエルミタやマラテ地区は…
べ:はい…。

Q:そんな美しい場所が破壊され…そんな臭いまでしていて…どう思いましたか?
べ:わたしたちは…ほんとに士気をくじかれましたよ…。50年かかってもマニラを復興させることはできるだろうかってね…。でも、実際にはそんなにはかからず、45年だほどだったけどね…。でも、当時は本当にや士気をくじかれていました…。大仕事をやらなければいけないと思いました。わたしたちがやったことは…物理的には、たいていなものは再建築しましたが…歴史のあったものは、もう、元には戻りません…。歴史ある建築物はね…。イントラムロスの中にあった教会等は…すべて破壊されました…サンオーグスティン教会以外はね…。それと…アメリカの砲撃の方が日本軍が破壊したものよりも多いという人たちもいますが…でも、それは真実ではないと思います。砲撃は爆発して穴を作ります…爆風をともなって…。だけど、日本軍はすべてを焼きつくしてしまったのです。燃やすことによる破壊は、もっと効率的だったのです…爆破よりもね…。かれら(日本軍)がやったことは、マシンガンを街角に設置したこと。それから、家に火を放ち、そこから人びとが飛び出してきたら銃撃していたのです。

Q:あなたはそれを見たのですか?
べ:友人たちから聞きました…。直接見たわけではありません。私が見たものは、さきほど述べたように、日本兵が人びとに捕らえられて殺されたこと…。人びとは…本当に、日本兵を憎んでいましたから。

★  ★  ★  ★

②Mr. James T. Litton(ジェームス・リットンさん)1933年生まれ。

戦後、繊維関連の仕事で何度も日本を訪れたことがあるというリットンさん。訪問の度に、日本人の親切で温かいもてなしを受けたといいます。「なぜ、 戦中の日本人たちはあんな蛮行を働いたのか。私はいまも理解できない」と語っておられました。2019年12月18日逝去。

※ ジ:Mr. James T. Litton(ジェームス・リットンさん)
※ カバルス:Mr. Jose Miguel Cabarrus(「メモラーレ・マニラ・1945」代表、ホセ・ミゲル・カバルスさん)
※ ベ:Mr. Benito Legarda Jr.(ベニート・レガルダ・ジュニアさん)

02443

ジ:わたしの名前はジェームス・リットンです。1933年に生まれました。戦争が始まったときは9歳でした。戦争が終わったときは、12歳になっていました…。わたしたちはマニラの南側(パッシグ川の)にいました。アメリカ軍が来た時…2月3日にサントトーマス(大学)に…。その当時、電話はまだ使えました。北側にいる人たちから「アメリカ軍がここへ来たぞ!」という電話を受けたのです。わたしたちは、とてもうれしかったです…1,2日後に爆発が起こるまではね。日本軍は…すべての橋を ダイナマイトで爆破したのです。北から南へつながるものをね…。なので、南側は孤立することになりました。しかし、その前に…1944年の11月のことです。日本軍は海軍の兵隊を…。45年にはすでに完了していました。南側に移動したのです。家の、そのものの中に、そして、通りの角に面したところに砦を作って、二つの開いた(銃撃する窓のような)…そこに、重機関銃を設置したんです。そして、地雷を埋めていきました…通りに…。有刺鉄線をはりめぐらして…。わたしはよく覚えていますが…かれらは残虐な爆弾を使っていました。信管が飛び出すんです。信管が下に落ちるのではなく飛び出すんです。なので、そのうえを通ると爆発するんです。2月9日ごろには日本軍は火を放ち始めました…エルミタの家々にね…。その前には、すでにアメリカの砲撃も始まっていました…。言ったように、アメリカの砲撃の中で、その砲撃はもっとも恐ろしいもののひとつでした…。私の人生の出来事のなかでね…。飛んでくる音がして…そして、爆発するのです…。アメリカの砲撃から逃げようとしても…もちろん、砲撃の恐怖のなかで…どこに飛んでいくかわからないわけですよね。自分の考えで対処するしかないわけです…。

カバルス:”投げ捨てた”ような砲撃…だったんですね…
ジ:そうです(笑)…。幸運にも家はコンクリートで覆われていましたから…それが防御になって…。

カバルス:どこに家はあったのですか?
ジ:サクスペラーレント通りとフロリダ通りの角…。ウェストアベニューの…ちょうど…ピクスペーリアン教会のまさに近くで…渡っていくと、フィリピン大学のキャンパスがありました…。2月の9日ごろには、日本軍はエルミタのすべての家々を焼き払い始めました。なので、多くの人たちが私たちの家にやってきたのです。コンクリートの家だったからね。でも、日本兵もまた、わたしたちの家にいたんです。かれらは通りの角に砦をかまえていましたからね。2月9日の夜には、わたしの家には120人ほどの人びとがいました。シェルター(避難場所)としてね…。そして、日本軍の将校がやってきて、「みんな、ここから出ていけ」と言ったのです…。1時間だけ…わたしたちに猶予を与えてね…。30分後には、かれらはマシンガンをそこに設置していました…。なので、わたしたちは、ひとりずつ、出ていくしかありませんでした…集団ではなくてね…。わたしたちが出て行こうとすると、かれらは、わたしたちのバッグの中をあけて…中からほしいものを全部とってしまいました。覚えているのは…日本軍が発効した紙幣(paper money=価値のない紙幣)を持っていた老婦人がいて…日本兵は、そのお金を奪ったのです。私は内心、思いましたよ…「どうやって、そのお金を使うんだ」ってね(笑)…。それでも、お金を奪っていきましたよ。

ジ:唯一の逃げ道は、アテネオ大学とフィリピン総合病院の間の道でした…。私の家から2ブロック先にあるね…。その当時は、フロリダ通りと呼ばれた通りを歩いていったのです。地雷が埋められていることも知らずにね…。日本軍は地雷を埋めていたのです…わたしたちがそこを歩いていたとき、15歳の少女が…家族の一員でしたが…地雷を踏んでしまったのです。脚はふたつとも切れてしまって…左の腕もちぎれて…私の母も…わたしの兄(もしくは弟)もやられてしまい…阿鼻叫喚の状態となりました…そのあたり一帯がね…。わたしのいとこが母を運んで…わたしたちは全員、列になって走り、フィリピン総合病院へ避難したのです…。でもね、状況は砲撃と戦闘の状態でした。静かな状況ではなくて…砲撃と戦闘の状態です…。中へ入ってこようとする人がいると…横の道では…総合病院へと続く道には、歩哨が銃撃してくるのです。目を閉じておいて方がいいと思いました。撃たれてしまってもいいようにね。そう、思ってましたよ…。フィリピン総合病院には食べ物もなく、それよりも最悪だったことは…水がまったくなかったのです…。食べ物は…まだ、眠れますが…喉の渇きというのは…気が狂いそうになってくるのです…。看護室で過ごしていたのですが、わたしは、とても、とても喉が渇いていました。のちに、いとこが小さな缶を持ってきてくれて…水が入ったね…。それは桃の缶詰に使われていたものだと思います…。ラベルを見ることができましたから…。わたしは、そこから少しの水を飲みました…。そのあとに「どうやって持ってきたんだ?」って聞いたら、彼は「トイレから持ってきた」って(笑)。「トイレの水を持ってきた」ってね…。それから…わたしたちがしたことは…隠れたんです…。マニラの家というのは…戦前のね…1階は、通常…地面の上に作られていたんですね…。なので、その隙間に這って隠れることができたんです。わたしたちは…フィリピン総合病院の、そのスペースに這って入り、 隠れていました。食べ物のことは恐怖でしたが…それよりも水の方が、もっと、もっと必要なものでした…。

ジ:こんなこともありました…。私の父はヘビースモーカーで、たばこをいくらか持ち出すことができたんですね…。他の人と会ったときに…若い中国系フィリピン人だったそうです。彼もスモーカーだったのです…。それで、契約をかわして…一本のたばこで…彼はフィリピン総合病院の井戸へ行って…1本のボトルの水…いや、2本のボトルの水と一本のたばこと引き換えにね…。そうやって、わたしたちは水を飲むことができたのです…。古い友達、エディー・カンタブリさんに会うことができて…いくらかの食料をくれました…。わたしたちは、そこにちょうど7日間いました…。

ジ:そして…もっとも人びとの命を奪った危険だったものは…日本兵ではなくて…たくさんの日本兵は見ませんでしたから…。砲弾なんです…。アメリカ軍の砲撃が酷かったのです。5,6日目頃…砲弾が飛び込んできたんです。爆発して…尾翼(破片)の部分が残っていて…そこに一緒にいた、元兵隊だった人が「これは迫撃砲弾だ」って言ったんです…。「ミサイルでもなくて、アメリカ軍はすごく近くにいるから大砲を使わずに、いまは迫撃砲を使っているんだ」ってね…。2月17日、10時…わたしたちは 激しいアメリカの砲撃を受けました…すべてが静寂に包まれていました…。

Q:そのときは、あなたはフィリピン総合病院の近くにいたんですか?
ジ:はい。フィリピン総合病院の中ににいましたよ。地下の通路にね…。すべてが静寂で…そして、なにか音が聞こえたんです…ノイズが…。そしたら、叫び声が…「アメリカ人だ!アメリカがやってきた!」って。わたしたちは穴から出てきて、白人を見つけたんです…。彼がアメリカ兵かどうかはわかりませんでした…。わたしたちが知っているアメリカ兵は…バタアンのときには、古い…世界大戦のときのヘルメットをかぶっていましたから…。それを、わたしたちは「スープレイ・ヘルメット」と呼んでいました…。

カバルス:それは、「ブラック・アンド・ブリッジ・ヘルメット」に似てるものですね…。
ジ:はい…その男は、ドイツ兵のヘルメットのようなものをかぶっていました。彼は古いニフォームを身に着けていて…バタアンの戦争のときのカーキー色でした…。彼は、私たちが見たことがないようなライフル銃を持っていて…カービン銃でした。わたしたちがよく知っていたのは…ガーランド・ライフル銃です。そして…彼が言葉を発したときに、わたしたちは、彼がアメリカ人だということがわかったのです…。それで、私は、内心、思ったんです…「わたしは生きている!、生きている!…生きのびた!」ってね…これが、私の経験したことです…。

ジ:言っておきたいことがあります…。戦後、私は日本へ何度も行きました。わたしたちは繊維関係の仕事をしていて、伊藤忠と取引があったんです。日本人以上にもてなしをしてくれて、あんなに礼儀正しく、規律を守る人たちを見たことがありません…。とても驚きました。大阪に行ったときのことですが、わたしは道に迷ってしまったんです。私は話ができる助けてくれそうな人を探していました…。学生のような人を見つけたので、その人に英語で話しかけたのです…。彼は英語を話すことができませんでした…。彼が何をしたと思いますか…。彼は人を探し始めたのです。英語を話せる人を見つけて、私のところに連れてきてくれたのです…私を助けるためにね。私は、この、皮肉といいましょうか…理解できませんでした。私は、そんなもてなしをしてくれる素晴らしい人を見つけたのです。なのに…軍隊はどうだったのか…なぜ、あんなに野蛮なことを…かれらは南京やフィリピンで行ったのか!…。

ベ:自国にいるときには礼儀正しくて、でも、外国に出れば…征服者となる…。それは、違った精神状態なのですよ…。
ジ:グレイス(おそらく、アイリス)・チャンのことを聞いたことがありますか…彼女は「レイプ・オブ・南京」の作者ですが…
Q(刀川):はい。
ジ:その本の中で、彼女は二人の士官(の話をしています…。彼らは競争をしていたというのです…1時間にどれだけ首を切り落とすことができるかっていうね…。その本を読みましたか?
Q(刀川):はい…。
ジ:1時間後、どちらが勝ったかを決めて、それから、また、同じことを始めるのです…。私にはうまく整理して理解することができないのです。あんなにも、もてなしをしてくれる人たちに会ったことがないのに…日本人ほどね…。でも、戦時中の日本人を思い出す時…私はいまだに、三つの日本語を覚えていますよ。「こら!こら!」…人を呼ぶときに「こら!こら!」ってね…。「バカやろう」…stupid!! …。「どろぼう」…この三つの言葉を覚えていますよ(笑)。

ジ:私の体験のひとつですが…戦中にね、学校に戻ったときのことです…。みんな、「にっぽんご」を学ばなければならなかったのです。毎日、授業が始まる前には…「ラジオ体操」をやってましたよ(笑)…。

Q:あなたもやったんですか?
ジ:はい!覚えていますよ。

Q:どう思いましたか…ラジオ体操をやるのを?
ジ:(笑)…やらなければいけなかったし…「にっぽんご」も勉強しなければいけないし…。でも、わたしたちの先生は…ドイツ人修道士だったんです(笑)。ドイツ人が日本語をフィリピン人に教えていたのです(笑)。わたしはカタカナを書くこともできましたよ。

Q:いまでも書けますか?
ジ:いまは、もう書けません…。カタカナとひらがなと漢字があるでしょ…。カタカナが簡単でしょ…。でも、いまはもう、書けません。もう、忘れてしまいましたよ…。

Q:ドイツ人の先生は日本語の話し方、書き方を知っていたのですか?
ジ:誰が?  

Q:ドイツ人の修道士です…
ジ:はい。一人だけ日本語を話せるドイツ人修道士がいたのです。彼がわたしたちの先生でした…。おかしいでしょ…。ドイツ人がフィリピン人に日本語の話し方を教えていたのですからね…。お笑いですよね(笑)…。

ジ:でもね…私たちは、みんな、日本兵を恐れていました…いつもね…。日本人と会ったときには、立ち止まって、ちゃんとお辞儀をしなければならなかったのです…。
Q:あなたもやったのですか?
ジ:そうしなければ、ビンタされてしまいます…日本兵はとてもビンタするのが好きなんです…。顔が気にくわないとうだけで ビンタです…
Q:あなたもやられたことが?
ジ:私は、ないです…。でも、他の人がビンタされるのを見ましたよ。私はそのとき…仕事をしていたんですが…。アメリカの漫画がたくさんあったんですね…。たくさんのアメリカの漫画あったんで…本の露店を開いて、漫画を貸し出していて…そこで、人びとは漫画を読んでいたんです…。でも、すべての本はアメリカの漫画だったので、ある日、日本兵がやってきて…わたしたちのすべての漫画を没収していきました…。それで、わたしの仕事は終わってしまいました…(笑)。

ジ:私の母は地雷の爆発でひどくケガをしました。身体の半分に爆弾の破片がくいこんでいました…。

Q:地雷…
ジ:地面に埋められた「地雷」です…地雷を踏んでしまったんです。

Q:でも、亡くなりはしなかった…?
ジ:はい。亡くなってはいません。彼女は生きていました…。でも、私の父は9か月間もサンチャゴ要塞に拘留されたんですよ。あなたはサンチャゴ要塞のことを知っていますか? とっても馬鹿げたことがあったんです…。私の父は小売店を営んでいました。父はゲリラの部隊を支援していていました…母の出身地のバタアンのディナルピアン(地名=戦闘地だった)をね。父はいろんな物資を送っていました。タオルやいろんな繊維をね…。従業員にパック詰めさせて、それらを送っていたのです。従業員たちは、物資をわたしたちの会社の名前が入った包装紙でパッケージしていたんですね。そして、日本軍がそのゲリラ部隊を急襲したときに、会社の名前が入った包装紙でパッケージされたものを見つけたわけです。なので、日本軍は父を捕まえたのです。そして、父は9か月間も拘束されることになったのです…。

Q:9か月間も…
ジ:9か月間です。

Q:拷問もされたんですか…
ジ:彼が出てきたときには、指の爪は、はがされていましたし…なにかを指の爪のところに差し込んでいたんです。腕を後ろ手に結んで拘束されてね…。私の母は、サンチャゴ要塞の日本人の管理者に会う約束をとりつけてきました。わたしたちが、父に面会に行くためにです。そして、わたしたちは、ある部屋に連れていかれて…日本軍の司令官が中央の椅子に座っていて…左手には通訳者がいました…。通訳者が最初に話す人で…私たちが彼に話すと、その通訳者が言葉少なに答えるのです。わたしたちは ただ、父との面会を求めました…。「絶対に駄目だ」ってね…。しかし、そこにいた管理責任者が通訳者に言ったのです…「かれらに、あっちではなくて、こっちを歩いて帰るように」と…。かれらは、わたしたちに歩くように促し、それにしたがって歩いていくと…植え込みの向こうに…私は一人の男を見つけました。髭も剃ってなくて…「父だ!」…。少なとも、管理責任者は優しい気持ちの持ち主だったのです。父に外に出ることを許して、その場を通らせて、わたしたちと父が会えるようにしてくれたのです。でも、日本の士官に優しい施しを受けた経験は…このときだけです…。

ジ:もっとも大きなな悲劇のひとつは…デ・ラサールでの修道士の虐殺事件だと思います。あなたは デ・ラサール虐殺事件のことを知っていますか?
Q(刀川):本で読みました。
ジ:亡くなった人たちは…デ・ラサールの修道士たちはドイツ人でした…。ドイツと日本は同盟関係でした。なのに、なぜドイツ人の修道士を殺したんでしょうか…。理解できません…。その中の3人は…アイルランド人…うちの一人はハンガリア人…あと残りはドイツ人でした…。

Q:あなたの父親について聞きたいのですが…9か月間、拘留されていたのですよね…
ジ:もう一度お願いします…。

Q:あなたの父親は9か月間、イントラムロスに拘留されていたのですよね…
ジ:はい…サンチャゴ要塞にね…。

Q:サンチャゴ要塞での虐殺のことを本で読みました。戦後…そこで多くの犠牲者が出たことがわかっていると思います…。
ジ:400人以上の人たちがそこで殺されましたよ…

Q:あなたの父は、どのうようにしてそこから逃げ出したのでしょうか?
ジ:いいえ…彼は9か月後には釈放されたのです…。解放されたのです…。父によれば、ひとつの監房には、約20人の人たちが拘置されていたそうです。その中のひとりが毎日、「便所ボーイ」の役目をさせられていたそうです…「便所」はわかりますよね…。缶が部屋の隅にあって…それが便所で…毎日、その缶を持ち出してきれいにする役目をひとりに割り当てられていたそうです(笑)…。便所はわかりますよね。
Q:はい。

カバルス:ジムさん…あなたの父親は、いつ収監されていたんですか?
ジ:それは…42年…だったと思います…。

カバルス:42年に収監されて、43年に釈放された…
ジ:はい…

カバルス:9か月で…
ジ:9か月です。 

カバルス:では、43年の中ごろですか?
ジ:そのころだった思います…。覚えているのは…父を迎えに行ったときに「ドーカー」で迎えに行ったことです…。みんなが持っていたのは馬車や馬だけで、車はありませんでした…。多くの人たちは馬を飼っていて…。それを「ドーカー」って呼んでいました…。

Q:あなたの家族や親族も…すべての家族は…
ジ:全員、生き延びることができました…。誰も殺されませんでした…あの少女以外はね…地雷でやられたね…。

Q:その爆発はあなたの目の前で起こったのですか?
ジ:はい…。わたしが…ここにいたとしたら、彼女は、すぐそこにいたのです…。私の耳は…

Q:あなたは…とてもラッキーだったのですね…
ジ:ラッキーでしたが、いまでもわたしは夢にみます。トラウマになっています…トラウマなんです…。

Q:あなたたちはマラテ地区(戦闘の現場)にいたのに…日本軍は…「(家から)1時間以内に出ていけ」と言ったんですよね(殺さずに逃がした)…。しかし、マラテ地区では、日本軍は人びとを集めて虐殺事件を起こしていますよね…爆弾とかでね…
ジ:わたしたちは虐殺が始まる前に逃げ出すことが許されたんだと思います…。わたしたちは2月9日に逃げました…。虐殺はその少し後で起こったのです…。2月9日はまだ始まったばかりで、かれら(日本軍)はあたりの家々を燃やすことから始めたのです…。私が思うには…日本軍はわたしたちを追い出して、家に入ることを目的にしていたんだと思います。中にあるものを奪うためにね。わたしたちを殺すことを目的にはしていませんでした…。もし、かれらがわたしたちを殺したら、120人もの死体をどこに遺棄したらいいでしょうか…。わたしたちを殺したら、家の中に運びたくもなかったと思いますし…。百人以上の死体をどこに置きますか…。そこにはネズミもいますし…。なので、わたしたちを逃がす方がかれらにとっても好都合だったのでしょう…。家の中に入って、ほしいものを奪うためにね。戦争が終わった後、わたしたちは戻りましたが…家の中で、8人の日本兵の死体を見つけました…。そして、価値のあるもの…すべて…靴が盗まれていました…。口は開いていて…金歯が…引き抜かれていました…。そして、たくさんの日本の旗も見つけました…。字が書かれていたね…。あとでわかったことなのですが…それは…友人や家族の寄せ書きだったのですね…。

★  ★  ★  ★

③Mr. Albert Montilla(アルベルト・モンティーリャさん)1935年生まれ。

スペイン語を日常的に話していた家庭で育ったというモンティーリャさん。家の外ではタガログ語で話し、乳母はイロカノ語(地方言語)を話していたといいます。当時のマニラの様子も含めながら、戦時下の記憶を辿っていただきました。

※ ア:Mr. Albert Montilla(アルベルト・モンティーリャさん)

04330

ア:私はアルベルト・モンティージャです。1935年に生まれました。7歳のときに、戦争が勃発ました。(マニラが)解放されたとき、幸運にも、わたしたちはマニラの北部(パッシグ川の)にいました…。マニラ・ジョッキークラブの近くです。アメリカ軍がマニラに入ってきてきた後、私たちの場所では一日だけ、銃撃も戦闘もない…停戦の日がありました…。ある晩、アメリカ軍が入ってきて…消火活動を行っていて…わたしたちは地下に隠れていましたが、わたしたちには、なにごとも起こりませんでした。しかし、私の親戚が亡くなりました…。おじが…カリフォルニア・ストリートで亡くなりました…。そこは…パコ地区の近くです…。地下に避難していたのは…私のおじと…二人のおば…三人でした…。戦闘が起こっているときに、日本兵がやってきて、わたしのおじを捕まえて…外に連れ出して…どこかへ連れていって…(おじの)娘は…彼になにが起こったのか知らないそうです。彼が戻ってきたときには、ケガをしていたそうです…。おじは、そのときは大丈夫だったのですが…かれらはおじを看病して…その二日後…また、別のグループの日本兵がやったきたのです…。彼を捕まえて、家の中に連れていって…かれら(日本兵)は、通常…家の中に連れ込むと…閉じ込めてしまい…手榴弾を投げ込むのです…。

Q:何を投げた?

ア:手榴弾です…。そのようにして、おじは殺されたのです…。別のおじは…同じ地区でしたが…彼は逃げ出すことができました。その頃、日本軍はマニラ・ジョッキークラブを砲撃していました。そこはアメリカ軍の緊急病院として使われていましたから…。なので、わたしたちは移動しなければなりませんでした。メトロ・ドラッグ(メトロ薬局)の方へ…リサール・アベニューの…。そこに避難民は移動していて…おじは、そこの薬剤師のチーフでした…。 わたしたちがそこにいた時、おじがやってきました…。彼はケガをしていて(手首を指し示し))血が出ていました…。(爆弾の)破片があたったのです…。でも、ケガはそれだけで済みました…。別の…私の大叔父は…かれらは…イントラムロスの中にいました…城塞都市の(パッシグ川の南側)…。避難民たちは(日本軍によって)サンオーグスティン教会に集められたのです…。日本軍の兵士が…まわりをぐるぐると回って…そして、大叔父を連れ出し…サンチャゴ要塞に連行していったのです…。そして…彼は、二度と戻ってくることはありませんでした…。この家族のなかには…3,4人のいとこがいました。教会の中で遊んでいたのですが…突然、アメリカ軍が砲撃してきて…壁を突き破るために、教会に爆弾を打ち込んだのです。そして、大きなが穴があいて…。その場所で、私のいとこたちが遊んでいたというのです…。そして、かれらは死んでしまいました…。

ア:わたしたち…北部にいたものは、とても幸運でした…。一人だけを除いてね…。なんといえばいいのか…プロット…。プロットとは…私たち家族に迎えた子どものことをいうのですが(おそらく養子のこと)…。この少年の父親は、私の地方に暮らす祖母の料理人でした…。戦中に…いや、戦前に、彼は 寡夫になっていたので…祖母は、その少年(料理人の息子)をマニラに連れてきたのです…。マニラで学校に行かせてあげようと思ってね…。残念ながら、戦中は学校はありませんでしたがね…。そして、アメリカ軍がやって来た時…私の兄はそれに気づいて…彼は当時、まだ、ティーンエイジャーでしたが…2ブロック先まで、それ(米軍)を見にいこうとしたのです。この少年は…兄のあとをついて行ってしまったのです…そのことを告げずにね…。日本軍が砲撃を始めて…そして、飛んできた砲弾が彼の近くに落ちてしまったんですね…。彼はお腹を(砲弾の破片で)やられてしまったんです。彼は戻ってきたのですが…(お腹に)小さな傷があっただけでしたが…血が出ていて…。私の父は、彼を抱えてセント・ラサール病院に駆けこみました…。しばらくして 彼は死んでしまいました…内出血でね…。

★  ★  ★  ★

④3人一緒に自由に話をしていただきました。

※ ベ:Mr. Benito Legarda Jr.(ベニート・レガルダ・ジュニアさん)
※ ア:Mr. Albert Montilla(アルベルト・モンティーリャさん)
※ ジ:Mr. James T. Litton(ジェームス・リットンさん)
※ カバルス:Mr. Jose Miguel Cabarrus(「メモラーレ・マニラ・1945」代表、ホセ・ミゲル・カバルスさん)

04950

Q:みなさんの子ども時代の生活のことを聞きたいです…日本軍が来る前の…
ベ:私自身のことを話せば…とても平和な時代でした…。安定していてね。家族の生活も普通でした…。

Q:良き時代でしたか?
ベ:良き時代でした。あるいは、進歩している時でもありました。日々、生活はよくなっていっていました。また、わたしたちは、フィリピンのコモンウェルス政府(フィリピンの完全な独立のための準備をする暫定政府)において、前へと進んでいるときでした。1935年、コモンウェルスの発足において、就任式でケソン大統領が発言する場に、母が私をつれていってくれました…。わたしたちは、国が独立に向けて進んでいるところに立ち会っていたのです…。

Q:当時は、どんな食べ物を食べていましたか?
ベ:当時は…いろんなものを。家庭では…わたしたちは、スペインから多くの影響を受けていて…スペイン料理もあったし、フィリピン料理も食べていましたよ…シニガン(スープ)は好きでしたよ。そんなもの…なんでもね…なんでも食べることができましたよ…。アメリカ料理もね…。

Q:いつも、食料は十分にありましたか?
カバルス:戦前ね…
ベ:戦前は、もちろん(ありましたよ)…。

ベ:学校の授業は英語で行われていました…。学校が終わった後も、しばらくは、わたしたちは英語で話をすることもありました。解放された1945年には、教会区の友人がアメリカ兵と英語で話していて「どうして、そんなに変な英語を話すのか」と…。そんなことを言われていたんです…。わたしたちは家では英語を話してはいませんでした。ただ、適応していたのです…幼稚園の初年度ぐらいからね。わたしたちはタガログ語もスペイン語も話していました。私の母はパラワンの言葉…「プヨノ」を話していました。わたしは、それらの言葉を話してはいましたが、通常は、英語を話してはいませんでした(笑)。

Q:子ども時代にはスペイン語を話していたのですか?
ベ:いいえ…

Q:そんなには…
ベ:いろんな言葉を…なんでも、家では話していましたよ。ある人はタガログ、ある人はスペイン語…私の母の家族はプヨノ語を話していました。しかし、学校に行けば、みんな、英語を学んでいました…。

ア:わたしたちの家族は…私のことをいえば、私はスペイン語の中で育ちました…。もちろん、まわりではタガログ語が話されていて…選んでいました。わたしの乳母は、イロカノ出身で…午後にはいつも私を連れ出していました。当時は、私はFBハリスに住んでいました。私を通りまで(散歩)連れ出してくれていました…。いまはロハス通りと言いますが…以前は、ドゥーイ通りと言っていました…。彼女は友人たちに出会うと、イロカノ語で話をしていました。わたしは、そこで学んで(イロカノ語を)…そして、家に帰ると…私の父はイロコス生まれなので、イロカノ語を流暢に話せました…。父や母に、私が、これはなにで、あれはなにで、と(イロカノ語で)言うと…母は驚いていました。私は、自然に、両親から…父から…彼女(乳母)からイロカノ語を学んでいたのです…。いまでも、なんとなく思い出せますよ…。

ジ:私のもっとも早い時期の日本についての思い出と言えば…「メイド・イン・ジャパン」というフレーズにつながるものです…(三人、大笑い)…。当時、私はまだ、子どもでした。子どものころ…もろくて、小さなものは…それは「メイド・イン・ジャパンだ」って言われたものです。戦前の、日本のものは、とても、劣ったものだったのです。なにか、よくないものを指して「メイド・イン・ジャパン」って言っていたのです…。いまとは対照的です。いまでは、日本のものは、もっとも優れています。それが、私の古い記憶です…。日本製っていえば、粗悪品だったのです。それは脆かったのです…。

ジ:思い出すと…戦前は、多くの日本人がマニラでビジネスをしていました…。私の両親の親友で…ワック・ワック・ゴルフクラブで…イマムラ夫妻と両親は一緒にゴルフを楽しんでいました…。とてもよく覚えているのが…日本の女性は、男性の後ろを歩くことです…。そのときに、わたしは思いましたよ…「日本の女性は自由ではないんだなあ」って…。多くの日本人が、ここでビジネスをしていました。エンジニアリング・ビジネス…。かれら(日本人)から教わったもので…わたしたちが大好きな「ハロハロ」…甘いものを調合したものですが…それは、ほんとうに、日本人がオリジン(始まり)なのです。戦前のことですが…多くの通りの角には、日本人のお店があって…かき氷器(氷の圧砕器)がありました…。かれらは「ハロハロ」のようなものを販売していんですよ…氷を砕いてね…。

ベ:「ハロハロ」の意味は…混ぜ合わせるということです。

ジ:フィリピン人は「ハロハロ」はフィリピンのものだと思っていますが…私は、日本人からきたものだと聞きました…。日本から影響を受けているものは、わたしたちが思っている以上にあると思いますよ。戦前には、多くの日本のビジネスがあったのです…散髪屋…エンジニアリング…かれらは、とても平和的な人たちでした。日本人との間になんの問題もありませんでしたよ…。

ベ:働き者でした…。

ジ:働き者でした。

Q:マニラでの日本人の人口は多かったのですか?
ジ:はい…かなり多くの日本人がいました…。
ア:その多くは、ダバオにいました…。かれらはアバカ(マニラ麻)の栽培をしていました。
ジ:ダバオは日本人によって開発されたのです…。
ベ:「オオタ(太田恭三郎)」が会社を起こしました…。
ア:最高のアバカは、ダバオの日本人によって生産されていたのです。

Q刀:マニラでは、当時、あなたたちは友達とどんな遊びをしていましたか? 当時、あなたたちは子どもだったでしょ…。
ジ:日本人の友人もいました。私の両親に日本人の友人がいましたから…。ゴルフを一緒ににしてね。でも、私はラサール(学校)では日本人の友人はいませんでした。ラサールには日本人はいなかったのでね…。日本の子どもたちがどこ(の学校)に行ってたのかは知りません…。当時、日本人学校があったのかな…。
ベ:私には日本人のクラスメートが一人いました…アキジ・ナカムラです。
カバルス:アテネオ(高校)にですか?
ベ:はい。アテネオです…。わたしたちは、彼をうらやましく思っていましたよ。彼はカトリック教徒ではなかったのでね…。毎朝、授業の初めは宗教の時間で、8時からでしたが…彼は出席する必要がなくて、彼は8時半に来ていました(笑)。
カバルス:日本の子どもたちの学校はあったのですか、ベニートさん?
ジ・ア:思い出せないですね。戦前にあったのかなあ…ベニートさん?
ベ:ありましたよ…レパントに。日本人学校がありました…レパント通りにね。
ア:バギオにもありましたよ。そこにも多くの日本人が暮らしていましたからね。
カバルス:子どもたちも?
ア:よく知りませんが…かれらの多くはケノンロードを作るために来ていましたからね…。彼らの多くはバギオにいました。
カバルス:1903年か4年ごろに、アメリカ人によって集められたのですよね。
ア:そうです…。
ジ:かれらは丘陵地帯を開拓して、野菜なんかも栽培していたのです…。
カバルス:米も栽培していましたよ。

Q:日本人の子どもと遊ぶことはありましたか?
ベ:そんなにはありませんでした。
ジ:そんなにはね…。あたりには日本の子どもはあまりいませんでしたから…。
ア:たぶん…子どもたちには向こう(日本)で学校に行かせていたんだろうと思います…。
ベ:アテネオには、3人の日本人の生徒がいました。アキジ・ナカムラと彼の二人の兄弟です。
カバルス:何人かはいたのでしょう。でも、そんなには多くなかったということですね…。

Q:当時、たとえば10年後には戦争がやってくるなんてことを考えていましたか? とても、平和だったのでしょ…
ジ:いま?

Q:いいえ…戦前です…子どものころのことです。
ベ:戦前は…戦争が始まることを恐れていましたよ。ヨーロッパでは(戦争)が始まっていましたから。また、日本は中国を占領していましたから。戦争が世界に広がっていく可能性がありましたからね…。

Q:あなたは子どもだったんですよね…。そんなふうに考えることができましたか…子ども時代に?
ベ:私はすでに成長していましたから。「戦争が始まるんじゃないか」とか話をしていましたよ…戦争がくるかもしれないなあと…。
ジ:私は、なにも考えていませんでしたよ。戦争がなにかなんてわかっていませんでしたから。
ア:私もわかっていませんでした…。私が思いだすのは…戦争が始まったとき…その同じ日に「戦争が始まった」ということを聞いたのです…。そして、飛行機がやってきて…私は母に訊きました…「戦争なの?」ってね。そんな感じ…。母はただ、縫物をしながら「そうよ」ってね。でも…そのあとに、爆撃とかを経験することになるのですが…。でも、その前にはなんにも想像することはできませんでした…子どもだったからね…。

ア:私の場合は…戦争が始まったのは…こんな感じでした…。私の父が招集されたのです…。父は予備役兵でした。諜報活動するように命令を受けて…最初に報告を行った後に、また、決まった日、決まった時間に戻ってくるように命令を受けていたそうです…。どうなったかというと…父は報告するために、その場所に戻りました…。でも部隊は早く移動していていました。父は、後を追いかけていく手段がなかったのです…。
ベ:誰もいなかったんだ…
ア:そうです…。それで、マニラにいることになりました。わたしたちは、すでに戦争が始まったんだということを知りました…。そして、爆撃が始まると…私たちは移動しなければいけませんでした。爆撃の間隔がどんどん短くなってきましたから、その場所から出ていかなければなりませんでした。私の祖母が「カラワンに移動した方がいい」と言いました。カラワンとは…
ベ:ケソン
ア:ケソン州です…。そこに畑があって…祖母は、わたしたちはそこに移動した方がいいと、安全だから、と言いました…。日本軍がやってくる数日前に…人びとはすでに移動をあちらこちらと始めていました。わたしたちは列車の駅に向かいました。列車が来るのを待っていたのですが…列車は出発したばかりでした。そこに飛行機が来るのが見えました…。その飛行機は、その列車を追跡していきました…。わたしたちは次の列車を待っていたのですが、まったく来ないので…結局は家に戻ることになったのです…。

ベ:私の場合は…先ほども話しましたが、わたしたちはミサに出るため学校へ行っていました。「義務の祝日」で、学校のミサに参加していました。まさにそこで、ニュースを聞いたんです…ラジオから「真珠湾が爆撃された」と流れてきたのです…。ミサの後、家に帰り…その後、学校へ行くことはありませんでした…。

ジ:(ベニートに)あなたは…そのニュースを遅れて聞いたに違いありません…。なぜなら…その日は、月曜日の朝でした。「義務の祝日」で、私はミサに参加するつもりでした。朝の5時に、私は目を覚ました。家のすべてが大騒ぎの状態でした。私の家にはたくさんの親戚が暮らしていました。バタアンからやってきた親族たちです…。知ってるでしょ…象徴的な場所であるバタアンです。かれらは私の家にいて、フィリピン大学に通っていたのです。私の家から通りを挟んだ向かい側にあったね…。かれらは そこに通っていました。かれらは荷物をバタアンに戻るためにまとめていたのです…。騒ぎになっていたから…私は目を覚ました。そのときに、戦争が始まったのだと知りました。真珠湾が爆撃されたんだってね…。そして、1、2日後に…同じ日だったかな…日本の飛行機が飛来して…湾の船の爆撃を始めたのです…。

ベ:それは、次の日です。

ジ:わたしたちはマニラ湾のすぐそばで暮らしていました…エルミタに…。日本軍はパッシグ川沿いに…船を爆撃しました。当時は、パッシグ川には小さな船が停留していました。そこの船を爆撃したのです…。

ベ:それは、あとのことですね。日本軍が最初にマニラを爆撃したのは…夜です…。12月8日の夜でした…。

ジ:12月8日の夜…おそらく、そうです…。爆撃の後、私の母は恐がって「エルミタから離れよう」って言っていました。湾への爆撃が続いていましたからね…。なので、わたしたちはアンティポーロに移動したのです…。それは、マニラの西側になります…。ニュースが届くまで、そこにいました。1月2日に日本軍が入ってきた、っていうね…。誰がわたしたちに言ったのかはわかりませんが…「窓に白色の布をかけるように」と言われたのです…。意味は…わたしにはわかりませんでしたが…

ベ「:降伏」という意味…

ジ:「わたしたちは市民で兵士ではない」ということだったのかと…。たくさんの人たちが布をかけていました…。

ア:もしくは タオルとかをね。

ジ:わたしたちにはまだ車があって、ガソリンもありました…。車を使えましたから、マニラに戻って…家に帰り…フィリピン大学は日本軍に囲まれて、すでに占領されていました。誰かが(剣道の手振り)…頭には…身に着けて、練習をしていて…

Q(刀川):剣道…
ジ:それから…丸い…鉄の…車輪…くるくると回して…

Q:なにか、スポーツですか?
ジ:なんと呼ぶか知りませんが…とにかく、フィリピン大学はすべて日本軍に占領されていました…。

Q(刀川):そうだったんですね…。日本軍が占領していた間…なにか楽しみはありましたか? たぶん、ストレスのある状況だったと思うのですが…どのようにして…そんな状況でも楽しく生きようとしたのかな…と?

ベ:当時は、映画がまったく入ってこなくなりました…。なので、すべての映画館で(同じ)映画を3回でも4回でも5回でも上映していましたよ…日本の映画です…。誰もが、そんな映画は好きではありませんでした。それで、どうしたかというと、ステージでショーを行うようになったのです。映画の上映に加えて、ステージショーを行ったのです。とっても素晴らしいステージが…ミュージカルがありました…。

ア:その他にも、たくさんのコメディーの出し物がありましたね…二人のコメディアンがいてね…「トーゴとポーゴ」というコメディアンです。

Q:フィリピン人ですか?
ア:はい、フィリピン人です…。禿げ頭でね。ひとりは太っていて…もう一人は痩せでした…。あるステージで、彼らが登場すると、ひとりは日本の服を着ていてね…ここ(腕)には腕時計をつけているんです…。それはね…(日本の)兵士たちがよくやっていたことだったのです…。かれらは誰か(フィリピン人)を捕まえると、腕時計や財布を奪っていたのです。多くの兵士が、ここ(腕)にね…3、4個の腕時計をつけていたのですよ…。それを真似て、皮肉って登場していたんですよ。もちろん 日本兵はそれを良く思っていませんでした。最後は、かれらはサンチャゴ要塞に連行されていきました(笑)。

Q:ほんとうに、日本兵は腕時計を集めていたのですか?
三人全員:はい!そうですよ!

ア:「没収」していたということです…。
ベ:指輪や腕時計…ペンや…
ア:なんでもですよ(笑)…

ジ:かれらが(ステージ上で)会話していたことは、実際にあった本当のことでね…ひとりがもうひとりに訊ねるんです…「スペイン人はこの国になにをもたらしましたか?」って。そうすると…「宗教だよ!」ってね。「アメリカ人は?」と訊くと…「教育!」ってね。…「では、日本人は?」って訊かれると…「配給だよ」…「爆弾の配給!」ってね(笑)…。爆弾はとても恐ろしいですよね(笑)…。なので、かれらは憲兵隊に捕まってサンチャゴ要塞に連行されていったのです…。

ベ:でもね…「トーゴとポーゴ」っていう名前は…トーゴは日本の名前だから、かれらはフィリピンの名前に変えたんです。「トゥギン」です…。「トゥギンとプギン」にね…。もしくは、「トゥガットとプガット」にね…。
ア:かれらは名前を変えたのです。
ベ:「トゥガットとプガット」です。
ア:トーゴは首相(日本の)です…考えてみてくださいよ(笑)…。
ベ:そのネタの他のバリエーションにはね…初めのうちは、腕時計は表に見えてなくて…長袖を着ててね…それで「何時ですか」って聞かれて、「はい」って言って袖を巻き上げると、腕いっぱいに腕時計が着けられているんです(笑)…。

ジ:私がある日…見たことなんですが…しばしば、日本兵は通りにある消火栓をあけて…当時は、消火栓があったんです。その消火栓を開けて、身体を洗っていたのです…通りでね…。そのときに私は気づいたんですが、日本人は下着を身に着けていないんですね…。かれらはジーストリング(陰部のみを隠すひも付き下着=ふんどし)をつけていたんです…そうですよね?!
Q(刀川):はい…ふんどし…
ジ:かれらはジーストリングをつけて、ジャッキーショーツ(パンツ)を身に着けていませんでした(笑)…。
ベ:私の母は ショックを受けていました…(大笑い)…。

Q:戦後、状況は最悪で、親族も亡くしてしまったりして…そんな最悪の状況の中で、どうやって、その後の生活を続けていこうとしましたか…

ベ:疑問を持つ余地もなかったですよ…。生き続けていくしかないじゃないですか…。国を復興させなければいけないですし…すべて破壊されていましたから…疑問を持つ余地なんかないですよ…働かなきゃいけないし、再興させていかなければいけないし、生き続けていかなきゃいけない…。

Q:なにが大変でしたか…。食べ物に関して言えば、食べていかなければいけなかったでしょ…。水も必要だったろうし…。
ベ:私の年齢から言えば…勉強をどうするかっていうことでした…学生でしたから…。
ジ:わたしたちは、まだ、若くて、両親に依存している状態でしたからね…。
ア:戦後はね、1940年代後半から50年代にかけてのころでしたが…誰もが日本人とは会いたくないと思っていました…。

Q(刀川):誰しもが…
ア:もちろんですよ…。親戚や父親、母親が死に…殺されたりしたんですからね…。日本人なんか見たくもなかったのです…。しかし、50年代…50年代の後半になると…日本人がやってくるうようになりました…。なんといえばいいのかなあ…たとえば、「南洋物産」とか…そういう人たちがやってくるようになって…大きな会社の代表としてね。機材とかの売りつけのためとか…ここでね…。そんな感じで始まって…わたしたちも受け入れていく(日本人を)ようになって…少しずつね…。

ベ:知っていますか…一般のフィリピン人は日本人の船員を歓迎しませんでした。1950年代中ごろまでね…。そのころまでは、日本人の船員が船から降りて街中を歩くのは危険でした。1950年代の中頃から以降は、少しましになりましたがね…。
ア:わたしたちが、初めに聞いた日本の車の名前はトヨペットでした…トヨタです…。でも、トヨペットとして覚えています…。確かなことは忘れてしまいましたが、ある会議で何百台もの車を持ってきて…それから少しずつ…。
カ:少しずつ 準備をしてね(笑)…
ア:小さな車でした…
カ:トヨペットね。わたしも覚えていますよ…。

Q:1945年に戦争が終わったとき、あなたたちは何歳でしたか?
ア:9歳でした…。
ベ:わたしは15歳でした…。いや、18歳でした。
ジ:私は12歳でした…。

Q:戦後…学校に行くようになりましたか? 当時は、なにに力を入れていましたか?
ベ:学校に行くことです…
ア:学校に行かされましたよ…両親にね。
ジ:選択の余地はありませんよ…学校に行くだけです。

Q:そうなんですね
ベ:選択の余地はありませんでした。父は私をアメリカに送り出しました…。

Q:アメリカ?
ベ:はい…。私はサントトーマス(大学)に入学したかったのですが、父はダメだというのです。「ここはすべて(の学校は)壊されてしまっているから、アメリカに行きなさい」ってね。
ジ:高校ですか、大学にですか?
ベ:大学です。私は、すでに高校から除籍されていることがわかったのです…。検証テストを受けることになって…。私も驚いたんですが、その試験に合格してね…。そうしたいわけじゃなかったけど…高校からは除籍されていたんだから、どうしようもないですよ(笑)…。

Q:でも、学校はすぐに始まったわけではなかったですよね。すべてが壊されていたんですから。いつごろ学校は始まりましたか?
ア:46年か47年ごろですかね…学校が始まったのはね。私の兄はアテネオで学びました。アテネオに登録しました。パドレ・ファウラ通りにあったアテネオ(学校)はすべて破壊されていましたから、アテネオはサンパーロックに移設されていましたがね。
ベ:いまはサンタ・テレシータにあります。
ア:兄は、そこの高校に行きました…。
ジ:ラ・サールの場合は、授業はアメリカのテントの下で行われていました。アメリカの軍隊のテントです。ラ・サールにはすべて軍隊が駐留していましたからね…。

Q:戦後ですか
ジ:戦後です。
ベ:女性の兵士がね…教育はセントラル・スコラはすぐにオープンしていました。サントトーマスもすぐに開講しました…(その他のオープンした学校の話)・・・・そんなに被害を受けてなかった学校がね…(また、学校の話)…

Q:小学校も…ラ・サールとか私立の学校が…
ベ:たいていの子どもたちは、公立の学校に行きましたが…公立の小学校は、機能としてはオープンしました。近くにあった、大きな小学校、「レガルダ小学校」の場合ですと…しばらくの間オープンすることができませんでした。そこは避難病院として使われていたからです。また、フィリピン軍の司令部としても使用されていました…。最後には学校に戻りましたけどね。その他の…マグサイサイ小学校やリンカーン小学校は…北部総合病院として使われていました。病院に変えられていました。

ジ:日本軍のね…戦争捕虜に関する扱い方について…私が見た事件の話をさせてください…。1月8日のことです…1945年のね…。B24が…マニラ上空を通過しているときのことです…。たぶん、8機ぐらいいたのかな。それらに向けて地対空の銃撃がありました…。空は真っ暗になって…その中の1機に命中しました。日本の対空射撃がね…。3つのパラシュートが飛び出してきました。2つは東の方に流されていきました。ひとつは、わたしたちの方に向かって飛んでくるのです。パイロットの姿が見えるのです。わたしたちは彼を見ていました。そのとき…銃撃音が聞こえたのです…。日本兵が(降下中だったパイロットを)銃撃したのです…。こんなことがありました…。あなた(刀川)がどう受け取るかはわかりませんが、これは本当に起こったことなのです…。あなたが、私がお話したことで傷つかなければと思いますが…。私は目撃したのです…。

ア:私も見ていましたよ…。
ベ:私も同じものを見ました…。
ア:わたしは…に住んでいました…
ジ:かれは、湾の方に向かって降りていました…ふたりは、東の方へ…どこに行ったかはわかりません。
ア:…によれば…
ジ:彼らは殺された?
ア:はい…。
ベ:飛行機は東へ方向を変えました。それから、サン・フアンに墜落しました。そこで爆発しました…。
カバルス:それは、ジョアンの家の近くだったんです。彼女がひとりのときに、落ちてきたんですよ…。
ジ:そうなんですか?
カバルス:そうです…木の上に。
ジ:とても大きな飛行機だったよ…。
かバルス:もうすでに、破片になっていたのだと思います。
ジ:ああ、そうですか…。
ア:プロペラはマーケットに落ちてきました…。

Q:若い人たちに…特に日本人に対してメッセージを…。みなさんは、激しい戦闘の生存者ですから…日本軍に引き起こされたね…。特に日本の人びとに対してメッセージをください…。

ベ:メッセージは…わたしたちは戦争の犠牲者だということです。わたしたちは侵略の犠牲者なのです。日本人は犠牲者ではありません。日本人は侵略者なのです…。二度と同じことは起こってほしくありません…。友人になりたいと思います…。

ジ:多くの人たちが言うことは…「わたしたちは赦すことはできる…。しかし、決して忘れることはできない」と…。私も同じように感じています…。

ア:私はすでに赦しています…。しかし、忘れてはいません…。ひとつだけ…日本の若い人たちは…規律を考えるべきだと思います…規律を持つべきです…。人生において成功をおさめたいと思うならば…命令ではなく…規律だけは実践すべきです…。それにしたがって、勉強することです。

ジ:日本人はもっとも規律を守る人たちではありませんか…。

ベ:規律正しいのは日本人で、そうではないのがフィリピン人ですよ。

ア:そうですね(笑)…。わたしたちが…規律からほど遠いですね…徹底してね…。

終わり