私の戦争の記憶:伊澤夙(はや)さん「生きるっていうのは、大変なことよね…」~二・二六事件・東京大空襲・戦後の困難   / ムービー(日本/東京)

私の戦争の記憶:伊澤夙(はや)さん「生きるっていうのは、大変なことよね…」~二・二六事件・東京大空襲・戦後の困難 /トランスクリプト

以下、
伊:伊澤夙 (はや)さん / 1929年9月生まれ
稲:稲塚由美子(聞き手)
(敬称略)

※数字は映像内でのタイムコード

00000
伊澤さんのお宅を訪問し、インビューの準備をする。

【家族写真を見せながら、語る】

00045
(古い写真を見せながら、家族の事を説明する伊澤さん)

伊:父なんかもね、ほんとに、父はね、素敵な人だった…。だから、みんな「パパのお嫁さんになる」って。優しくてね…とってもいい人だったでしょ…。

伊:(写真を出してきて)これが学習院のころでしょ…。
稲:あーおとうさまね。昭和天皇のご学友ですよね。

伊:そう。(写真を手渡して)これは、兵隊のときの写真。(伊澤さんの父の写真)
稲:これ、軍属? なんといえばいいんですか…軍医さんというか…。
伊:ねえ なんなんでしょうね…。

伊:(写真を手渡して)この銅像なんかね…こんなに大きくなってるの。母が90のときよ。 
稲:これは山本権兵衛さん?
伊:いや…これ、財部彪(たからべ・たけし)って…あの…
稲:財部さんかあ…

※財部彪:伊澤さんの母方の祖父。日本の軍人、政治家。最終階級は海軍大将。

伊:うん。海軍大将になって…。母の父ね。大井の方に作るところがあるの。写真を持っていって…「この辺がこう」だとか…。ひと月に一回ぐらい行っちゃうの、母とふたりで。ここはこうとか、ああ とか言って。最後にできたら、等身大のできたら…こんなに大きくてね。それの除幕式に行ったの。
稲:どちらで?
伊:都城…宮崎の。資料館の前の公園のところにあるんだけど…。もう、それが、91ぐらいのときに…母が行ったの。

00245
伊:(写真出しながら)これがね…父の…昭憲皇太后の「おすそほうじ(御裾捧持)」(御裳捧持【おんもほうじ】ともいわれる)って言ってね…お裾を持つの…それに、こういう格好をして…長~い…。
稲:昭憲皇太后って…大正天皇の… 
伊:大正天皇のあれ…
稲:ですよね…
は:それを…あの…

※昭憲皇太后は明治天皇の皇后。大正天皇の皇后は貞明皇后。

稲:華族さまの…お家柄の(笑)。笑いながらいっちゃいけない…。
伊:(笑)ほんとにね…でも、父はね…「平民」になるって言ってね…華族にはなりたくないって言って…。(大きな写真を見せながら)これが、母と父がお里帰りの…あれなの…。
稲:ご結婚なさった?
伊:結婚式じゃなくてね、「お里帰り」っていうのがあるの…その時の写真。
稲:「お里帰り」っていうのは…新居を構えて…。
伊:うん。それで…なんか…帰ってくるんじゃない…。そこに山本権兵衛がいるでしょ…この辺にいるんじゃない…。

※山本権兵衛:薩摩藩士、日本の軍人、政治家。第16・22代内閣総理大臣。伊澤さんの母方の曾祖父。

稲:これですか?(写真をみせて)前の左から二番目…
伊:(写真をしっかり見る)…これが権兵衛おじいさん。  
稲:三番目の…?
伊:これがおじいさまで、こっちがおばあさま…で、これが父の弟。 
稲:ご次男のね…   
伊:うん。で、これが母の弟…みんな、兄弟が集まってね。 
稲:これ…シャンデリアのあるところ…これはどこですか?
伊:これは…どこだ…どこの…むかしはね…こういうところが…あの…大臣官舎とかなんかで、こういうの…あったからね。
稲:そうですか…
伊:うん。

00518 
伊:(写真をみせる)これ…おじいさま…佐藤達次郎… 
伊:(また写真を出す)これなんかも…
稲:達次郎さんの奥さまが…あの女子美の…
伊:ううん…そのもう一代前。達次郎の奥さんというのは、「操」って言って…別にそういう、あれはやってない…。
稲:そうなんですね。 
伊:(写真を指差しながら)これは、あの…
稲:なに…ライオンじゃない?
伊:これのね…これのおかあさん…じゃなくて…この叔母のおかあさんが…静子おばあさまって言ってね…女子美の…あれなの…
稲:1932年、ドイツ留学中の佐藤忠雄…。
伊:これが旦那さん…これの旦那…(写真の中のライオンを抱いた女性)
稲:ライオンを抱いているのは…?

※佐藤達次郎:伊澤さんの父方の祖父。順天堂医科大学初代学長。
※佐藤静子:女子美術学校(現在、女子美術大学)の二代目の学校長。

伊:(写真を出して)馬に乗ってね…おじいさま…五十三次したの…(笑) 
稲:おじいさま…ほんとだ…。
稲:このまま…ぱっかぱっか歩いて…?
伊:それで、茶色い方の「モクダム」っていう馬に…あの…黒井大将っていう陸軍大将の…乗って…おじいさまと二人で…東海道五十三次…朝日新聞に載ったの…。
稲:男爵って…バロンですよね…。
は:そうそう。
稲:やっぱり…この時代にドイツ留学ね…なさるなんてね…。
伊:昔のね(写真をだしながら)…
稲:これは…四谷…
伊:これはね…駒込のあれじゃないかと思う…
稲:あー駒込?
伊:駒込にも、むかしね、駒込御殿っていうのがあってね…それこそ、静子おばあさまの時代かな…。それこそ、みんなが…矢羽根の女中たちが…矢羽根に…黒い縦の…そういうのを着て…引きずり出るっていうような時代…。

00745
伊:これが昭和12年…上野西洋軒…むかしはね、みんな…上野の西洋軒だった…。
稲:これですか?大丈夫?(写真を受け取りながら)…
伊:大丈夫…上野の西洋軒。この…三宅さんのおばあさまとおじいさま…(写真を出しながら)むかしはこういう建物がね…
稲:順天堂新年会…  
伊:でしょ。
稲:盛大でねー…
伊:これには出てないかもしれないけど…いろんな、あれが…系図があってね。森鴎外なんかも入っているの…
稲:あーなんか言ってらしたわね…。
伊:だから、「れお」と「おと」とか言うね、あの名前…。これがみんな…それから、五稜郭の…あの 榎本孝明…あの人とかね…。もう、わたしなんか、ぜんぜん、こういうの見てもわかんない…。
稲:おじいさまが…誰が作られたんですか、この?
伊:この、あれ?家系図ね…いろんな人がね (家系図をみせながら)…ここに書いてあるけど、その人その人で…これは「林きたろう」と「おたき」なんとか…「じんや」って書いてあるけど…その人たちが、自分たちが割とはいっているところがはっきりするのが…それぞれ…。
稲:そういうことですね…
伊:うん。それでね、どれがどれだか、よくわかんない…。だけど、もとになるところは、だいたい同じ…だから、わたしたちはここら辺に…ここからこういう風になってね、で、どっか…えーっと…(家系図をみながら)「しず」でしょ…達次郎がどこに…なんかこれ、あんまり、よくわかんない…「操」…ここにいる。この辺だ…。「夙(はや)」と「登美子」…まだ、登美子までしか書いてないから…。だから、 「有山」「江川」…それから、「加藤成之(かとうよしゆき)」…。
稲:これはお父さんの名前ですね?
伊:そう…これ…健(たけし)ね…
稲:ごきょうだいがね…7人きょうだいだったんですね…。
伊:「あいこ」さんっていうのは、早く亡くなってんの…なにしろね…みんな、あっちこっちが、養女だとか養子だとかが多いから(笑)…。
稲:やっぱり名家だったから…
伊:うん。

01143

【戦前・戦中編】

【戦前~子どもの頃】

伊:だから、生まれたのは四谷で、ちょうど昔でいうと、尾張町7番地っていうところなのね。そのあと、四谷1丁目13番地っていう地名になったんだけど。ちょうど赤坂離宮の記念公園が…昔の…赤坂離宮記念公園っていうのがあって、ちょうど前に…いまは迎賓館になっちゃったんだけど…昔は赤坂離宮。その赤坂離宮の前の公園の一角に家があった…。ほんとにね静かなところで、夜になると、フクロウが鳴くの…。あんまりいい気持ちしないでね。あのフクロウの鳴き声ってね…ちょっと恐いような感じだったんだけど。そこで生まれて…。父をとりあげたお産婆さんが、わたしをとりあげてくれたの。「林ツル」さんというおばあさんなんだけど…。だけど、なかなか生まれないんで…母がね…大きなお腹をして、赤坂離宮の記念公園の中を歩かされたらしいの…。昔はみんなは自宅で産んだでしょ…。父が私が生まれたときに、すごく喜んでね…泣いたっていう話を聞いたんだけど…次から次へと生まれてくるのが女の子だったもんで…ちょっとがっかりしてたらしいけど(笑)…。ちょうど、わたしは5人きょうだい。5人姉妹の一番上で…ともかく、四谷の雙葉の幼稚園に入って。歩いていかれるとこだったんでね。おじいさまとおばあさまと厳しかったけども、みんな、ひとりひとり女中がついていたの。だから、あの…「おつき」って言って…あたしについていた人はね…だいたい3年ぐらいで変わってたの。だけど、妹はね 13になるまでひとりの人がついていて。だからね…なんかね…寝るのもみんな、「おつき」の女中と寝てたから…それにみんな似ちゃったのね(笑)…。
稲:なるほどね。いろいろね…育てる人…。
伊:そうなの…育てる人が…あれだったもので…。あたしは3年ぐらいで変わっていたから、あんまり あれだったんですけど。まあ、大きくなってからも妹はずいぶんね…その人にかわいがられて…。それで、ちょうど小学校の4年生のときに、父がずっと…順天堂で外科医だったの。まあ、うちは…「佐藤泰然 」(さとうたいぜん)…「(佐藤)尚中(しょうちゅう)」「(佐藤)進(すすむ)」「(佐藤)達次郎(たつじろう)」っていって…代々、佐倉の順天堂を建てたもんで…そこから医者としてね…続いていて。まあ…優秀な人がわりに養子で来てたもんだから。それで、親戚がすごく多い。「達次郎(たつじろう)」っていうのが四代目なんですけど…そのおじいさまも…福井の方の出なんですけど…わりに身体が弱かった。お兄さんが医者だったのかな…。だけど、次男なんだけども、どうしても自分は医者になりたくて…それで…まあ…出てきちゃったわけ。親の反対を押し切ってね。すごく勉強をして。立派になったんですけどね。そんなで…ずっと、うちは外科医として…代々、あれして…。

01640
伊:父がちょうど、37のときね…順天堂から…満州国の錦州という…錦っていう字の…錦州というところに…。わりに北の方なんですけど…そこに…満州国の赤十字病院ができて…その初代院長で…どうしても3年間という約束で…向こうの…満州国に行かなくちゃなんなかった…。それで、母と3番目の妹がまだ小さかったんで…3番目の妹だけ連れて…。あたしとすぐの妹は雙葉の小学校の3年生と4年生だったもんで…留守番することになって。それで、祖父母のところに留守場してたの。まあ…そこで過ごしてたんですけど…。そのころ…やっぱり、バロン西さんが…親友だったから。よくね…父がいるころはね…ふたりでよく飲んでね…。 
稲:オリンピックにね…
伊:オリンピックで、そう!…あのロサンジェルスのオリンピックで、馬術の障害を飛ぶんで…。あれで、日本人が初めて金メダルを取ったの。あれからすごく…西さんもね…有名になられて。すごく父と似ているのね。ちょうど…父も学習院に行ってまして…ちょうど祖父が…やっぱり、昔の華族だったから…男爵だったもんで。それで…西さんの方も…西さんも男爵でらしたし…それで、母の…なんか前後しちゃうけど、母方の方は山本権兵衛の…あの長女の娘っていうんで…まあ、あっちは伯爵でしたけども…そんなで、母が結婚したりしてね。それこそ、ここに写真がありますけど。そんなでね…いろんなね…。

…(写真だす)…

01930
伊:これがね 父と母の…
稲:これが…
は:これが父と母の…
稲:はあ~…これは素敵だよね。
伊:それが、結婚して…わたしが生まれたころ…。あの…初めて生まれたときの。
稲:卂さん…?
伊:(笑) そう!!…いろんなね…よく西さんとは…よく飲んでね。もう、銀座なんか行っちゃあね…あのすごい…西さんの…おじさまって素敵な方でね…面白い方だから。奥様とうちの母と…入れ替えてね…「こっちがうちのワイフだ」とか言って…みんなに紹介したりね。そういう…すごいね…面白い方…。だけどね…西さんも硫黄島で戦史なさってね…。

02025
伊:あの…イギリスの皇太子…プリンス・ジョージが初めて日本にいらしたときに…ちょうど、母の方の父が海軍大将だったの。海軍大臣してたの。山本権兵衛がちょうど総理大臣やっているときかしら…そのころ海軍大臣をやっていて…。それで、大臣官舎で、プリンス ジョージがいらっしゃるんで、それで、ダンスのお相手を。それは…結婚する前なの。それで、母の…振袖を着て…。ダンスの草履っていうのがあってね…かかとがこんなに高くて…細い草履なの。わたしね、うちにこんな細くて高い草履があって…なんなんだろうって思ってね…見てたの。子どものころ…見てたことあったけど、それがダンスの草履なの。
稲:もうなくなって?
伊:もう、ないね。それも全部焼けちゃったの…。
稲:プリンス・ジョージがいらしたときって、昭和何年?
は:母と父が…あれしたのが昭和二年…結婚したのが昭和二年だから。その前でしょうからね。だから 昭和の初め…。
稲:昭和元年ぐらい…
伊:元年ぐらいかしらね…なにしろ、父と母と結婚して…ドイツから帰ってきて…赤坂に住んで。で、赤坂にテニスコートが3面あったんです。 
稲:おうちに? 
伊:うん。ちょうど、豊川稲荷の向かい側にね。結構広かったから。それでね…よくみんながね…テニスしに来たり…雪が降ったりして…積もっているときにね…しばらく父が留守だったから…父が帰ってきて…うれしくてね。テニスコートに雪の降った日に…父の大きな足跡に…後ろから付いて…足のね…ついて歩いたのを覚えているし…意外とわたし、そういうのがね…鮮明に残っているの。妹とね…二つっていっても…妹が早生まれだから…学年は一年しか違わなかったの。だけど…覚えていなんですよね…。わたしはなんか知らないけど、全部覚えている。それでね…そんな…楽しかったんだけど…。よくチェロを弾いていたの…真っ暗にして…月の明かりでね…チェロを弾いているのを…。そのチェロの音がものすごくよくて。(父は)学習院の…管弦楽団でチェロを弾いてたもんだから…チェロを弾いて…そのチェロだけがね…身代わりになって、まだ残って、生き残ってるの…。それはね…順天堂に置いておいたから…順天堂も、もう火の海になってたんだけど…病院だけ残ったの。まわりは全部焼けて…。それで…おじいさまは…順天堂で「わしはここを守る」って言って…。四谷が焼けた後ね…熱海の別荘に行ったんですけども…おじいさまだけが順天堂の院長室でね…頑張ってらした…。

02430

【2.26事件のこと】


伊:その父がドイツから帰ってきて…そう…いる頃に…ちょうど10年に妹が…3番目の妹が生まれたから。ちょうど妹が1歳のときよね…2.26があったのが…11年でしょ…。それで、なにしろ雪がしんしんと降っててね…。それで、流れ弾が飛んでくるといけない…高橋是清さんのうちがすぐそばなの…。だもんで。うちの隣がね表町警察署があって…その少し先に高橋是清さんの…。だから、流れ弾が飛んでくるといけないからっていって、箪笥を前に引っ張りだして、箪笥の後ろに隠れていたの…。それでね…夜になってね。もう、ザクザクザクザク…その…軍靴って…あの靴のね…兵隊さんの靴の音が すごい。東宮御所がちょうどうちのはす前にあるから。虎屋がちょうど豊川稲荷の角にあったの…。ちょうど、うちはこっち側にあって。こっちが警察があって…向こう側が東宮御所…。よく、うちにね…シラサギが飛んできてたの…(笑)。お風呂場のところのね…なんか白いものがいるからなにかと思って開けると、シラサギがいるの…。のどかだった…。そこをずっと下りて…東宮御所と…いまの…豊川稲荷になっちゃったけど、そこの角に虎屋があって…そこの間を、紀伊国坂を降りていくと…あっちの…赤坂見附から来た道の堀端に出るんですよ。そこを通って東宮御所に沿って、ずっと歩いて塀沿いに上がっていくと…いまの迎賓館…。赤坂離宮になっているけど…そこの塀沿いに行くと…その公園のところに出るから…。そこで…うちが…四谷のうちは、そこの公園の中にあったの…。それで、左側の向こう側が学習院だった…。

02720

稲:2.26のザクザク ザクザクっていうときって…危ないぞってみたいなことっていうことは、お父様はご存じだったんですかね?…なんでわかったのかしら? 
伊:どうなんでしょうね…どうして…あれだったかなあ…。だけどね、なにしろ…高橋是清さんところも奥様がやっぱり…ふすま一枚のところでね…あれだったし…もう大変だったわね…。もう、いよいよ危なくなってきて…そこにいたら危ないからって言って、四谷にいる運転手が迎えにきたの。車で…。だけど、いつもなら紀伊国坂からすぐ行かれるんだけど…そこは、もう通さないで。だから、遠回りしてね…四谷のうちまで逃げて…。いろんなことがあってね…でも…ちょうどいま…この間…文化勲章だかなんかおもらいになった…渡辺和子こさんってね…シスターなんだけど…いま、ノートルダムかなんかの…向こうで…あれしてらっしゃるけど…。

※高橋是清:2.26事件で、暗殺される。当時、大蔵大臣。
※渡辺和子:2.26事件で暗殺された渡辺錠太郎の娘。その現場を目の当たりにした。

02855
伊:あたしの 3級上だったの…雙葉で…。頭のいい方でいらしたけど、その方もやっぱりね…お父様が…わたしよりも3歳上だけど。「らんたい(籃胎?)」っていう…なんというの…編んだような…机があるじゃない…。それで…細かく編んだ…藍胎の机が立ててあって。おとうさまがね…「そこへ隠れろ」っていわれて…それで、急いで、その藍胎の立ててあるところの後ろに隠れて…。だから、もう、おとうさまの殺されるのを目の当たりに。その机の後ろで…見てらした…。でも、あの方も大変立派になられてね…あれになったけど…いろんなことがあるわね…。なんか…あの…なんだかわかんないけど…あっちこっちにビラみたいのをね…電信柱…昔の電信柱って木だったじゃない…。そこに貼ったりしたものが…こう…あって…それを女中と一緒にね…たわし持って、バケツ持ってて…はがしたりしたこともある…。 
稲:それは、やっぱり11年ごろですか?
伊:うん。そう。そのころ…赤坂にいるころ。なんのだったかまでは…。そのころ、わたしはまだ、子どもで小さかったから…覚えていないけど…。なんだかわかんないけど…おじいさまのことなんか書かれていたのか…。なんだか知らないけど…訳もわからなくて…そういうね…。
稲:佐藤のおじいさん?
伊:うん。
稲:山本権兵衛さんの方じゃなくて?
伊:ではなくて…。そんなこともあったりね…なんかいろいろ…大変だね…あれがあったのね。昔は貴族院議員というのがあってね…貴族院議員だったから…。

03100

【満州で軍医だった父親が、悪性腸チブスで亡くなる】


伊:で…昭和天皇のご学友をしてたのね、父が…。ほんとに父はね…温厚な人だったから。怒ったことなかったのね。自分は…爵位を継ぐのが嫌だから平民になるって言ってたの…。それこそ、昭和天皇のご学友で…佐藤…佐藤って言ってね。二人でいるときでも、傍に侍従が付くんですって…。だけど、佐藤のときは侍従をはらうって言ってね…「二人だけで話がしたい」って仰ってね。だから、父が亡くなったときも陛下からね…天皇陛下のお通りになる通路…階段があるのね…そこを使わせてくだすって…。それで…まあ…帰ってきたんですけどね。ほんとに残念だけどね…40で死んじゃった…。
稲:おとうさまね…37で、満州に行かれて… 
伊:そう。3年目…。そのときはね…昔は電報だったでしょ。だから、電報っていうと…もう、いつも飛んでいってね。みるの…もう、恐くて。なんだろうって思ってね。昔は…ほんとね…。そしたら、「たけし、しす」っていう電報がきてね…もう、びっくりしちゃって…病気になって、2週間で死んじゃった…。
稲:なんの病気で? 
伊:腸チブス。悪性腸チブス。それで…もう…ほんとにね…
稲:40歳で…。おかあさまと妹さんはあちらにいらっしゃったの?
伊:そう。ちょうど母が35だったでしょ。妹が…3歳か4歳…3歳ぐらいだったかなあ。幼稚園に行ってたのかな…。それで、母が妊娠6ケ月だったの。もうひとりね…いたの…女の子が…。それもね、あの…満州で生まれて…7ケ月でね…やっぱり…死んじゃったの。あのころの満州ってすごく…なんていうか…衛生的にね…。だから…すごく…一度…その…お骨持って帰ってきたの、2年目に。それで、わたし…妹と二人でね…東京駅に送りに行って…あと一年だから我慢してねって言われて…。昔って、一番後ろにデッキがあるでしょ…。あの…「つばめ」とか、なんとかで…。叔母がね…連れてってくれて…東京駅で…最後、見えなくなるまで手を振るんだけど…もう大泣きしたらしいの。わたしも泣いたのは覚えてないんだけど…どうしようと思うぐらい泣いたらしくて…それが最後だった…見えなくなるまで…東京駅でね…。
稲:お父様も一緒に帰っていらしたんですか?
伊:そう。父と母と、3番目の妹を連れて帰ってきてた…お骨持ってね。満州で生まれて、満州で死んじゃった…。で…また行って…それで、また、にんし… また、みんな、女の子だったのよ。 
稲:昔はね…女の子…男の子がみたいな… 
伊:ねえ…そんなこともあったしね…。

03505

【戦争の足音が近づいてくる】


伊:それで、今度、戦争が始まって…。今度、次男も昇格っていう…航空母艦で軍医長してたから。それが、叔父が37で…やっぱり戦死したの…次男の…。それだもんでね、祖父が…そこの次男の方は、長男と次男がいるのね。だもんで、長男の方はね…医者にはむいてないんだけど…次男の方が医者にむいてたらしくて…おじいさまが…「この子だけは医者にする」って…その次男を医者にするから…。まあ…母にね…特別にあれするからって言って…ことわって…それで、その次男の方の…教育を…やっぱり男の子は父親がいないとあれだから…父親になって面倒みるからって言われて、やっているのが…。
稲:おじさまが「戦死」っておっしゃったけど、お父様は?
伊:ほんとはね、病死なんだけど…殉職みたいにね…あの…戦病死に登録すればできたんですって…。だけど、おじいさまがね…「そんなことしないでいい」って言われたもんで…母も絶対おじいさまには逆らえないから…やっぱり…あの…しなかったの…。だから、全然…その…手当なんかはもらえなかったの…。
稲:戦後になってみると…それが大きい話だったかな…。
は:そう…ね。でも、次に院長になられた方は戦争が始まったでしょ…。そしたら、ソ連が来るんで…ご夫婦で自殺なすったの…。
稲:自決っていうか…
伊:うん…だから、それ考えるとね…やっぱり病気でね…そうやって…あれの方がねえ…なんか…自殺ってよくないからね…だから、まあ、それがその人の運命だったんじゃないかと…思って…。 
稲:それじゃあ…お母さまも…お父様がそういうことで帰ってらした?
は:そう。父のお骨と…それから、四つぐらいになる子ども連れて…妊娠6け月で帰ってきたでしょ…大変だったろうと思う…。それで、わたしがちょうど6年生のとき。それから…戦争になって…今度は もう…おじいさまとわたしと…みんな…四谷のうちに住んでて…。

03815
伊:なにしろ、おじいさまって…うちは、みんな、馬が好きでね。それで…母が丙午なのよ。昔はよく、丙午の人ってお嫁にいかれないみたいなことがあったでしょ。おじいさまはね…丙午の…そういうのをね…探してたというぐらい、ちょっと変わっていた。それでね…馬がすごく好きで…おじいさまも、すごく馬に乗るし…で…昭和天皇が乗ってらした「しらゆき」っていう馬が…あれを献上したの。すっごく利口な馬で…もう、それこそ、閲兵式のときなんかもビクともしないでね…あれするような馬。とっても利口な馬。その「しらゆき」の兄弟で…真っ白いね「はりー」っていうね、きれいな真っ白い馬と、それから「もくだむ」っていうね、茶色い馬が…うちには2頭いたの。それでね…いわゆる…あの… 馬車…美智子さんが乗ってらした…あの馬車があって…で…それに乗って…いつも宮中に参内してたの。
そのときに、よくわたしたちもね…おじいさまの横に乗っかって…あの…いらっしゃるときに…御所なんかに行ってね…お菓子いただいて帰ってきて… 
稲:ああ! そうですか!! 
伊:してたの…。で、あの角砂糖ね…こうやって食べさしたり…それから…昔、「ちまき」ってあったでしょ…あの、ちまき…ちまき食べると…笹の葉がある…。あれをね…いつも、みんなで馬小屋のところに持っていって食べさしたり。毎日ね…お散歩に女中たちが三人ぐらいで交代でね…うちの前からずっと神宮の外苑を散歩させるの。今みたいに車が多くないから…ちょうど、うちの前から今の迎賓館のところ…右側の坂を権田原のところまで降りて…登って…それで、外苑の中をひとまわりして帰ってくるの…。 
稲:手綱を…
伊:手綱をひいて。だから、歩いて…  
稲:馬を散歩させて…  
伊:そう。みんな女中は着物を着てたけど…着物じゃなくてね、ゆかたでね…洋服作って。洋服を着せて(笑)。そういうことを毎日…。だって10人ぐらいいたんですもん…。  
稲:すごいですね
伊:ご飯炊きと…それから…まず、おじいさまのお付きと、おばあさまのお付きと。それから、母のお付きと、それから…わたしたち子どものお付きがふたり。ひとりずつ付いたから…ふたりいたでしょ。それから…奥の女中と…それから…おつぎの女中っていうのもいる…。いろんな…あれがいっぱいいるから10人ぐらいいるの…。 
稲:みなさん、身元がしっかりした方をっていうことで…いらっしゃるんですね?
伊:だと思うわね。わりに千葉の人が多かった。おばあさまが千葉の方の出で…夫婦養子なの。それだもんだからね…千葉の人が多くて、いろんな人がいたけどね…それで…まあ、よく…
稲:3年ぐらいで代わられたって…。 
伊:うん。
稲:そんな寂しくもなく…ですかね?
伊:そうね。なにしろ…いろんなことがあったわね…。わたしたちには母のかわりに「きみこ」さんっていう…まあ…その方は、どっかのちゃんとした方なんでしょうけど…おばさまがいて…その方が…だいたい…女中以外のことでは面倒みてくださっていて…。
稲:勉強をみるとか、そんなこと…
伊:勉強はね…もうひとり…おばでね…それこそ、皇后陛下のご学友をしてた、おばがいるの。それがね…ものすごく頭がいいの…父の妹。「加藤貞子」っていうんですけどね。それがまた、「加藤成之」っていうおじが…だから…お婿さんになるわけだけど。それが、「古川緑波」のお兄さんになる…
…(電話の呼び出し音が鳴る)…
伊:そんなでね…なにをしゃべってたかわすれちゃった(笑) 
稲:古川緑波さんの…おばさんの…
伊:あ、古川緑波のお兄さんね …

※古川緑波:当時の代表的なコメディアン。

04345
伊:ここに写真があるけど…これが長女の主人で…加藤成之って…これが…父なのよね…父と母でしょ。 
稲:おかあさん、きれいな方ですね…
伊:これがわたくしで…これがすぐの妹で…これが長女の旦那で…古川緑波のお兄さんで…これが次女の主人で…「有山登」って…新潟大学の学長してて。それから、3番目のおばの…「江川ひでみ」っていって…このあいだ韮山の反射炉の…文化財になった…この人の孫が42代目っていったかな…当主になったのね…。
稲:そう。

※韮山・反射炉:「明治日本の産業革命遺産」~反射炉とは、金属を溶かし大砲などを鋳造するための溶解炉。韮山反射炉は、実際に稼働した反射炉として国内で唯一現存するもの。

伊:そう。これはね…四谷のうちで…庭で撮ったの。 
稲:みなさん、お集まりになってね…
伊:みんなね。なにしろ、人数がもう…昔はね…なにかっていうと…
稲:なかなか集まらないもんですね。
伊:うん。それで このおじなんかは芸大の学長したりなんかしてたから…芸術の…あれもあったから…女子美の学長もやったり…。
稲:お母さまがつくられた…?
伊:そうそう…ひおばあさまが…  
稲:ひおばあさまがね。
伊:うん。3代目の「佐藤進」っていう名の…奥さんで「佐藤静子」っていうのがね。それが女子美の…昔、「佐藤工場」ってのがあったの…あの本郷菊坂に…そこでね…作った…いろんなね…女でも手に職を持った方がいいって…。それが、このあいだ …100周年が…付属の100周年があったの。 
稲:女子美のね・・・
伊:いろんなね (写真をめくりながら)…(写真を1枚出す)…

04650
伊:お正月なんかになると…こうやって、みんなね、おそろいの着物を全部、作ったり。母たちがね…あれして。これは、玄関の前。これが次男なの…あの海軍だったの。だから、海軍で…海軍のあれは、すごく素敵なのね。夏服なんか短くててね。帰ってくると…みんな女中たちがね…大騒ぎすんの(笑)。すごいきれいだから。
稲:これは四谷のおうちですか?
伊:そうそう。これは四谷のうちの玄関でね。ここにいるのが、わたくし…おじいさまと。
稲:おじいさま? おばあさま? 
伊:おじいさまとおばあさまと。 
稲:おかあさまがこちら…
伊:そうそう。みんな…
稲:これは何年ぐらいですかね?
伊:それはまだ、わたしたちが小さい時だから…父がまだ…父はまだいない…これ…父がドイツに行ってるときかな…。
稲:あ~なるほど…まだ、ちょっと小さいですもんね… 
伊:うん。でも、ここにいるときは「としこ」がいるでしょ…3番目のがいる…だから、もしかしたら…もう亡くなった後かな、これ…。もう、これは(写真をじっとなめるように見る)…亡くなった後かしら…
稲:でも、お父様が亡くなったのは保育所のときでした?
伊:わたくしが小学校6年生のとき…  
稲:6年生にしては…
伊:昭和16年だから…もうちょっと小さいかもしれない…
稲:感じがね…
伊:七つぐらいのときかもしれない…七歳…でも、「としこ」がこんなに大きいんだから…もうちょっと…あれだわね…お正月にあれしてんの (写真を探し始める)…
稲:やっぱり6年生ぐらいかなあ…明尾(卂さんのこと)さん…
伊:ねえ… 
稲:やっぱりそうかもしれない 
伊:(写真を探している)・・・・

04950
伊:なにしろね…(写真を取り出す)これが、あたしの生まれたときの…
稲:すごい素敵…かわいいね…。
伊:昔の「江木」っていう写真館の写真で…すごく上手なのね…「江木」って。それが生まれたときの写真で… 
稲:これが…すごくね… 
伊:昭和4年の9月18日…(写真を探している)…昔はね、いろんな…(写真をだしながら)…これは、もうちょっと大きくなってからね。こういうのもね…
稲:この写真屋さん すごい 写真屋さん・・
伊:昔はね、こういう写真が…(写真をだしながら)これが七つのときの写真でね…この着物が焼け残ったの…いまでもね…帯とこれがね…いまでもね…それだけは残ったの…。

05110
それでね…わたし…赤坂の生活がすごく楽しかったの…。大変は大変だったけど…赤坂でもふたりぐらい女中はいたんだけど…母と父が留守になると、一歳の妹がビービー泣くのよね。そうすると、わたくしが妹を負ぶって、うちの廊下をぐるぐるまわるのね。それでね…子守歌を歌ってね…負ぶってんだけどね…負ぶって歌っている私の方が泣いているの(笑)…泣きながら。子守り…そんなのも覚えている…。だけど、それでも妹の面倒みたりして…その妹と一番仲良かった…。

05205

【空襲・疎開・勤労動員】


あの…おじいさまが…疎開するなっていうの…。ほんとは、みんなしたいわけよね…疎開…。だけど、「しないでいい」とおっしゃるから…。もう、なにしろ、みんな、おじいさまに従う…あれで。「いけない」っていわれたことは、できないわけよね。おいていかれないでしょ…。だから、一緒に四谷のうちで…。それで、普通の穴をただ掘って…かぶせただけの防空壕じゃ危ないから…おじいさまが庭の隅に…ちょうど公園側の方にね…鉄筋コンクリートで…地下室みたいな。それで、上にふたつぐらい…空気抜く…あれを作って…。それで、階段を下りていって…ドアをちゃんと…あれして。地下室…四畳半ぐらいかな…。あの…作られたの…。毎晩毎晩、警戒警報がなって…空襲警報がなるから。もう洋服は着たまんまで…ともかく、寝てても、とろとろって寝ると…すぐ、ボーって空襲…警戒警報が…かならず…。昔はラジオだったから…「警戒警報発令」っていって…ただ…「潮岬を通過せり」っていって…そうすると…「潮岬を通過せり」って…もう言ったら、あっという間に頭の上に来ちゃうもんね…。そうすると、すぐ、バッ、バッ、バッて…空襲警報になる。はじめは「ボー」っていう警戒警報のときは…「ボー」っていうのが鳴るんだけど…空襲警報になると、もう「バッ、バッ、バッ」っていうサイレンになるの。そうすると…もう、すぐ防空頭巾かぶって…防空壕に飛び込まないと…。いつ落ちてくるかわかんない。そいで…毎晩毎晩ね…ぜんぶ着たまんまで…枕元に全部持って出るものと防空頭巾を置いて、寝るでしょ。だから、寝てられないのよね。まあ…なんだかんだいいながら…あっちでもう…空が真っ赤になってたり…こっちで真っ赤になったりして…(ピンポンと玄関で音・訪問者)…ちょっと失礼いたします。
(席を立つ伊澤さん)

05505
(伊澤さんが席に戻り、インタビュー再開)
稲:その…着たままでというのは大変ですよね…
伊:大変。だから、寝てられないわね。ほんとに、毎晩でしょ。昼間でも鳴るときがあったり。そうすると、もう…。わたしはね…小杉製作所っていってね…五反田から洗足池まで…何線なんだっけ…?
稲:大井町線ではなくて…五反田からだと池上線?
伊:池上線…池上線で、ずっといって…千足池というところで降りて…そこから歩くのね。そうすると、そこに小杉製作所っていうのがあって…それは高射砲の測定器をつくる工場…そこのね…なんていうの…ベルトで回っている旋盤があるの…昔のね…こんな太いベルトで回っている旋盤…。それでね…穴、あけたり…それからボールパンっていって…やっぱり穴をあける…それも、みんなね…ベルトで回ってたりするの…。だから、髪の毛なんか長い人なんか、うっかりすると巻き込まれちゃうから、恐いのね。よく、職長さんとかね…それから、なんか…「がんもどき」みたいな顔(笑)してる人がいるから…みんなが「がんちゃん」とかね…いろんなニックネーム付けたりして…いろんな人たちと一緒にね…やってたことあるし。それから、組み立てる人は組み立てるのを細かく…ねじで組み立てたりするのね…やったりするのがいたりして。いろんなこと、やってたの。だけど、あんなのでね…できるっていうのも…役に立てたのか知らないけど…。いつも向こうの方で…線路があったりしてね…貨物みたいのが通ってたりする。お昼になると、カレーかなんかの…あんまりおいしくないカレー。だけど、そんなのがでたりする…ようなときがあったの…。それでね、そこで、営業の人で…「やぶた」さんっていうのがいて…みんな…すごくいや~な…嫌なおじさんが営業部長かなんかでいてね…みんな、「やぶた、やぶた」って呼び捨てしてんの(笑)…。それがね…何十年も経ってからね…主人がね…仕事の関係で会った人。会ったの!…だから、いろんなとこで縁がある…。「うちの家内が雙葉だ」っていったら、覚えてたらしいの…。「今日、やぶたさんていうのと会ったよ」って…「ええ!! やぶた!」って言って、びっくりして!…だから、いろんなとこでね… 
稲:それは 勤労動員?…
伊:そうそう。勤労動員… 
稲:じゃあ、雙葉の?
伊:そう。「雙葉から来た」って言ったから覚えていたんでしょ…。それからね…そのあとは、今度は 岩崎通信機…に行ったりして。途中で空襲になると、恵比寿の駅で空襲警報がなって…もう、そうすると電車なんか乗ってられないから…全部降りて、ホームの下に隠れるの…。
稲:昔はホームの下って隠れられるようになってた?
伊:うん。ちょっと間が…。だから、そこへみんな隠れたりして…あれしたり。いろんな経験したけどね…。
稲:そのときは事故とかなんにもなく?
伊:まあ、大丈夫だったわね。岩崎通信機に行ったときはね…ちょうど四谷が…四谷のうちが焼けて・…四谷のうちが焼けたときは…
稲:何年ですかね、焼けたの?
は:あれは、20年の…あれに書いてある(横に置いた資料:雙葉に関する本を調べる)…雙葉が焼けたときと一緒…4月のね…4月じゃなくてね…どっかに書いてある…4月の13日…「1945年4月13日、始業式の夜。東京に大空襲があって雙葉の校舎が全焼した」って。ちょうど、この雙葉と一緒に焼けたの…そうそう。4月13日、金曜日…
稲:夜は何時ごろだったんでしょうね…
伊:あのね…明け方よ、もう…。いつも、防空壕に入って…トロトロしていて…「今日も焼けのびたわね」って言ってて…。向こうもこっちも、もう真っ赤になってて…そこは焼けなかったんだけど…その日もね…バンバン、バンバンやってて…大丈夫だったんだけど。もう2時ぐらいになって、少し静かになったから…もう、トロトロして、みんなでね。眠くなってね…寝てたの…。そうしたら、いきなりね…ザーって音がして、ドカーン!って音がして、爆風みたいに…地下室のドアが閉まっちゃたの…。「いまのおかしい!」って言って、開けて飛び出したの…上に。そうしたら、もうそのときはね…庭中、火の海…狐火みたいに。あの油が飛んで、もう火が全部ついていて、二階の上からも火がメラメラ燃えてて、木も燃えてて…それから土蔵も…爆弾が落ちてぜんぶ抜けちゃって…屋根が。もう、全然、門から逃げられない状態で…。「これは大変」って言って…で、おじいさまは「わしは仏壇のところにいる」って言って…うちにいたの。「おじいさま!おじいさま!」って呼んだらば、さすがにおじいさまも青くなって出てらしたの…夜…ウロウロしながら出て…おじいさまがね。一人女中が…眠くてしょうがないから、女中部屋にいたの。その人を呼んだら、もう真っ黒になって出てきたの。それで、みんな、あれだからと言って…表からはもう出られないから、裏の…こんな木戸があるんで…それをはずして木戸から公園に逃げたんです。公園は広いから…みんなで…おばあさまの手を引っ張てね。おばあさまはもう歩けなくなっちゃって。あのころ、おばあさまは60いくつだけど…昔の60いくつはね、あれだから。おばあさまは…火の…もう…あれで…ともかく3番目の妹は…塩原に…学習院から学童疎開に行ってたから。一番下の妹は、まだ赤ちゃんだから…母がおぶって。それで、わたくしとすぐの妹は、おばあさまの手をひっぱって…木戸から逃げて…。それでいたら、今度ね、グラマンという戦闘機がひゅーって降りてきたの。今度は上がっていくときに、「ダッダッダッダッダッダダ」って、機関銃で撃つの。そのときにね…顔が見えるぐらいまで降りてくるの。それで…機関銃で撃たれたら大変だから急いで木の根元に、バーンって飛び込んでね。もうすごい勢いで飛び込んで…でも、ぜんぜん、かすり傷もおわなかったけど…。もうあれはね…すごかった!音が、ひゅーと降りてきて、「ダッダッダッダダ」ってね…土がこんなに、「ポッポっポっ」てね、なるの。あれはすごかったわね~!それで、しばらく木の根元に、みんなでね、うずくまっててね。なにしろ見たらね…もう空が真っ暗になるぐらいね、B29の編隊が…。ほんとにね…あれじゃあ、もうどうにもなんないっていうぐらい…編隊組んで。それが、ぜんぶ、バーッて、バラバラに焼夷弾を落とすでしょ。消すどころじゃない!もう大変です。わりと先にいって落ちてくるのが…こっちへ落ちるのね。それからね…しばらくして…20分ぐらいでしょうかね…それこそ、ぜんぶ焼け落ちて…戻ってきてみたら…もう、なんにもないの!「えっ!」ていうぐらい…ぜんぶね。うちの門の前のうちから、なにしろ四谷見附まで。今度、四谷見附も、麹町の方と新宿の方と…あの通り…ぜんぶ焼けて!「えー」って。雙葉も見えるところだから…見たら、もう、ぜんぜんないの…。それで、どうしようって思ってね…呆然としたけど、もう、ここにいられないし。火だって消すどころじゃないしね。一応、いざっていうときに持ち出せるように、廊下に荷物は置いておいたんだけど…そんなの持ち出す状態じゃなくて…。ほんとに着の身着のままで。みんなであそこから、今度、こっちの紀伊国坂の方に…御所の塀を通って…ずっと赤坂の方へ降りていって…御所の通り沿いに上まであがって行ったら…まだ赤坂は焼け残っていたの。赤坂のうちは…隣に庭続きなんだけど…隣に…主人(父親のことと思われる)の弟のうちがあったから…そこに叔母たちがいたから…行ったらば、まだ、そこは大丈夫だった…。それで、その日はそこに行ったのね。

10830
伊:それだけど、ずっと、そこにいるわけにはいかないから。それから、どっか親戚のところに転々と。みんなが一緒にいるわけにはいかないから…どうしたのかな…。おばあさまはほかの親戚のところ…目黒の方のおばのうちに行ったのかな…。わたくしたちは駒場に行ったのかしら…駒場の「財部」のほうのうちが残ってたから…そっちへ行って…。別々に…あれしてた…。そしたら、「財部」の方のうちは おじいさまとおばあさまがいたんだけど…やっぱり疎開した方がいいっていわれて…玉川学園のね…「おはら」先生が…「ぜひいらっしゃい」っていわれて…玉川学園の一軒…おうちを貸してくださったんです。そこへ疎開してたの…。それで、わたくしたちが、その「財部」のうちで、お留守番しようって言って…それで、母とわたしと妹と…下の妹もいたんだね…一番下のと…まあ、いて…ちょうど、それが、いまの…なんかなってるの…前田侯爵かなんかの…今、博物館かなんかになってるんじゃないか…駒場の…  
稲:駒場の博物館?
伊:うん。前田侯爵かなんかの…その別邸がね…うちの道路をはさんだ向かい側にあったの。洋館で。そこにね…落ちたの…焼夷弾が。そうしたら…そこが燃えたの!そしてね…道路が何メールぐらいかしら…6メーター道路ぐらいかな…もう、すごい勢いで燃えるから…こっちまで…熱でね…うちの方にね、後ろの木なんかにね…もう火がついちゃうから…もう大変なの。そうすると…こういう(ポンプの柄を押す仕草)井戸がね…うちにあったから。それで水を汲んで…もう一人…いとこが…男の子が…大学に行っていた、いとこが留守番でいたから…。そのいとこと、それから、もう一人…おばとおじがいたのかな…。それで、みんなで一緒にいたから…そのおばと、それから、わたくしたちとね。もう、必死でね…もう靴はいたままで。二階に…いとこは、頭から水をかぶりながら…もう火がついたら大変だから…水かぶったり…。そしたら、最後にね、うちが燃えて…前のね…洋館が燃えて…大きな長い煙突がカンカンとね…真っ赤に燃えてるのがね…。それがどこへ倒れるかで…うちの方へ倒れたら、うちも、もうダメなの…。それがどこへ倒れるかでね、あれだっていうんで…もうすごかったの!でもね、うまいぐあいに横に倒れたか…こっちにこなかったから…こっちは大丈夫だったんだけど…。横に倒れて…。それで、ほっとしたら…あれもあった…かえってその方が怖かったわね…そのときは水をかぶりながら、みんなで必死になって消した… 
稲:四谷の煙突ですかね?
伊:すごい…マントルピースの煙突…。それがね、ながーいでしょ。だから、完全にこっちに倒れたら、もう、うちまで燃えちゃう…真っ赤にになってた…。
稲:それはいつごろ?
伊:それはね…あれは、だいぶたってからね。そのころはね…岩崎通信機にいたの。妹たちは、そのころね、宝塚劇場で風船爆弾つくってたの…学年によってちがって…。
稲:すぐ下でしたっけ?
伊:うん。一年下の妹で…劇場をとりはらって、舞台もなにもないところで、こんにゃくの糊…あれで作っていたの…どうやってやってんでしょうね…。 
稲:和紙ですかね?
伊:なんなんでしょうね…でも、和紙だったらアメリカまでいかないでしょ?…
稲:いや…でも、強いらしいですよ… 
伊:そう…
稲:登戸にね、残っているので…たぶん、そうしなかったら…ほかにないですもんね…ほんとにアメリカまで行くんですね… 
伊:ねえ…。
稲:妹さんなんかは「私はこんなのを作ってるよ」とか、言ってました?
伊:いや…全然言わなかった…。だから、あの当時は絶対に言っちゃいけないの。絶対言っちゃいけないの。 
稲:じゃ、あとになって「作ってたのね」って?
伊:そうそうそう。 
稲:そういう話ができたのって、どれぐらいたってから?
伊:どれぐらいたってかしら…? 
稲:昭和のあれですかね…戦後…10年…20年… 
伊:ねえ…
稲:やっぱり、岩崎通信機に行っていることも内緒みたいな…
伊:そうね。はじめはね…わたしもね…もう、電車がとまっちゃうでしょ。久我山だったの。久我山から駒場まで歩いてね…線路を歩いて帰ってきたの。だってね、道がわかんなくなっちゃうから。線路を歩くのが一番ね。だから、線路歩いて帰ってきたの。そしたら、下北沢のガードがある…下を小田急線が通っていて…あそこ、下をみたらね…網があるんだけどね…恐くて、立って歩けないの。それで、四つん這いになってね…這って歩いたのをいまでも覚えている…。
稲:下北沢の南口の…出て左に行くと…その道の上にね…線路がね…
伊:そうそうそうそう。あれがものすごく高かったのよ。下みたらね…もう、恐くて、歩けなくて、四つん這いになって這って歩いた。降りちゃったらね…もう、道がわかんなくなっちゃの。どうやって帰ったらいいのか。だから、駒場の駅のすぐそばだったから…。

11605
稲:結局、敗戦までずっと、そこにいらしたんですか?
伊:敗戦のときは海にいたの。 
稲:そう、じゃあ、移られたんだ、やっぱり…
伊:そうそう。それでね、もう行くとこがなくて、駒場もあれになって… 
稲:でも、燃えてなかったんでしょ?
伊:うん。駒場は燃えてなかったんですけど、おじいさまたちが帰ってきたのかな…
稲:そうなんですか…
伊:それでね、おばあさまと…あと、熱海に別荘があってね… 
稲:佐藤の?
伊:そう。佐藤の方の別荘があって…そこが広い、一山あってね。夏は片瀬の別荘に行くのね。片瀬も広い別荘で…山になってて…三軒ぐらいうちが建ってるの。夏は片瀬で、それから…霞ヶ浦にもあるの。麻生っていうところで…あるの…佐藤の別荘がある…。3つあるのね。わたしたちは、最終的には行くとこ行く所で焼け出されたから。「じゃあ、熱海に行こう」って、熱海の別荘に行って…おじいさまは「わしは順天堂に残る」って言って…残らした…。順天堂は、まわりは焼けたけど…残ったわけね。 
稲:まわりだけ焼けて?
伊:うん。焼け残って…それで、おばあさまがね…東京で焼けた方が…あれだもんだから…何人かにお部屋を貸してあげてたの…。それで、わたしたちは一番奥の方にいたんだけど…。おばあさまも…「おじいさまがいらっしゃるとことに行きたい」と言って…行ったわけよね。たまたま、順天堂の本院の横に産院があったの。そこで…産院の二階で、畳敷いて、そこに住んでたわけ。おばあさまも…。あるときに…「どうしても豊子(伊澤さんに母)さんに会いたいから来てくれ」って言われて…行ったんだけど…それこそ、電車なんか…昔はドアなんか、自分で開けて乗るような…あれじゃない…。そうして(笑)、窓から乗るぐらい…鈴なりみたいになって、ぶら下がっているような状態…。それで…ともかく、行ったわけ…。それで、おばあさまが喜んで…いろいろ話をしてね…「豊子さんね、わたし、嫁が3人いるけどもあなたには一番世話になってね。ほんとに有難かったから、おじいさまによく言っておきましたよ」っておっしゃったんですって…。その一言をうかがって、母がほんとにね、大変だったけど、まあ、よかったって思ったらしいの。その晩ね…一緒ににごはんを食べて…寝て…夜中におばあさまがトイレに行って…それで倒れて死んじゃったの…。68ぐらい…。昔はね、だいたい、そのぐらいね…。そうやって…おばあさまが亡くなったけど…。ともかく…そのおじいさまが…新しい患者さんが入ってきたときに…やっぱり一番ね、印象が大事だから…身内でやれって言われて…新患受付を母とおばと…おばも未亡人になってたから…長男、次男のね…。嫁で一日交替で受付でやってた…。それで、受け付けにいないときは、うちでおじいさまのお食事を作って…。大変なの…おじいさまのお食事ってね…フルコースなの。お酒飲むでしょ…。そうすると、もう2時間以上かかるわけ…食べておわるのに。全部お片付けしてね…。だから、よくやってたなあって思う…ねえ…。

12120

【玉音放送を熱海で聞く】


稲:よく終戦とか敗戦のときに玉音放送…
伊:玉音放送はね…わたし、ちょうど熱海で聞いたの。熱海でもね…はじめ熱海女学校というのにも行ったのよ。 
稲:卒業してなかった?
伊:してなかった。だから、東京であれだったから…熱海に行ってね。でも、とっても熱海の人たちって、親切にしてくれて…それで、いろんな…東京からとかも来てるから…すごく、よくしてくだすってね。たまたま、「小野ピアノ」の社長さんのお嬢さんっていうのがいて…その人が、熱海の伊豆山の方にうちがあって…よく…「いらっしゃい、いらっしゃい」って言って…よく行って…。海のすぐそばにおうちがあってね…そこにグランドピアノがあって…。そこで、ショパンの「別れの曲」かなんか弾きながら歌ってくれたりね。それからね…結構、いろんな方がいてね…みんなね、親切にしてれた。駅の上に万平ホテルがあったの。そこで…染色工場があって…国防色に染める…そこで、動員してて…染色工場…。そしたら、終戦になって。で、みんなで玉音放送を聞いて…いやあ、やっぱりなんとも言えない、…あれよね。でも、ホッとしたことはホッとしたよね。いつ、どうなるかわかんないしね。それで…やっぱり、今度は…だけど、MPが入ってくるから…みんな気を付けないとダメだから…「外に出ちゃダメだ」って言われてね…。 
稲:それは…責任者みたいな、男の方が言うんですか?
伊:なんか…やっぱり…責任者みたいな人が言うのね…。確かにね…恐いみたいな感じはするよね。ジープに乗って、何人も来るからね…

12350

【敗戦直後】


伊:ずいぶんいろんなね…あれがあったけど…
稲:熱海から戻られるんですかね…
伊:あれは…いつ戻ってきたんだろう…。わりに早く戻ってきたわね。おばあさまが亡くなって…そのあと…それで、四谷の焼け跡にバラックを建てた…  
稲:バラックを建てたんですね 
伊:うん。それこそバラック! 
稲:それはいつごろでしょう? 四谷のバラックね?
伊:バラックはね…まだ、お隣だって、土蔵がひとつ残ってて…そこの土蔵に住んでる方がいて…それで、ドラム缶にお湯沸かして、お風呂に入ってた(笑)…。番長小学校の先生かなんかが入ってて…
稲:みんなでかわりばんこに?
伊:なんかね …入ってらしたわよ。そこはね…類焼だったらね、土蔵は残るの。でね、あんまり早く開けると火が出ちゃう…パッとなっちゃうのね。だから、よっぽど冷やしてから開けないとだめ。 
稲:バックドラフトみたいになっちゃう…
伊:うん。
稲:直撃だったんですよね…
伊:そう。ものすごい直撃!あーんなに大きなうちがこんなに早く燃えちゃうのかって…。もう、だって、なんにもないの。それで、ほんとに着の身着のままでね…なんにも着るものが無くなったでしょ…。でも、ちゃんとね… 
稲:赤坂のおうちが残っていてね。普通だったら、うちが焼けちゃったら…もう、それで焼け出されちゃうよね…
伊:でも、赤坂のうちだってなくなったのよね…そのあと。焼けたの…後だけどね。 
稲:そうなんだ…じゃあ、バラックを建てて…そこには何人住んでらしたんですか?
伊:だから、母と妹…4人…住んでたの。それで、ピアノがね順天堂においておいたのが焼け残ったから、それを持ってきたの。そしたら、ある日ね…学習院の…学習院も焼け残ったの…。その学習院の隣から全部焼けたからね。で、隣はね…教会があったの…若葉町教会っていう…。そこの、ミセス・カンニングハムっていう宣教師が…ものすごく…日本で宣教してらした…おばあちゃんの宣教師がいたんだけど…そのミセス・カンニングハムっていう方の…下の…ミスター・スティールっていう牧師さんが先に来て…うちが残ってて…バラック建ててたんもんだから…入ってらして…「ぜひ、日曜日の礼拝に使わせてほしい」って言われて…。うちは、別に信者じゃなかったんだけど、悪いことに使うわけじゃないから…「どうぞ」って。ピアノが残ってたから…。みんなが讃美歌を歌うのにあれだから…悪いことに使うんじゃないから、「どうぞ」って…母が言ったもんだから…。まあ、狭いのよ…六畳と四畳半と六畳ぐらいしかなくて。それで、台所がちょっとついてるぐらいだったから…。お風呂はなかったのかなあ…
稲:ドラム缶?
伊:お風呂はなかったの…。そいでね、日曜礼拝だけやるようになったの。貸してあげて…。そしたら、いろんな方が戻ってらして…昔の会員が…。そしたら、慶応の大学の人たちとか…いろんな…お医者さまとか…いろんな方たちがね。それから、「だいひこ」っていう有名な染物の「野口さん」という方ね…そういう方たちとか…みんな、ずいぶん立派な方たちが戻ってきて…そんなこんなで、だんだん入らなくなっちゃって…大勢になったんで、今度、学習院の教室を使えるようになったりしたんだけど…。
稲:そのバラックのおうちが、いつまでもバラックじゃないと…
伊:そうね…それで、おじいさまが四谷の跡に、おじいさまのうちと、それから、立派なうちを…やっぱり建てて…私たちは結婚してね、3年ぐらい、その離れみたいなところに…お茶室をね…麻生から持ってきたのかな…その別荘の茶室を持ってきたのがあって…結婚して3年ぐらい、そこに住んでたことがあるの…  
稲:そうですか…
(戦前・戦中編終わり)

12935
(伊澤さんのご自宅)

【戦後編】

【結婚】

12937

稲:結婚は何年の何月でしたっけ…?
伊:結婚したのはね、私が20…タケシが生まれたのが29のときだったから、それの3年ぐらい前…。だから、26ぐらいのときぐらいかな…結婚したの…。
稲:昭和27年ぐらい…
伊:27年…1945年というと昭和何年になる?
稲:45年はちょうど昭和20年…
伊:それは終戦のときだね。そうすると、54年っていうと…
稲:54年っていうと、昭和29年です。
伊:29年…もうちょっと…何年にあれしたか、ちょっと忘れちゃった…結婚…。1950…タケシが確か、(昭和)30年の11月に生まれてるから、その2年ぐらい前…3年前かなあ…26ぐらいのときに結婚したのかしら…
稲:27年ぐらいかな…
伊:それぐらいかもしれない…
稲:結婚は全然、反対とかなかったですか?
伊:うん。ちょうど、一緒の会社にいたの…。東西商事っていうね…。三菱の機械部がわかれて…そのころは、三菱商事が…少し…子会社があれして…機械部っていうのが…。おじが、ちょうど社長してたもんで…そこの…おじのところに入れてもらって…それで入ったのが、その東西商事っていう会社で。それが田町にあったの。そこで、3年ぐらいいたのかな。そして、そこで、主人もいたもんで…伊澤くんだったらいいんじゃないって、言われて、いっしょになって(笑)。アイスホッケーの選手してたし…主人は麻布…成城…京大に行ったもんでね…。ずっと、ラグビーとアイスホッケーやってたもんで。日活スポーツセンターってのが芝の大門のところにできたの。そこへ、会社が終わると、いつもね…内緒で…。今みたいに大っぴらに出ていかれないから…会社のそばの喫茶店のママさんが、あたしのところに電話かけてきて、「いま伊澤さんが待ってらっしゃるから」って言ってね…そうやって、落ち合って…それで、スポーツセンターに行って、滑っててね…。もう、毎日のように会社の帰りに滑ってたの。そのころ、しょっちゅう、膝を痛めていたから。それもあってね…ちょっと膝が…うったりなんかしてたの…。
稲:アイスホッケーやられてたの?  
伊:そう。  
稲:すごい!
伊:夏はラグビー。だから、いつも元日とかなんかはね…試合で…もう、花園であれしたり…試合ばっかりで…泥んこになってやってた(笑)…
稲:結婚式は、すごい盛大だったんですか?
伊:でもね、終戦後だから…あんまりね。祖父が結婚を派手にするのを好きじゃなかったの…。だから、あんまり派手な…あれはしないで…簡単にやったのね。伊澤の方は、お父様とみんな、お母さまたちも ずっと、満州に行ってたから…満鉄…。お父様が満鉄の理事してたり…それから、東京支社長したり、いろんな、あれがあって…お父様は、ほんとにリュックひとつで引き上げてきたから…全部財産も満州に置いてきちゃったから。ほんとに身ひとつでね、ひきあげてきたもんで。大変だったんですね、でも、人柄のいい方だったから…それで、おじたちも、みんなね…いいんじゃないかって言って。それで、結婚したのね…。
稲:お二人はどこに住んでらしたんですか?
伊:はじめ、仕事してたから。それで、四谷の祖父が焼け跡にうち建てていたもんで…そこのお茶室を…麻生の別荘のところにあったお茶室をもってきて…そこに住んでたんです。ほんとに、すごく、人の…主人は優しくて、いい人だったんだけど…結局…人がいいっていうか…優しいもんだから…利用されちゃうのね。東西商事が、3年ぐらい、いて…今度、三菱が合併するようになったり…なんかするんで、ちょっと仕事がうまくいかなくて…。主人なんか…取引してた社長が、「どうしても、うちへ来てくれ」って言われて…その社長のところに引っぱられたんです。わたくし、その社長が…ちょっと、この人はね…あんまりいい…いいっていうか…口だけで信用できない人だったから、反対したの。だけど、主人が断りきれなくて、「どうしても」って頼まれてね…それで、強引に引っぱりこまれたもんだから…。そこに…会社に行って…結局、そこで、全部…責任を負わされて…それで、そこが倒産して…それで、せっかく成城に…そのあとは、成城に両親たちとみんな住んでていて…ここじゃなくて、もっと駅の近く…
稲:そうですか…
伊:住んでて…

13720

【夫、借金で行方不明に】


稲:成城にいらしたのは何年ぐらいのとき?
は:成城はね…四谷に住んでいたのが3年ぐらいで…そのあとね、あきらが生まれたのが…成城の方に 行ってからだから…3年後ぐらいに成城に行ったのね…。
稲:じゃあ 昭和32、3年…?
伊:それぐらいでね…成城でも、弟夫婦と両親と、それから、わたしたち夫婦と。それから、隣に姉の家族とでいて…狭いところに…もういっぱいだったもんで…とっても大変だったの。金融公庫があたったもんで、それで、「桜が丘」って言って、「馬事公苑」のところに家を建てたんです。それで、そこで…移って、そこに家を建てて、すごくよかったと思ってたらば…あの…主人がね…やっぱり、社長に ちょっと、まあ…利用されて、騙されて、責任負わされて…結局、保証人になっちゃって…その家を全部とられちゃったの。そのときに。もう…毎晩毎晩ね…債権者が来て…それで…家の外でずっと待ってた…。主人がどこに行っちゃったかわかんなくてね…行方不明になっちゃったの。わたしたちも、もう どうしようもなくて…わたし…子ども3人…もう、磨紀もそのころ生まれてたから…。磨紀が3歳くらいのときかな…。
稲:磨紀さんは生まれたのは何年?
伊:37年…。タケシが30年…。アキラが33年…。磨紀が37年なのね。磨紀が生まれていたころで…真紀がいて…そのころ、わたしがずっとね…真紀を連れて仕事してたんです…。それで…もう…主人が創価学会に入っちゃったの。取引先の…債権者が…すごい…創価学会の幹部の人で…もう強引に、あれされたらしくて…。わたしは悪いけど、あそこだけはどうしても納得できない…宗教もいいけども…あそこだけはどうしても、わたしは納得できない、って言って…納得しなかったの。そしてね…近所の方からも聖教新聞なんかが入ってたりするから…これは創価学会なんだなあと思って…。それで、いろいろ、よく家にみえたりしてたんだけど、うちは…わたしは一切、そういうことは…あれだからって、断って…。そのうちにね…主人が行方不明になっちゃったのね…。それで、わたくしは磨紀を連れて…そのころね…子どもが…昔から、三つ子の魂百まで、ってよく言うでしょ。だから、わたくしは子どもは3歳までが…やっぱり母親からね…離すのが嫌でね…人に預けるっていうのが嫌だったの。だから、3つになるまでは自分のそばに置こうと思って…。それで…仕事をするんでも…一緒に連れてできることをしたいと思って。そしたら、親戚のおばがね…日本生命で…やってる親戚がいるから、その人と一緒に、あれしなさいって、言われて…あの…わたくし…生命保険のセールスっていうのが、一番ね…苦手だけど…今まで、そういう…お義理でね…入ってて…なんか、すごく嫌だったもんだから…なにをやるのが一番嫌かって、生命保険のセールスが一番嫌だったの…。だけど、そんなこと、言ってられないし…まあ…一番嫌なことをやるのもね…やってみようと思って…。それで…決心して…磨紀を連れて行ったんですよね…。いつも、そばにおいておけるからと思って…毎日毎日、磨紀を一緒に連れて歩いて…。わたし…いろいろ勉強したら…無理にいれるのはやめて…保険がいかに、いいものかっていう説明をして歩こうって思って…。そうすれば納得できるし。それで、ほんとに納得したら、その方がよかったと思って入ってくださるんだったら…お願いすればいいし…絶対に無理にいれることはやめるってことでね…説明して歩こうって思って…。そんなこんなしてるうちに磨紀がね…あの…絵を描いていたのがあるけどね…頭からカッカとね…湯気出して怒ってる鬼…人の絵を描いてるの(笑)…
稲:絵は残ってるんですか?  
伊:残ってる。
稲:どこ?
伊:どっかにあった…そこら辺にあると…もう、びっくりしちゃった…。さっき、どっかに持ってきた… 
稲:ほんと…これ?
伊:そうそう。それでね…びっくりしたの(稲塚は絵の書かれたノートを手渡す)…あの…メモを書いてた…(ノートを見る)そばで…隣でね。あーこの子、こんな感じでね…待ってたんだなあと思って…

14420
伊:こういう絵を描いてた…(絵を見せる)…女の子がカッカと怒ってるの(笑)…これ3歳ぐらいのとき…。黙ってね、我慢してね、いつも黙って、我慢してるのにね…こんな絵を描いて…その絵を見て 「えーこの人、こんなに怒ってたんだ」と思ってね…。まあ やっぱりね…ちょうど、成城の幼稚園の先生してらしたから…とても家庭的ないい先生で、その先生にお願いして預かっていただくように…。一週間で親子泣き別れしたの(笑)…。
稲:毎日…なんとか…ねえ…。
伊:こっちもね、なんか、かわいそうでね…無理やりにおいていくと…かわいそうで…もう別れて…こっちも涙流してね。途中で大丈夫かしらって思いながらね…そんなことやってたのね…。でも、結局…大変な騒ぎして…何しろ、人間、裸で生まれて裸で死ぬんだから、家がなくてもいいから、って言って…それで…建てた家をね…もう…債権者に渡して…。で、行方不明になって…どこでどうしてるか、まったく見当つかなかったの。だけど、もう、それを置いてね…。たまたま、知ってるおばあちゃまが方位を見るおばあちゃまだったのね…あなたね、とっても…成城から移ってきたときに、暗剣殺をおかしてるから早くいい方に行かないと、ご主人が亡くなるか財産なくすか…するからね、って言われてたんだけど…。せっかく建てた家をね…そう簡単にはね…できなかったけど。やっぱり…そうなっちゃったのね…。だから、今度、いい方に行くって言って、「北の方に行きなさい」って言って…それで、一番…なるべく遠い方がいいって言われるんで、新座っていう…北の方に…新座市に行ったんですよ。そうしたら、新座市が、大泉学園からバスに乗って行って…まったくなんにもない、田んぼみたいなところだったの。そこに、「おおくらや団地」っていうのができて…もう…「えー」って言うぐらい…あっという間に家が何軒も建つような団地が…何期、何期というようなね…建っちゃってね…びっくりするような家が建ったの。それで、そこをね…わたくしも家賃を払うのもね…割にまだ安い時だったから…ちょっと母が頭金出してくれて…わたくしが働きながら、家賃分ぐらいで買えちゃったわけ。それだからね、そこを家賃払うつもりでいたのを…毎月ローンで組んで買って…。そしたら、そこへ行ってもね…そして、新座市に行って…片山小学校って言って、100年ぐらいのね…ほんとに古いね、お化けがでそうな小学校(笑)。いまの木造ね。それこそ、渡り廊下があって、いわゆるむかーしの学校…。そういう学校でね。ちょうど、磨紀が一年生に入るときだったから…とってもかわいがっていたからね…主人が…まあ、女の子。やっぱり、すごいかわいがっていたから…磨紀が一年生になるときになったら、どっかから帰ってくるだろうって思ってたんだけど…。結局、帰ってこない…。でも…わからないし…でも…先生にね、ほんとの話して。うちで、こうこうこうだからって…お話して。わたしも働いているから、よろしくお願いしますって言って…お願いして…。とってもいい先生でね。それで、ある日ね、歩いてたら、見るからに「やーさん」みたいな人がね、あたくしにね…「伊澤さんのうちどこですか」って聞くの。「伊澤はうちですけど」って言ったらね…借用書を見せてね…全然、金額が書いてないのにね…伊澤の…主人の名前と判だけ押してあってね…ここに2億でも3億でも書けばね…あれだって言って、脅かすの。わたし、びっくりして、「わたしはなんにも知らないし、主人はどこに行っちゃったのか、わかんないです」って言ったら、「じゃあ、ここらあたり探してきます」って。また帰ってきて…毎晩来るようになって…。もう、大変だった。そんなで…もう、ピンポンって夜8時ぐらいにね、毎晩、押してくると…こういう穴から覗くとね…立ってるの…。それで、出てってね、「すみません。まだ帰ってこないんです」って。「また 来ます」って…毎晩来るでしょ…。すると、子どもたちがビクッとなるのね。それで…もう、あんまりあれしてると…今度、脅すわけ。「わたしは嘘ついてないんだから、もし、あれだったら、うちのなか入って探してください」って言って。そしたら、そこまではしなかったけど…。そんな恐い思いしながらね…そんなこんなで、大変な思いしたのね…。

15110
伊:そういうときに…いろんな方がいろいろ…あれしてくだすってね…なんて言うの…はっきり、みる方がいるから…そこに行ってきなさいって言われて…武蔵小山かなんかの、おじいさんなんだけど…朝10時ぐらいに行って、順番を、みんな、二階で待ってるの。そうするとね…待ってると…寿司が出てきたりね…天丼が出てきたりね…いろんなもの…出す…ごちそうしてくださるんだけどね。何時間も待たされるの(笑)。それでね…やっとね…順番になってね…こんな棒があるでしょ。あれで、見てくだすって。その人は、飛行機でね、どっかね、外国に飛ぼうとしてるって言われたの…。「えーなんだろう」って思ってたんだけど…そういうの当たるんだかなんだか知らないけど…私も…その…いいということはなんでもね…姉が連れてってくれたもんだからね…行ったんだけど。そしたら、結局、そのあとで、やっぱり、取引先の知ってる方が電話くだすって…自分のところに逃げてね…どっか海外に行きたいという話をして…まさか…そんなことだとは知らなかったから。もし、今度は…あれだったら…連絡しますっていう話がきたりね…。結構、いろんなことがあったんです。でも、そんなこんなしてるうちに…ともかく、大変だったの。必死に、そのころ、生きてて…そのときに…いいということはね…なんでもやろうって思って…それで、たまたま、知ってる姉がね…印相の先生を紹介してくれて…「判」ね…私が持ってる「判」をみて…見ただけで、「いま、あなたね、ご主人と背中あわせになっててね…別れようと思ってんでしょ…なんて言ってらした…。ほんとにね…泥沼に足を突っ込んでね…身動きできなくなってね…大変だから…。「じゃあ、僕がいい判を作って、守ってあげるから」って言ってね。そのいい判を作ってくだすって。その先生のおかげでね…全部変わってきた…。その判っていうのが…普通の印相っていうとね…水牛だとかつげだとか…つげって…水牛だとか水晶とかあるけども…結局、そこの先生の…木の判でね…つげの木の判で…そこに先生が、「しんきゅう」を入れられて…お守りとして持つ判なの。そすとね…身代わりになる。それをつくらしてあげたら、ほんとにね、それから全部変わっていった。それでね、はじめはね、この頭のところにね、きれいに真っ黒に線が書いてあるの。輪ができたり…それから欠けたり…。もう、今まで、そんなことなかったようなことがね…やっぱり身代わりになってね…するようになって…。そのおかげで、いろいろ変わってきて…。あの先生のおかげで…なんていうのかしら…いろんな行をやらしていただいて…「般若心経を書け」って言われたら、ちゃんと般若心経を書いて…清めをしたり…。ともかく、いろんな行をさせていただいて…。そうやって、なにがなんだかわかんないんだけども…「やれ」って言われたことを素直にやることによってね…ずいぶん、いい力をいただいてね…そのおかげでね…いろんな流れが変わってきたの。それだもんだからね…そのときに…先生が、あなたの…子どもたちがいるけども…ご主人がねえーって言われてね…「別れたほうがいい」って言われたことがあるのね…だから、なかなか大変だった…。

15635
稲:そのとき,、旦那様はどこにいるかわからなかった…?
伊:わかんなかったの…そのときはね。ともかく、子どもが…まだ、磨紀が…小さいし、それから、アキラがまだ小さいでしょ。それで、日本生命の仕事をしてたから。もう、しょうがないからね。会社に行ったの…2人、子どもを連れて会社に行って…弟のところなんかにね…主人の弟のところに。もし、行ったらば…お兄様がいらしたらば…捕まえておいて、わたしのところに連絡してねって。また、どこに行っちゃうかわかんないからって言って…あっちこっちに頼んで置いたのね。それで、わたしも仕事をしようと思って…会社に出て。そしたらね、弟から電話がかかってきて…「さっき、お兄様が来た」って言うのよ…「自分が頭がおかしくなったから」…これからね、前田外科って赤坂にあるんだけど…そこの前田先生っていうのがね、学校時代の友達だったの。「前田先生のところに行く」って言ってるから…。そこに行けばね、会えるからって…言って連絡してくれたの。だから、急いでね、子ども二人連れて、前田先生のところに行ったの。先生に話をして…先生に、こうこうこうで、何日も帰ってこなくって、どこ行ったかわかんなくなっちゃってる…おかしいから…。先生が会わせても大丈夫なようなら、会わせてくださいって。それで、こっち側は待合室で…。玄関から入ってくると待合室が見えるんだけど…「ここで子どもたちと待ってますから」って…待ってたの。そしたら、主人が入ってきたの…。そしたら、全然、気が付かなくて…先生のところに行って…しばらくしたら…先生が呼んでくだすって…入っていったら、もう、顔を見るなりワーって泣き出したの…。やっぱり、どっか転々としてたのね。着の身着のままでね…。先生が、「大丈夫だから」って仰ったんで、一応、連れて帰ってきたんですよね。その前に…あの…わたしが…おばがね…財部って母の方の…財部のおばってのが…逗子にいたおばなんで…お料理の先生をしたりしてるおばなんだけど…そのおばが知ってる先生のところに、道場があるの…。その先生に、いろいろ相談しなさいって言われて…ご相談しに行ってたもんだから…。「先生に相談した方がいいわよ」って言われて…相談してたもんだから。その先生がね…「それは普通じゃない」から「預かる」って仰ったの…。それでね…もし、先生のところに行かなければ…来なければ…「もう別れたほうがいい」って仰ったのね。それを言ったらば、「別れるぐらいなら行く」って言って…それで、逗子まで行くっていうことになって…逗子に先生のところまで行って…そこで先生にお話して…それで、そこで先生に預かっていただくようにしたのね…。そこでは、修行じゃないけど…なんていうの…要するに、先生にいろいろ修行させていただくのね。帰れないようになってて…。だから、大変だったんだけど、それをしなければ、もう、この人は一生ダメになるから…別れなさいって言われてね。だったんだけど…大変だったのね…。
稲:わたしも…うちの母も同じように「気」は見るし、四柱推命が…ずっと母は見てもらって…大井町に先生がいて…なんでも、そうだったんですね…。なんだけど、お金がすごいかかるでしょ…。だから、明尾(夙さんのこと)さん…大変だっただろうなあって…そっちの方でもね…預かっていただくにはね…タダでってわけにはいかない…
伊:でもね、そこはタダなの。 
稲:あ、そう!
伊:うん。そのかわりね、道場になってるから…もう、朝5時に起きて、お手洗いの掃除から…それから、いろんな行をするの。お稲荷さんがあったり…いろんな神様のところを…全部、お掃除をしたり…。托鉢行もあるし…水行…滝…お滝の行とか、そういうのもあるのね。全部…しながら…自分の罪、穢れをね…やっぱり…あれしてくっていう…なかなか、大変な行なのよ。それで、わたしも、ずいぶんね、一緒にさせていただいたの。そうすると、必ず出てくるわけ…いろんな問題が…。そうすると、そのたんびにね、その先生が…霊感がある先生だから…みてくだすって…あれしたときに…「鎮魂帰神」っていって…苦しんでいる霊を、神様の座にに返す…。あの…お祀りをしてくださる…。そうすると、守る力がでてくる…。なかなかね…托鉢行っていうのができなくて…他の行はね、割に、土下座してね…お稲荷さんのとこで、「懺悔の行」のお経をあげたりなんかするのはできるだけど…「托鉢行」っていうのが、なかなかできないのね。それで、わたくしもずいぶんね…やらせていただいて…。そのときに、あんまり解決しないで、出たりすると、ものすごく頭が痛くなったり…なんかするの。全部、そういうのも出されるわけね。それで、帰ってきて、それを先生が全部、きれいに…あれしてくだすって…やってたんだけど…。なかなか、そんな体験できないようなね。福島の猪苗代湖から、ずっと奥には入ったとこに、「金神(こんじん)滝」っていうのがあってね…すっごい…滝の行もさせていただいたことがあるの…。もうね…あのときなんかは、もう、ほんとに、ちょっと気を抜いたら滝つぼに落っこちちゃうようなところ。でも、そういう…滝の…滝修行もしたりしながら…全部、穢れをはらってくだすって…それで、やったりしてね…。 

20455
稲:そのときは…みんな、お子さんね…?
伊:そのときはね…子どもたちは…置いてった…
稲:もう、ご長男は大きかったわけですよね…
伊:そう。でもね、あたしね…桜が丘にいた…馬事公苑のところにいたときにね…夜の丑三つ時…っていう…10時ぐらい…人に見られない…時間に…21日間…30度参りしろって言われたの…。そうするとね…10時ぐらいにね、氏神さまに行って、30度参りするの。女でひとりで行くと、恐いじゃない…。それでね、ちょうど、あそこにあるのよね…「うざん」っていうところに。そこに…タケシが5年生…小学校の5年生のとき…アキラが4年…3年…2年か…三つ違いだからね。磨紀が4つ…。7つ違うんだからね。あの…たけしと…。まだふたりが小さいときだから…わたくしが夜10時ぐらいになると、そっと起きて…行こうとすると…タケシだけ…長男が…「僕が一緒に行ってあげるって」…言って…5年生で…。わりに大きいでしょ。だから、あの人が、ひとり、ついてきてくれるだけで、すごく心強いの…。それで、いつも、毎晩ね…21日間っていうのは…大変なのね。だけどね、毎晩ね、一緒についていってくれて。鳥居から神前まで行って帰るので…それで一回なの…。それを30回…裸足で…それをやれっていわれて…。そうするとね…だんだん、満願に近づくにつれてね…邪魔が入るのね。嫌になるの…「もういいや」って思っちゃうような…なんだけど…それで辞めちゃうとダメだから…なにがなんでも頑張ってやんなくちゃいけない…。それで、それが終わると…スパっと…ひとつ、解決するの。それもやったりして…そのときにね、ほんとに、タケシがよくやってくれたの。あの人が…やっぱり、体が大きかったし…それだけでもずいぶん違ったからね…ありがたいって思ってね…。まあ…やったりしたこともあるし…それから、滝修行を…わたし、ひとりでね。おばと一緒に行ったけど、ほんとにすごかったけど…岩みたいなとこ、登ってってね。それで…上から受けてね…あれするのもほんとに、きゅって力抜いたら、落っこちゃうからね…うん!ってやってね…。まわりで先生たちが、全部、魔を払ってくだすって…やったり…。なかなか、今じゃできないけど(笑)。やれって言われたときにね…やったから…それだけ力はつけられたなあって思って…そんなこともやったりね。それから、「托鉢行」だけはできないって思ってたけど…あんまり解決しない場合、あーやっぱりこれは「托鉢行」やんないとダメだなあって思ったから…托鉢行もやったの。白い着物着てね…こういうのをかぶって…やってね…。顔をみられると、やっぱり嫌じゃない。だれか知ってる人に見られたら嫌だと思って…。そういうあれもない…全部捨てなくちゃいけない…。でも…横須賀線に乗ったときにね…すごい丁寧に挨拶された方がいて。すごいびっくりしちゃった…誰だかわかんないけど(笑)…。そんなこともあったり…いろんなこと体験したの。そういう行をずいぶんさせていただいて…それで、主人も行をさせていただくようになって…。先生が、「いつまで」って言ってね、聞いちゃいけないって仰るの。主人がね…逃げる心があるからね…この人は。いつも逃げる心があるから…その心が無くなるまで、「いつまで」っていう…聞いちゃいけないって言われて…。もう、大変だったのよ。逃げる心が無くなったら、いつでもうちへ帰してあげるって仰ってね。まあ、ちゃんと、なんとかやって…帰していただけるようになったんだけどね…。
稲:どのくらい行ってらしたのかな…?
伊:そのときは どのくらいだったかしらかね…100日ぐらいだったかしら…。それで、まあまあ、また、仕事もできるようになって…なったんだけど…でも、もう二度とおんなじことやらないかなあって思ってたら…またね…今度は、わたくしが60…ぐらいになったとき、いまとおんなじようなことがあったのよ…。そのときは、もう、ここのうちができてるときだから…。そのときも、全然違う人だけど、人に騙されちゃって。それで、もう…すごくね…大変だったのね…。

21045

【家を手放すことに…】


稲:新座の家は…もう、それで渡すことに…?
伊:新座…そうそう…新座のときは3年…新座にいたの。新座のときにね、やっぱり、大変だったもんだから。アキラが5年生。タケシが中学1年になって…磨紀が小学校の1年生になったころね…。やっぱり…その時も、氏神さまのお参りもやってたのね。そしたらね、また変なことがあったのね。それで、わたくしは我慢できなくて…もう、ほんとにね…飛び出そうと思ったの。そしたら、そのときにね…タケシはいなかったんだけど…アキラと磨紀がそばにいて…ふたりでわたしの手をつかんでね…アキラがね、「ママはずるい。逃げてどうする!」って言ってね…叫んだわけ…。そのときにハッとして。これは、アキラを通じて神様から言われた言葉なんだなあって思ってね…。この辛さから逃げてはいけないっていうことを子どもを通じて神様が言ってらっしゃるんだって思って…フッと思ったから…。そこで思いとどまったの…。だからね、やっぱりね、すごいなって思った。そういうね…子どもを通じて…そうやって言わされたんだなあって思った。それで…もう何回も何回も、「今日、子どもたちになんのごはんを食べさせよう」って思ったりね…。もう、ほんとに大変だったのね。あそこの…山手線のホームで…新宿駅でね…ホームに立ってて…電車待ってたら…ほんとにね…フッとね…飛び込みそうになったの。それで…空を眺めたらば…あの…大きな建物が、小田急線のあそこに…小田急のビルだとかなんかが建ってるのをみて…人間ってこういうビルも作るけど…この雨をね…やめさせようと思っても人間の力ではやませることはできないし…やっぱり…これは、自然のものにまかせるしかないって思って…「自然にまかせよう」ってフッと思えたらすごく楽になった…。それから変わったのね。それで、あとは…それからずっと楽になって…自然にまかせることにして…それで、ずいぶん変わってきの。そういう…あれもあったしね…。

21425
稲:旦那さまは子どもさんたちをかわいがって…?
伊:そう。こどもたちをかわいがっててね…よくテレビでね…アメリカ映画かなんか、「うちのパパは世界一」っていうのをやっててね…みんな、友達がね、あれ見るとね、お宅のパパは、あのパパみたいねっていうような、パパだった。優しくてね。ほんとにいい人なのよね。なんで、あんなに騙されちゃうのかなって思ってね…コロッと騙されちゃう…。それで、「ええ!」っていうような、変なことやっちゃう…。ここの家だって…ここの家はね…それも不思議だったんだけど、印相の先生がね、あなたね、1月の何日から何日までに不動産の喜びがあるよっておっしゃったの…。だって先生、いま借金ばっかりでね、うちどころじゃない。そんな…あれ…ないんです、って言ったら…「だって、印相に出てるよ」っておっしゃるの。ほんとにね…四谷の家の相続の問題が…解決しなかった問題がね…解決して…。それで、母がね、あなたたちも住むところもないと、あれだから…おじいさまの方のあれで…みんな、住むところがないから、これで作ったら、って言って…わけてくれたので…それで、ここをね…。だから、わたしの名義になってるでしょ…。それをね…黙ってね…持ち出したの…。それで、わたしね、権利書もなくなっちゃってたでしょ…。だから、土地のね…ちょっと、見てくる、って言ったらね…「僕が見てくる」って言ってね…取って…登記簿の、あれね…「なんにもついてないよ」って見せるから、安心してたの。そしたらね…なか…抜いてね… 
稲:あー抵当にいれてたの…抜いてたの…
伊:「そういうこと、なんでするの」って言ったら…「やれっていわれたからやった」って…。なんだか、そういうところはね…騙されちゃうのよね。なんでノーって言えないのかって思って…。なんていうんでしょうね…虚栄心が強いのかしらね。自分がなんでもできるような…あるのかって思ってね。それで、みんな、利用されちゃうの…。そのときにも…タケシが大人になってたから…「ママね…これはもう病気だから、別れた方がいいからね。別れなさい」って言って…。それで別れることにしたわけ。じゃないと、全部、もう、持っていかれちゃうから…。そして…それから…翌日…それがちょうどね…磨紀の二人芝居ね…高泉さんと…「モンタージュ」っていう…高泉淳子と2人で作った芝居のときで…電話かけて…「今日、千秋楽だから。いまから打ち上げに行ってくるから、もうちょっと待ってて」って電話いれたのに出ないの…うちにね。「おかしいわね」なんて言ってたんだけど…打ち上げに行って 帰ってきたらば…倒れてんの…ベッドの上で…。それでね、「こんな格好して寝てたら、風邪ひいちゃうわよ」って言って…ベッドカバーあけたら、そこに遺書があって…。それで…借金のあれで…一億何千万…。びっくりしちゃって、わたし! …。もう、夢かと思って…こうやって(ほほをたたく)…。だって見たらね、一億何千万って書いてある…。びっくりして、それでね、磨紀に…もう、麻紀も上で寝てたから…起こして…すぐ救急車呼んで…あれしたから…まあ、死なないで…あれしたんだけど…。そしたら、その翌日から、もう、ガンガン…債権者から。もう、これはね…とっても個人では、あれできないから…それで、遺書に「弁護士に頼め」って書いてあるもんだから…その先生にお願いしてね…。大変だったの…。そのときに、タケシが「ママたちがここにいると、やくざがくるから。僕がここに来るからね。ママと磨紀たちは、どっかわかんないところに言ってた方がいいから」って…。それで、たけしの家族が来るって言って…。そのときにも、方位を見るおばあちゃまがね…タケシさんがここへ来ると、精神病になる、って言われたの…。だけど…タケシにもそれを言ったの…。アキラさんならいい、って言うんだけど…アキラが一人でここに住むわけにはいかないし…。「あなたがここへくると、あなたが病気になるって先生がおっしゃるから」って言ったら、「そんなこと言ってられないから来る」って。で…ここに住んだの…。そしたら…もう、ガンガン来るでしょ…。「お前の父親は嘘つきだ」って言って…。「お前なんか殺してやる」って言われて、脅かされて…。あの人、大きいから。それで(笑)…弁護士さんが、やーさんの方があれじゃないですかって言うぐらい…目力があるからね…あれだったんだけど…気持ちが優しいから…内心、すごく怖かったんだと思う…。それで…8年ぐらいかかって…それで…終わった途端にやっぱり…うつ病になっちゃって…。それで、ずっと病院に入っててね…。もう、そのあと、ずいぶんあの人も…越谷の…順天堂の精神科の病院に入って…やっぱり、ずいぶん恐い思いしてね…あれしたもんだから…変な…呼び出されたりなんかするから…大変な思いしたもんでね…今度は、大腸がはれて…肺がんになったの、そのあと…。それで手術したり…それから、大腸破裂したり…あっちこっち大変…。みんな…あの人がしょってるからね…。それで、わたしくしが面倒みてあげるしかないから…。

22210

【いじめ…のこと】


稲:磨紀さんの学校時代のことで…心配して、途中で迎えに行ったりとか…?
伊:いやあ~ ほんとに、あのときなんかもね…あの人も、いろんな…いじめにあったのよ。なんでいじめられてるのか…わかんないんで…教えてくれなくてね。それで、みんなにね、そのひとりが言って、みんなをとめちゃってるから…。そのほかの友達も手が出せなくなっちゃって…。おかあさんたちも知ってたんだと思うんだけども…。わたくしがちょうどね…女子美の関係があったから…校長先生がね、すごく…よくわかってらした…。ともかく、役員やらせていただいてから…毎月ね、学校に行って、常任委員会に出てたでしょ…。それで…行くのがもう…学校に行かなくなっちゃって…。しばらく家でね…二階の自分の部屋で、こもっちゃったときがあって…。でも、そのときに…小さい時からね…自分のお姉さんとして育てていた犬がいるの…柴犬で…「テス」っていうね…もう13年ぐらい…あれしてた…。それを自分の部屋に連れて行ってね…あれしてたんだけど…。あの人もあんまり言わなくなっちゃうと、言わない人なの…。だからね…でも…だけど、担任の先生だけには、わたし、全部、話はしてたの。男の先生だったからね…あれだったんだけど…。ともかく…おかあさんも役員やってたの…。「うちの子はね…ちょうど女3人の真ん中の子で…あの子はきついから…意地が悪くて」って言ってるんだけど…。「だから、いじめられてるのよ」、なんて言えないしね。すっごく…もう…この辺まで出ても、言えないような…あれ…あったのね。だから、大変だったんだけどね。運動会のときなんかでも、何て言うんでしょうね…ちょうどね…すごく成績が上がったときがあったの…。だから、その子がすごく、ちょっとしたことで負けず嫌いな子がいてね…そういう…あれもあったんだと思うんだけど…。何しろ大変だったけど…でも、「行く」って言うようになって…。もうほんとにね…途中まで送っててね…それで、公衆電話で先生に電話してね…あれしたときに…先生もよく見てくだすっていたから…。そのあと、今度、たまたま学校で常任委員会があるときに…行ったときに…事故があってね…中野坂上で止まっちゃって…。もうドキッとしてさあ…その時に…どんなあれか…様子を聞いてもわかんないから…ともかくドキドキしてね…パーッと駆け上がってタクシー拾って、学校へ飛んでって。なにしろ走って、二階の教室まで行って…覗いたら…磨紀が見て、「どうしたの」って言って…出てきた…。顔見た途端に、わたし…バーッて泣いたから…もう、びっくりして…そして、磨紀が「大丈夫だよ。わたし、そんなには弱くないから」って言ったからね…。よかった…。それで、「帰り…一緒に帰ろう」って言ってね。常任委員会に出てね…待っててくれて…。それから、ずっと変わったけどね…。そしたら、他のおかあさんも「よかったわね。実は、口止めされててね。わたしたちもハラハラしてたんだけど。どうなるかと思ってたけど」…あれだって…言ってた…。

22725

【「野口整体」との出会い】


稲:明尾(夙さんのこと)さんが…野口整体との出会いがね…
伊:そう…たまたま、わたくしが手がしびれていて…伊澤の母なんかが、昔からね…野口整体をやってたの。一緒に住んでたんだけど…おかあさまなんかは、わたしが順天堂の娘だから、具合悪くても言わないわけよね。わたしは順天堂ばっかり行ってるから。どこに行ってるのかも知らなかったんだけど、おかあさまが野口先生の一番弟子の「うすい」先生という女の先生なんだけど…おばあさまの先生のところに行くときに…だんだん歳とってきて…私が一緒に連れて行くようになったもんだから…それで、その「うすい」先生のところに、おばあさまを連れていくようになって…。そのときに、わたくしもね ほかのおばが、わたしが手がしびれるっていうもんで、「じゃあ、内緒で連れて行ってあげるから、行きなさい」って言われて…その「うすい」先生に紹介してくれたの。そして、行ったら、「ちょっと更年期になりかかってるから」って、首をね、ちょっと調整して下すったら、なくなったわけ…治ったの…。それからね、「これはやっぱりいいもんだなあ」って思って…あなたね、うちにいい先生来てるから、って言って 池ノ上のね…お茶の先生のところに京都から来てる先生がいるから…その先生のところにいらっしゃいよ、ってお茶の先生が言ってくだすって。その先生のところに行くようになったら…初めてね…行ったら…友達2人連れていったの…。そしたらね、あなたね、養気が出てるから…教えてあげるからやりなさい、って言われて…。そのときに、「活元運動」っていうのをやったら、もう、なんだか知らないけどすごい動いちゃったの…。それから、その先生がね…うちに来るようになって…それで、うちでやるようになって…いろんな方、みんな、うちでやってて…。野口先生の講習受けるといいから行きなさいって言ってね…なかなか高くてね…行かれないのよ…講習料が…。だけど、その先生が貸してあげるから行きなさい、って言って、貸してくだすったもんだから…。それで行けて。そうしたら…野口先生が亡くなる前に…最後にね…お許しくだすった。昭和51年にね…試験受けて…いただいた…直筆のお許しをね…。 

23020

【夫の死と、次男を養子に…】


伊:平成8年に主人が死んでんのよ…
稲:そうですか…では、ちょうどね…いろいろあった…
伊:裁判になったのが平成8年の終わる間際だもんね…。だから、まだ終わってないの…裁判…。だから、主人が亡くなるっていって、救急車で運ばれて、子どもたちが「どうしてもママ会ってやって」って…「ママに会わないと死ぬに死にきれないみたいだから」って言われたけど…。わたくしは、まだ裁判が終わってないから…もしどっかでね…みて…あれだといけないから…私は行かないって言ったんだけど…夜中なら…あれだからって言って、それで、夜中の2時ぐらいにタクシー呼んで…行って…。そしたら、もうダメだったんだけど…でも、一瞬反応があったみたいで。だから、「わかったんじゃない」って…みんな言ってた。だから、タクシーを待たせておいて、「悪いけど、お願いね」って言って…まあ、会ってね…そのまま、帰ってきて…。もし、また、どこかでね、あれしたら嫌だからって…タクシー待たせておいて…それで帰ってきて…。

23155
伊:ちょうど、うちにね、男の子が2人いるのが…うちだけで…。あとは、みんな、女の子ばっかりなのね。妹二人のところも女の子二人だし…すぐの妹は、子どもがいなかったから。うちだけが男の子ふたりなんで、アキラをどうしても母が佐藤家にって言われたもんで…。まあ、父の50回忌のときにアキラが、「「どうしても僕は佐藤家にいた方が落ち着くような気がする」って自分で言って…自分から言い出したもんで。じゃあ…「あなたがそういう気持ちがあるなら行ってもいい」って言って…OKしたんだけど…。でも、なんか…戸籍を変えるときに…やっぱり、手続きしたときは…やっぱり一晩中…寝られなくてね…泣いてた(笑)。やっぱりね…いろんなことが思い出されてね…ほんとに…一晩中、涙が止まらなかった…けど…。

23320

【母親のこと】

稲:終戦の…戦争の前後…いろんな方がね…あれによって…いろんな人生になるわけですよね… 
伊:それで…昔の華族制度っていうのが…もう、終戦と同時にね…なくなったから…。
稲:おかあさまね…お会いしたかったですね…。
伊:ほんとね…ほんとにね、ぜったいに母はね…うちを壊さなかった…。それで、わたしなんかは、友達と発散しちゃうじやない…気分転換とか言って…友達になんでもしゃべってね…あれするけど…。母は友達にも…誰ともつきあわないし…みんな、親戚のおばたちだけでしょ…。だから、どうやってね…自分の気持ちをコントロールしたのかなあと思う…。それが不思議ね…。よく、ストレス解消って言って…。気分転換になにかするっていう…そういうことしなかったの。だから、すっごい強いのかなあと…思う。 
稲:学校は…おかあさまはどういうふうな学校を出てらっしゃる?
伊:祖父が海軍だったから、転勤が多かったから…佐世保の鎮守府とか…呉とか…いろんなとこを転々としてるから…意外とあっちこっち、転校はしたみたいね…。
稲:そうですか…
伊:うん。最終的には聖心の語学校に行ったのかなあ…
稲:聖心?
伊:聖心の語学校  
稲:語学校…
伊:うん。最後はね。だから、わりに英語なんかがちゃんと…結構話した… 
稲:そうですか!そういう時代にね…
伊:だから、プリンス・ジョージなんかの…
稲:それでね! 
伊:それで…あれも…ダンスのお相手したでしょ…振袖来てね(笑)…
稲:そういう意味では…自分の内面をね…愚痴を言って発散してみたいな…じゃない律し方みたいなところで…「秘密にするものはする」「出さない」っていう…
伊:そう!
稲:ということだね。 
伊:だから、おじたちのいろんなね…あれもあると思うのよ。だから、わたくしが知らないで…他の方から聞いたのがあるんだけど…母からは一切聞いてない…。だから、「へえー」って言って、聞くのはあるけど。だから、すごいなあって思ってね…。
稲:例えば、まわりから…なにかおじさまのことで…
伊:だから…母の兄の…長男…母の一番上の兄が…奥さんが二度目なの。はじめの奥さんとの子どもと二度目の奥さんとの子どもと…2人いるわけ。だから、そういうとこの…いろんな問題とか…そういうこともね…一切言わないの。わたくしは他から聞くの…。だけど、「えー」っていうようなね…だけど、そういう人のことをね…一切言わないっていうのはすごいなあって思って…。
稲:ほんとですね。
伊:どういうとこで、自分のストレスを解消してたのかなあって思って…
稲:そういう意味では、その時代の…いま、明尾(夙さんのこと)さんが話してくださっているようなことは一切秘めたままでお亡くなりになった、ということですよね…
伊:うん、そうだと思う。自分だけのなかでね。だから、すごいなあって思って…。要するに、「ああだったのよ」「こうだったのよ」っていうのは聞いてないの…。

23815
伊:いやーでも、ほんとにね、なかなか普通じゃできない…やろうと思ってもできないことを…。やっぱり体験ってすごいわよね。身体で体験するっていうのは…身をもってやるっていうことは…。頭で考えているだけじゃなくて、身体でそれをやったっていうのは…すごい。やっぱり…重みを感じるわね。だから、不思議なもんよね。まあ…だけどね…大変なことよね…生きるっていうのは…。
稲:まだまだ… 
伊:(笑)…
稲:まだまだ…

23909 終わり