『マニラ戦』:「女性たちだけが”ベイビューホテル”に連れて行かれたんです」~イサベル・カロ・ウィルソンさんの記憶・証言 / ムービー(フィリピン)

『マニラ戦』:「女性たちだけが”ベイビューホテル”に連れて行かれたんです」~イサベル・カロ・ウィルソンさんの記憶・証言 / トランスクリプト

☆  ☆  ☆  ☆

※イ:イサベル・カロ・ウィルソンさん
※数字は映像内のタイムコード

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イサベル・カロ・ウィルソンさんの自宅前

【戦前~日本占領期】

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イ:こんにちは…私の名前はイサベル・カロ・ウィルソンです。フィリピン人女性です。アメリカ人と結婚しました。今は未亡人です。私は1931年2月24日に生まれました.。88歳になります。私はマニラのエルミタと呼ばれる地区で育ちました。とても静かな場所で…素敵な隣人たちに囲まれていました。その地域の中ではみんながお互いのことを知っていました。みんな、同じ場所で育ちましたからね。

イ:父は車の製造所を持っていて、組み立て工場もありました。私はフランスの尼僧(が運営する)学校に行っていました。当時は英語で教えられていました。英語だけを話さなければいけなかったので、多くのフィリピン人はとても英語に精通しています。そのように成長しましたから。エルミタは美しい地区でした。午後には、サイクリングに自転車に乗って行っていました。ドゥーイ通りをサイクリングして…いまはロハス通りと呼ばれています。すべてにおいて何の問題もありませんでした…日本が真珠湾を爆撃するまでは…。

イ:それからフィリピンには…マッカーサー司令官がマニラを「オープンシティー」として宣言する日がきました。そして、日本軍がマニラに侵攻してきて…戦闘をすることもなく…です。わたしたちは家にいました。とても驚いて…わたしたちは日本兵が進軍してくる音を聞いたのです。かれらは街を占領してしまい…戦闘もありませんでした。「最後」のときとは違いました。山下陸軍大将と岩淵海軍少将が…マニラを死守しようとしたからです。なので、マニラは本当に、本当に…破壊されて…「東洋の真珠」として知られていたのに…。第二次世界大戦後には完全に破壊されてしまっていたのです。この戦争で、ワルシャワに次ぐ二番目に破壊し尽された街だと言われています。

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イ:日本(軍)による占領時には、かれらは父のビジネスを接収してしまいました。わたしたちは占領下に生きていましたが、行きたい場所に行くこともできて、出入りは自由にできました。生活は…もちろん制限されていましたが…。占領された国だったのですから…。そして…フィリピンの文化と日本のそれとには大きな違いがありましたからね。「一緒になる」なんてことには無理がありました…。まったく違う(文化を持った)人間なのですから。また、かれらはそんなによくはありませんでした。もし歩哨の前を通るとき、きちんとお辞儀をしなければ…平手打ちをされました。人びとは恐れていました。でも、私は家の中で育ち…そこでは安全で心配もありませんでした。私の子ども時代には問題はありませんでした。私は守られていたし…いい家族の中にいたものですからね。

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Q:当時のあなたの家族の構成を教えてください。兄弟姉妹の数とか…?

イ:わかりました。わたしたちは3人姉妹でした。男の子はいませんでした。私の父は…私は長女でしたが…父は私にビジネスの教育を与えました。その他の点では…私の家族はとってもあたたかくて…わたしたち子どもは守られていました。

三人姉妹の長女・イサベルさん(右)
ハイスクール時代のイサベルさん

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イ:父からビジネスを取り上げてしまった日本人は礼儀正しくて、とってもいい感じでした…。

Q:とてもよかった…?

イ:そうね…かれらができる範囲内でって感じかしら…。わたしたちは、かれらのことを「敵」だと思ってましたからね(笑)。かれらは「アジアの共栄圏(大東亜共栄圏)」を促進しようとしていましたからね…「アジアのため」といってね…。でも…フィリピン人はそれを受け入れてはいませんでした…。

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Q:日本軍が真珠湾を1941年12月8日に真珠湾を攻撃したとき…あなたはなにをしていましたか?

イ:そのときは…カトリックの大きな祭日(安息日)でしたので わたしたちは教会から戻ってきたところでした。突然…空を見上げると、二機の戦闘機が空中戦を行っていたのです。アメリカ軍と日本軍の戦闘機が戦っているということがわかりました。真珠湾の攻撃もまた、わたしたちに影響がありました。わたしたちは、アメリカによる「コモンウェルス(自治独立移行政府」のもとにありましたから。だけど…マッカーサー司令官は、マニラを「オープンシティー」にすると宣言したのです…。なので…そのときは大きな被害を被ることはありませんでした。マニラは「東洋の真珠」として知られていたのです。とっても美しい街でした。

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Q:その前のことですが…あなたが10歳…もしくは9歳だったころ…

イ:10歳でした。

Q:そのころ、もうすぐ戦争が始まるかもしれないとうことを感じていましたか?

イ:いいえ…。私は…お話したとおり…安全な家の中で暮らしていましたから。両親はとっても愛してくれて…よく面倒をみてくれて…。なにかが起こっていることはわかっていました。また、日本兵もみかけるようになって…侵攻してきて…もちろん、大人たちからも聞いていました…まわりの大人からね…。悪い日本のことをね。もちろん、わたしたちは影響は受けていましたよ。

Q:なにかは起こるかもしれないということは思っていた…ということですか?

ジ:私は小さかったので…なにか変だなということは感じていました…。なにか悪い感じだなってことは…。でも、わたし個人には大きな影響はありませんでした。

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Q:1941年12月8日に空中戦を見たときに、なにを思いましたか?

イ:私はなにが起こるかなんてわかりませんでしたよ…。ただ空を見上げて…大人たちが「戦争だ」ってね…「戦時になった」ってね…。なぜなら、日本軍が真珠湾を攻撃したからです。私にはなんの意味もありませんでした。私は子どもでしたからね…。

Q:あなたは恐くなかったのですか?

イ:いいえ

Q:なんにも

イ:なんにもです…

Q :ただ…

イ:ただ不思議に思って…。そして、わたしたちの生活はそんなに変わらなかったのですが…ただ…マニラの生活環境は完全に違うものになってしまいました。すべての街角には歩哨が立つようになって…通りの角にね…。歩哨の前を通るときには、お辞儀をしなければなりませんでした。きちんとお辞儀をしなければ…平手打ちをくらわされるんです(右手で)パック!(笑)…。

Q:そんな場面を見ましたか?

イ:いいえ…大人たちから聞いたんです。

Q:日本兵を初めて見たとき、どう思いましたか?

イ:そのとき起こったことは…私の父の会社が接収されてしまったこと。担当の大佐と大尉に…。かれらはいい人たちでした…。つまり…かれらは…ひどいことはまったくしなかったし…礼儀正しかったのです…。それから…父は家族を別の家に移動させました…パッシグ川を渡ったところにね…。マラカニアン宮殿の近くでした。私は、おばさんのもとで…私の従弟とハウスボーイとともに(元のパッシグ川の南側の家にいた)…。家は近所で…父が私に電話をしてきて…それは「解放(liberation)」の日の前のことです。

【マニラ戦~「ベイビューホテル事件」】

イ:父が6時に私に電話をしてきて…「来なさい」って…。でも、父はアメリカが「解放」したということは言いませんでした…マラカニアン宮殿とサントトーマス大学をね。「わかった」って言って…行こうとしていたのですが…わたしたちが行く前に…日本軍が五つのすべての橋を爆破してしまったんです。それらはマニラの北部と南部を結ぶものだったのです。なので…わたしたちは閉じ込められてしまうことになったのです。エルミタ側の…(デユーイ)通りの近くです。その晩…何人かの日本兵がわたしたちの家にやってきました。かれらは、わたしの父がゲリラを支援しているというのです。その兵士は、私と従弟とハウスボーイを連れ出し…そして、目隠しをして…後ろ手にくくられました。彼らはわたしたちを近くの場所へ連れていきました。夜中に、私は大きな声で言ったんです。先ほど…私はとても守られてきた子どもだったって言いましたよね…。「トイレに行かせてもらえませんか」って…。日本兵が私の縛りをほどき…目隠しをはずして、私を連れて行き…トイレに行かせてくれたのです。そして、また戻ってきました。そしたら、多くの人たちがわたしたちのように床に座らせられていたのです。「あの人たちは誰ですか」って聞きました。「ルーターたちだ」ってね。あなたは「ルーター」をわかりますか…泥棒みたいな人たちってことです。「かれらは、あとで銃殺される」ってね…。もちろん、私は少し恐くなりました。そして…「水をください」って言って…ボトルに入った水をくれて…従弟とハウスボーイと分け合いました。その兵士は私には親切にしてくれました…。

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イ:その次の朝…若い佐官が…わたしたちの会社に配置されていて大尉のそばにいた…やってきて…「私があなたを家に連れていきます」って言ったのです。私は「私の従弟は?」って訊きました…。彼は「ダメだ」って言いました…。「あなただけだ」って…。彼の車のギシギシと音のする椅子に私を座らせて…私を連れ出したのです…。その後、従弟と会うことはありませんでした…。おそらく…彼は殺されたのだと思います。そして、わたしたちは…家に到着すると…彼は「私と一緒にいませんか。安全のために」って言いました…。「いいえ…親戚がわたしたちを待っているから…。アテネオ大学で」…と。そうすると、彼は私を自由にしてくれて、行ってしまいました…。わたしたちはアテネオへ向かいました。小さな犬を抱えてね…。フォクステリアです。そこには…エルミタの人たちのすべてが…私の家の近所の人たちが大学の中にいました。家から逃れてきていたのです。アメリカ軍は発砲して…日本軍が爆破して…家も破壊されていましたから…。わたしたちは五日間ほど、そこにいることになりました。かれらは、そこを…アテネオ大学を破壊するっていうので、わたしたちはそこから出ていくことになったのです。通りは地雷が埋められていて…でも、わたしたちは大丈夫でした。わたしたちはルネタ(公園)に行きました…通りへ出てね…。そして…そのとき…わたしたちは連れ去られたのです…。兵士は犬を殺してしましました…。そして…わたしたちは「ベイビューホテル」へ連れて行かれたのです。それが残虐行為の始まりでした…。かれらは女性たちをレイプしました。女性たちを連れ出し…あなたは私の話を聞きたいですか?

Q:…わたしはあなたの体験を知りません…。なので、知りたいです。

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イ:わたしたちは ベイビューホテルへ連れていかれました…私は窓の近くの床に座っていました。日本兵がやってきて…燐寸をすって明るくしました。私を見て…「来い、来い」って言うのです…。私は彼と一緒に行くしかありませんでした…。私のまわりにいた女性たちが言いました…「かれらは女性を強姦している」と…。もちろん、私は それが何を意味しているかわかりませんでした。その兵士は、私をベイビューの外に連れ出しました。隣の通りへ入っていって…「ミラマー・アパート」の3階へ連れていったのです。そして…私を…男の前に…たぶん、士官だったのだと思います。差し出しました…。彼は士官でした。彼は私の身体をまさぐり始めました…。そして…(身体を)触り感じているのです。彼は言いました…「ダラガ?ダラガ(タガログ語)?」…。意味は…「独身か?」ということです…。どうして…私がそう言ったのかわからないんですが…「いいえ…結婚しています」って。彼は「ダメ!ダメ!…ダラガ!ダラガ!」って…。そして、彼はその兵士に…たぶん…私を連れ戻して、処女を連れてくるようにと言ったのだと思います。そして…その兵士は、私をまた下へ連れ戻し…「待て」と言ったのです…。彼を待っていたのですが、その場にいた歩哨が私の身体を触り始めたのです…。でも、兵士が戻ってきて…私の手をとり…「来い」と言って…私を再びベイビューホテルに連れ戻しました。彼は小さなバッグを持っていて…私にビスケットをくれたのです。彼は私がとても幼いということに気がついたのだと思います…。彼は私を連れ戻し…ベイビューに…。わたしたちは部屋を見つけることができませんでした…。でも、偶然にも見つけることができました。私はかれら(部屋にいた人たち)に、私に起こったことを説明しました。かれらは 「かれら(日本兵)は女性を強姦している!」って言って…私を…すべての若い女性を窓際に押しやり…年配の女性が(前に)出て行きました。なので、日本兵がやってきて、女性を引き連れていくときに…かれらは若い女性に近寄ることが難しくなったのです。

イ:私にはクラスメートがいました…。彼女の…姉妹たち…三人姉妹です…。エスターが…繰り返しレイプされました…。戦後になって、彼女は自殺しようとしました…。プリシーラは…かれら(日本兵)は彼女に挿入することができなかったので、切り開いて…。彼女は戻ってきたとき血を流していて、泣いていました…。なにがあったのかをわたしたちに話しました。そのときにわかったのです。なにが起ころうしているのかということがね…。

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イ:五日後に…かれらは「ここから出ていく。ベイビューホテルを爆破する」と言いました…。そして…わたしたちを解放しました…。なぜかはわからないけど…かれらはそうしたのです…。わたしたちに行くところはありませんでした…。家は爆破されて、燃やされていましたからね。わたしたちは、最終的には行き着いたところは…あなたは 「リサールモニュメント」を知っていますか?…ルネタ(公園)にある?…わたしたちは、そこに行き着いたのです。そこに留まりました。夜になって…城塞都市…イントラムロスからやってきた日本兵が女性たちを捕まえていきました…。レイプするためにね…。わたしたちは…そこで解放されることになりました…。2月27日のことでした…。アメリカ軍によってね…。アメリカ軍は、私…私のおばと私を父の家へ連れて行ってくれました。橋を渡って…かれらは「ポントン」橋を作っていたのです。あなたは「ポントン」橋(舟橋のこと)を知ってますか?…。橋はなかったので…「ポントン」橋です。そのときに…私にとっての戦争が終わったことを認識したのです…。

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Q:アメリカ軍がアテネオ大学にやってきた後…ルネタ公園ですね…あなたは日本兵に捕まったのですね…

イ:はい…通りで、です…

Q:そのときのことを詳しく知りたいのですが…どれぐらいの人たちと一緒にいたんですか?

イ:たくさんの人たちです…。

Q:妹たちも一緒に?

イ:女性たちはベイビューホテルの連れていかれたのです…

Q:男たちは一緒じゃなかったのですか?

イ:男たちはマニラホテルに連れていかれました。わたしたちは切り離されたのです…。コミュニティー全体の人たちがいたのですから…。通りへと走って逃げたのですから…。

Q:あなたの姉妹たちはその状況の中に含まれていたのですか?

イ:いいえ…。彼女らは橋を渡ったところの…父と一緒にいました。父は移動させていたのです。先ほどお話した通り…父は家族を移動させていたのです。そして、父は早朝に電話をしてきたのです…「いますぐに来なさい」って言うためにね…。父はアメリカ軍が解放したということはできませんでした…。サントトーマス大学とマラカニアン宮殿をね…。かれらは宮殿の近くに住んでいたのです…。でも、私たちがそこへ行く前に、かれら(日本軍)はすべての橋を爆破してしまったのです。

Q:そこには…あなた一人が残っていたのですか?

イ:私のおばと…従弟とハウスボーイと一緒でした…。

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Q:日本兵は、どのように…あなたをベイビューホテルへ連行したのですか?

イ:私にはわかりません…。かれら(日本兵)がアテネオ(大学)を爆破しようとしたとき…わたしたちは…全員…通りへと走り出たのです…。そうして…捕まえられたのです。かれらはわたしたちを捕まえて…わたしの犬を殺して…日本兵がね。そして。「行け!行け!」ってね。女性たちはベイビュー(ホテル)に…男の人たちはマニラホテルへと連れていかれたのです…。

Q:それは…たぶん…2月9日のことですよね…

イ:いいえ…2月27日にわたしたちは解放されたのですから…。たぶん…10日か15日ごろ…いや、2月の10日か11日ごろじゃないでしょうか…。わたしたちはベイビューに5日間いましたから…そして…ルネタへ…。

※マニラを日本軍から解放した直後から、米軍は日本軍による戦争犯罪捜査のために被害を受けたり、残虐な行為を目撃した人たちから詳細な証言を収集した。それらの資料によれば、日本軍が女性たちをベイビューホテルに監禁していたのは、2月9日~12・13日の4~5日間。

Q:日本兵に捕まって、ベイビューホテルに連れていかれた後、あなたはどう思っていましたか?

イ:もちろん…わたしたちはみんな、脅えていましたよ。先ほどもお話したように、すぐに連行されたのですから。同じ日の夜にね…。わたしは窓のそばに座っていました…。日本兵が燐寸をすって、「来い!来い!来い!」ってね…。そして…私を…この…士官のもとに連れて行ったのです…。私は戻ってきた後…私はかれらになにがあったかを話しました…。みんな…かれら(日本兵)が女性をレイプするために連行したのだいうことに気づいたのです。そして、かれら(部屋にいた女性たち)は、すべての若い女性たちを窓の傍の後方へと押しやったのです。そして、年配の女性たちが前の方へと移動したのです。日本兵がやってきても、年配の女性が連れて行かれるようにね。そうやって…若い女性たちが守られたのです。

Q:そのとき、あなたはどっちのサイドにいたのですか?

イ:ベイビューホテル…

Q:分かれていたのですよね…若い女性たちは部屋の中にいたのですよね?

イ:はい…

Q:外に年配の女性たちが…

イ:いいえ…部屋の中で…。同じ部屋の中にいたんです。若い女性たちは窓の方へ押しやられて…年配の女性たちが前の方に出てきたのです。そうすれば、かれら(日本兵)はできないから…。部屋はいっぱいだったんです。でも…さっき言ったように…私のクラスメートは…エバン…エスター…プリシーラ…。エスターは連れていかれました…。彼女は24歳でした…。彼女は何度もレイプされました…。

Q:彼女は別の部屋に連れていかれたのですか?

イ:別の部屋に…ホテルの中のね…。プリシーラにも同じようなことが起こりました。同じようなことが他の女性たちにも起こりました。レイプされたのです。敵にとっては絶望しての自暴自棄の行動のようなもので…戦争には負けようとしている中で…。かれらは…なにも言いませんでした。その先にはなにもなかったのですから…。

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Q:とっても恐かったのでは?

イ:恐ったとは思います…ですが…わたしの回りにはおばもいたし…友人も…コミュニティー(の人たち)に囲まれていたので…。ただ恐かったのは…これからなにが起こるかということがわからなかったことです。私の友人たちが連れて行かれたときには…そして、なにが起こったのかを話してくれたときには…年配の女性たちは、若い女性たちを守らなければと考えたのです。私たちのことを取り囲んでくれたのです。

Q:女性たちは何人ぐらい、そこにいたのですか?

イ:部屋の中に?

Q:はい…

イ:たぶん…30人ぐらい…35人…

Q:一部屋に?

イ:ひとつの部屋にです。

Q:他の部屋も同じですか?

イ:他の部屋も同じです。みんながベイビュー(ホテル)に連れていかれたのです。すべての女性たちがベイビューホテルに連れていかれたのです。でも、私には説明できません。なぜ、かれら(日本兵)がホテルを爆破する前に私たちを解放したのか…。かれらはホテルを爆破したのです…。わたしたちは出て行くように言われて…出て行って…ルネタに行き着いたのです…。「リサール・モニュメント」の足元にね…。わたしたちに行くところはありませんでしたから…。わたしたちの家は破壊されていました。わたしたちは、そこに座っていたのです。

※米軍の捜査資料では、2月13日にベイビューホテルに米軍の砲弾が撃ち込まれ階上から出火し、隣にあった「コーヒー・ポット」レストランからも炎が上がり、ホテルの一階のグランドホールの窓にも迫ってきた。一階にいた女性の証言によれば、最初は日本軍は女性たちが外に逃れることを拒んだが、最後は解放したという。おそらく、イサベルさんは階上の部屋のひとつに監禁されていたため、この状況を把握していなかったものと思われる。

Q:何日間、そこにいたのですか?五日間?

イ:そうです…ぐらいですね。

Q:五日間はとても長かったと思うのですが…。

イ:はい…。

Q:たとえば 食べ物とか飲み物とかは…?

イ:なにが起こったかというと…こういうことです…。12月に…マッカーサー司令官がリーフレットを送ってきた(撒いた)のです…たくさんの…空からね。それには「解放の日がやってきます」と…。「緊急用のバッグを用意するように」と…。わたしたちは、その緊急用のバッグを持っていました。その中にはいくらかの服や食べ物…水もね…いくらかは持っていました。購入してもいました…。食べ物を与えられなくてもね…。

Q:だから、なんとかなった?

イ:わたしたちは生き延びました…。

Q:飲み物も食べ物も…?

イ:はい…。そうね…みんなが持っていましたからね…みんなが。自分自身のことで精一杯だったので…でしょ…みんなが同じ状況にあったのですから…。

Q:わかりました…。

※米軍の捜査資料での女性たちの証言のなかには、「耐えがたい喉の渇きに襲われ、与えられたプールの水が入ったバケツに一斉に群がったために水が零れ、床に広がった水を舐める女性たちもいた」というものもあった。

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Q:女性たちが泣き叫んだりしたことを見聞きしましたか? レイプされて…

イ:はい…もちろん聞きました。プリシーラは…彼女は…かれらは彼女に挿入することができなかったので…彼女の膣を切り裂いて…。彼女は泣き叫んでいました…。エスターは…長女の…彼女も泣いていましたよ。彼女は継続してレイプされていたのでね…。彼女は何度も連れていかれました…。

Q:彼女は何歳だったのですか? プリ…

イ:プリシーラ…。私は14歳で、プリシーラは16歳でした。エスターは24歳でした。そこに私はいたのです…。他の部屋でも同じことが起こっていたのです。女性が連れだされて…。

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Q:ベイビューホテルを出た後、どこにも行くところがなかったと仰っていましたが…そのときは、どうしたんですか?

イ:ベイビューホテルのあとは…わたしたちはルネタに行ったのです…「リサールモニュメント」があるところね…。そこは大きな公園です。家もないので、家にも帰れませんでした。ただそこに座っているだけでした…。なにもできることはありませんでしたが…アメリカ軍がやってきていることは知っていました。銃声や爆発音などを聞きました。いたるところで銃撃があり…通りで銃撃戦を行っていました。

Q:爆撃もありましたか?

イ:いいえ…爆撃はありませんでした。砲撃はありました…。

Q:ただ そこにいたのですね…

イ:ただ、そこにいて…どこにも行けません…。歩き回ることは、とても危険でした。そして…アメリカ軍がやってきて…2月27日にね…。そして、彼らがわたしたちを連れ出してくれたのです。わたしたちは司令官と話をして…「橋を渡って、父のもとへ連れていってください」って頼んだのです。そして、連れていってくれたのです。

【マニラ戦終結~解放後】

Q:そのとき、彼(父親)はどこにいたのですか?

イ:私の父ですか?

Q:はい。

イ:私たちの家はマラカニアン宮殿の近くにありました。舟橋を渡って…家に着くと…父は反対の場所にいて…わたしたちを探していたのです。すべてのシェルターを探しまわっていたのです。私の髪はとっても長く伸びていて…ケロチンをつけてもらい…清潔にするために髪を切って…私をきれいに…清潔にしたのです…。

Q:そのときはどんな気持ちでしたか?

イ:もちろん、ハッピーでした。私は家に戻れたのですから。そして、戦争は終わったのですから…。

Q:あなたの両親…姉妹は全員…

イ:無事でした…。なぜなら、2月3日か4日には解放されていたのですから。サントトーマス大学とマラカニアン宮殿が解放されたとき…。私の両親の家は宮殿の近くにあったのですから。みんなが無事でした…。反対側の…わたしたちだけが…パッシグ川の南側だけが…そこが困難な状況になった場所だったのです。

02700 
Q:エルミタとマラテ地区は完全に破壊されてしまったと思うのですが…どのように生活を再建していきましたか? なんにもなくなってしまっていたと思うので…

イ:わたしたちは学校に戻りました…。でも、学校は多くはありませんでした。初めは、半日だけの授業でした。午前中に学校に行って…午後には別のグループが…午後に来るわけです。そして、最後まで…。

Q:学校の建物は残っていましたか? 破壊されずに?

イ:川のあっちの側の学校はね…。マラカニアン(宮殿)の近くの「ホリーゴーズ・カレッジ」に私は通いました。その学校は破壊されていませんでした。北側のすべての学校は破壊されてはいませんでしたから…。

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Q:あなたの友達のことを教えてください…プリシーラと…

イ:エスターですね…

Q:彼らの状態はどうでしたか?…

イ:エスターは自殺しようとしました…。でも、しませんでした…。プリシーラとエバンは…わたしと同じように学校に戻りました…。わたしたちはカウンセリングを受けました…。心理的なカウンセリングです。尼僧と先生たち…彼らすべての人たちが、わたしたちに多くの気遣いをしてくれて愛情を注いでくれたのです。

Q:当時でも多くのサポートが被害者にはあったのですね…

イ:そうです…

Q:自殺をしようとしたあなたの友人ですが…あなたになにか求めたりしたことはありませんでしたか?…助けてほしいとか…

イ:いいえ…彼女たちは三姉妹でした…。彼女にも彼女の家族がありますから…。かれらは、彼女にカウンセリング(治療)を行って…いっぱい支援を行っていましたからね…。彼女は回復することができました…。でも…彼女の人生は違ったものになったと思います…。彼女は以前の彼女自身ではなくなってしまったのです…。当然…彼女の身に起こったことに影響を受けてしまったと思います…。

Q:そうですか…

イ:でも…もう二人の姉妹と私は…なんとか前向きに自分たちの人生を続けていくことができました。学校へ戻り…また、楽しく過ごすことができるようになったのです…。

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Q:通常の生活が始まったのですね…。マニラの人びとの生活はどうでしたか?

イ:なに?

Q:なにを見ましたか?

イ:たくさんの貧困…。死んでいる人たちがいっぱいいて…とても荒廃していました…。でも、言ったとおり…わたしは良き家の出なので、とても守られていました。もちろん、手助けするなんてことはできませんでしたが…他の多くの人たちが苦しんでいる様子を見ました…。それは…とても恐ろしい状況ではありました…。恐怖を感じていなかったとは言えませんが…恐かったし…脅えていたし…でも、家へ帰れば…回復するには十分な若さがありました…。そして、このように言うことができます…「赦すことはできます…しかし、忘れることはできない」と…。

【戦後をどう生きたのか…】

03825
Q:その当時…あなたは、どのような未来を想像できましたか?

イ:私の人生は…ただ、前に進むだけ…人生はまた良くなる、と…。

Q:高校を卒業した後…大学に行ったのですか?

イ:はい…カレッジにね

Q:そこで何を学んだのですか?

イ:私の父は私を医者にしたかったのです…。でも、わたしはジャーナリストになりたかったの…書くことが好きだったのでね。もちろん、両親が言うようにやるしかないでしょ…。だから、わたしは医者の養成の学校に行きました…。でも、わたしは医者になることはありませんでした…。

Q:カレッジでの勉強は楽しみましたか?

イ:はい…とういうか…恵まれたことに…いい生活ができました…。それには感謝しています…。どういうことかというと…わたしに起こったことは…悪いようにはわたしには影響しなかったということです…。もちろん、その当時はトラウマを抱えていたと思いますが…脅えていたし…恐かったけど…すべては終わったので。そして、心理的なカウンセリングも受けましたし、そこから成長(回復)していくのは、そんなに困難なことではありませんでした。わたしの人生を再スタートすることができたのです…。

03220
Q:いまでも悪夢を見るという方もいらっしゃるようですが…あなたはどうですか?

イ:そんなことはありません…。

Q:まったくないですか?

イ:ありません…。実際に…悪いことはわたしには起こらなかったのです。私はレイプされていませんし…そんな状況になって…もう少しでレイプされようとはしましたが…。でも、レイプされることはなかったのです。私はとても恵まれていました。それには感謝しています…。なぜなら、他の少女や女性たちは…私の体験なんかよりももっと苦しい目にあったのですから…。

03250
Q:大学を卒業した後はどうしたのですか?

イ:働きました…。

Q:どんな仕事を…

イ:私は父の会社で働くことになったのです。それから、別の仕事をするようになりました。旅行もしましたよ。

Q:観光旅行で?

イ:そうです…。ニューヨークにね…。父の会社を辞めた後、私は旅行会社で働いていたのです。なので、旅行をすることができました。

Q:どこの国へ?

イ:どこへでもです(笑)

Q:どこでも?!

イ:そうです…よく旅行しました。

Q:たいていの…

イ:スペイン…イングランド…アメリカ…フランス…イタリア…日本には行ってません…そのときは、まだね。ニューヨークにはしばらくいました。叔父のもとでね。そこに滞在して…まあ…人生は楽しく過ごせていたということですね。

Q:1970年代ごろですか…60年代?

イ:60年代かな…50年代と60年代に…。

Q:当時は船旅だったのですか? 飛行機で?

イ:飛行機でも…船でも。

Q:すごいですね。

イ:はい…。

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Q:どんな経緯で駐スペイン大使になったのですか?

イ:わたしは「ビジネスウーマン」でした…。(当時の)ラモス大統領が経済的な外交を発展させたいと考えていたのです。外務大臣が…ロバート・ロムロ氏です…私の友人でした。彼が「あなたは大使になる気はありませんか?」って聞いてきたのです。「私が!?」って訊き返しました。「大使に?」…。大使といえば…私の考えでは…大使になるということは「カクテルパーティーに行くこと」。「ワインを飲んだり」とか、そんなことなのかなあと…。彼は「違います、違います」って。「大統領が経済的な外交を促進させたいと考えているのです。あなたはビジネスウーマンでしょ…。なので、私はあなたをスペイン大使に推薦しようと考えている」ってね。そして、彼は私の名前をラモス大統領に提案したのです。大統領がそれを認めたのです。そして、私は大使になって、そこに6年間いました。それは1992年から1996年までの間、私は大使を務めていました。

※政府の公式記録では、イサベルさんが駐スペイン・フィリピン大使を務めたのは1993年~1998年となっている。

Q::結婚はしましたか?子どもは…

イ:結婚しましたよ…

Q:子どもたちは何人いたのですか?

イ:もう一度…

Q:何人子どもはいたのですか?

イ:4人です…

Q:かれらはすでに

イ:はい…成長しています。8人の孫がいますよ…。

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Q:日本にも行ったことがあるんですよね。中野教授(一橋大学)が招聘したと聞いていますが…

イ:そうです。でも、その前にも行ったことがありましたよ。私と夫との…新婚旅行は東京だったんです。熱海…名古屋…京都…。なぜなら、私の夫はミシンの製造業者だったのです。彼は日本にビジネス仲間がいたのです。わたしたちが日本へ行くと…仕事仲間が迎えに来てくれて…わたしたちは新婚旅行を日本で過ごすことができたのです。

Q:その当時…日本へは行きたくないとは思わなかったのですか?

イ:いいえ…。

Q:まったくなかったですか?

イ:いいえ…ありません…。

Q:そのときの日本や日本人への第一印象はどうでしたか?

イ:とても礼儀正しくて…とてもいい感じで…。人びとが私のもとにやってきて…私は、アタミさん(仕事仲間の名前と思われる)に訊いたんですよ…「なぜ、かれらは私のところにやってくるのか」ってね…。そしたら、「目の大きな女優さんがいて…あなたはその女優に似てるからですよ」って。かれらは私のことを日本の女優だと勘違いしていたんですね(笑)。

Q:その女優は誰ですか?

イ:わかりません。日本にはわたしたちは二週間ほどいましたよ…。

Q:そこでは悪い印象はなかったですか?

イ:ありません…。言ったように…私は戦争を乗り越えていましたから…。安全なもとにいましたからね…。

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Q:あなたは88歳になったんですよね…

イ:現在ですね…。

Q:あなたの年齢を通しての意見として…あの戦争の時をどう見ていますか? すでに74年があれから過ぎていますが、あの戦争時代をいまの時代からあなたはどう見ていますか? 戦争の体験を通して…?

イ:私に対して起こったこと…。私の…そのときに起こった…人生の一部…。私は守られていて…そんなことよ…。私には本当に…そんなに大きなことではありません…。

Q:たとえば、エルミタやマラテ地区に関してですが…私はもちろん、その当時を見たわけではありません…戦前のね…。聞いたところによると…あなたも言われましたが…とても美しかった…

イ:そうでしたよ。美しくて…大きなアカシアの木がありましたよ…きれいな家々があって…良き人びと…。それは「フォルブズパーク」のようでした…。あなたは「フォルブズパーク」を知っていますか?

Q:はい。

イ:それは「フォルブズパーク」のようだったのです…マニラはね…エルミタはね…。

※「フォルブズパーク」とは、戦後、アヤラ財閥によってフィリピン金融界の中心、マカティ地区に開発された高級住宅区。マニラの「ビバリーヒルズ」とも言われ、中にはゴルフクラブやポロクラブがある。イサベルさんの居宅があるのも「フォルブズパーク」に隣接する同じような高級住宅区「ダズマリニャス」。

※「エルミタ」地区には、戦前、フィリピンのエリート層の人たちが多く暮らしていた。当時の官公庁もこの地区に数多くあった。「マニラ戦(地上戦)」で、この街は壊滅状態になってしまったため、戦前の「エルミタ」を再現するかのように開発されたのが「フォルブズパーク」ともいえる。

Q:でも、今は破壊されて、まったく変わってしまいましたね…。

イ:そうです…。なんとも哀れです…。

Q:その地区をどう思いますか? 郷愁とかはありませんか?

イ:ありません…。いいえ…私は前へと進んだのです。人生を前へと進めていったのです。私は過去には暮らしていません。私は今を生きているのです。

Q:あなたは…楽観的で…

イ:はい…そうです。ある人たちから「あなたは日本人を憎んでいますか」って聞かれたことがありました。私は「いいえ…憎んでいません」と答えました。また、私は信じていて…「赦すことはできるが…忘れてはいけない」とね。それがとっても重要なことです。

Q:「忘れてはいけない」ということですね。

イ:そうです。

Qそれが重要だと…

イ:そうです。

【次世代へのメッセージ】

03923
Q:日本人に対して…特に日本の若者に対して…第二次世界大戦の体験を持つ者として なにか言ってくれませんか…

イ:なにも言えることはないですよ。若い人たちにね…。かれらのことを「ミレニアルズ」(ミレニアル世代)と呼んでいますが…それは、全く違う世界だということです。また、それは違った人生だと思うのです。かれらはまったく違うように考えるでしょうし…かれらは、私のようには考えないと思います。私は88歳ですからね…。私自身の子どもたちだって、私のようには考えません。でも…「希望を持っていきましょう。あんなことが二度と起こらないように」と…。いまは…人びとは、より良くコミュニケーションをしていると思います。たくさんの日本人がここへ来て学校へ通い学んでいます…フィリピン大学とかでね…。そして、希望として…わたしたちがあんな恐ろしい目に、再びあわないようにと思っています…。

04051 終わり