- 2025年2月1日
「戦中、私は『軍国少年』でした。戦後は、朝鮮半島との和解を求めて…」~牧師・関田寛雄さんの語り (日本 / 朝鮮半島)
関田寛雄さんはいま、日本基督教団の牧師ですが、戦中は牧師の父親のもとに生まれたため、まわりに差別され、悲しい思いをし、その境遇を恨めしく思っていた、といいます。そうであったからこそ、関田さんは、「より日本人」になろう、と思ったそうです。誰もよりも率先して「軍国少年」になりきろうとした…
関田寛雄さんはいま、日本基督教団の牧師ですが、戦中は牧師の父親のもとに生まれたため、まわりに差別され、悲しい思いをし、その境遇を恨めしく思っていた、といいます。そうであったからこそ、関田さんは、「より日本人」になろう、と思ったそうです。誰もよりも率先して「軍国少年」になりきろうとした…
2020年は戦後75周年ということで節目の年でもあり、セレモニーを執り行うフィリピン国軍の軍人の数も多く、通常よりも規模は大きく盛大な式典でした…011年より公式に慰霊祭に招待されているBFPからは代表の神直子さんがスピーチを行いました。学生時代にスタディーツアーで訪れたフィリピンで、ある女性から強い憎しみと怒りをもって「日本人とは会いたくなかった。なぜ、あなたはフィリピンに来たのか」と問い詰められたのがBFPの活動の原点だと、神さんは言います。その女性は戦時中、フィリピンを占領していた日本兵によって夫が連行され、その後、二度と戻ってくることはなかったというのです…
2018年からNPO法人「ブリッジ・フォー・ピース」(以下、BFP)とともに参加し、撮影・記録している「メモラーレ・マニラ・1945」主催の「マニラ戦」犠牲者・慰霊祭。74周年目を迎えた2019年、式典には「BFP」とは深い関わりを持つ中野聡 教授(一橋大学/社会学研究科 教授・社会学部 教授・一橋大学 学長)が代表として参列し、スピーチを行いました…式典の全体の様子、行われたすべてのスピーチを無料配信…
宮﨑黎子さんは1942年生まれ。お父さんの矢野金治さん(享年35歳)が、1942年に出征した満州から妻と幼い娘に宛てた12枚の絵手紙を前に、愛娘の黎子さんは思い出を語ります…戦後50年の節目の年、戦死と聞かされていた父の死の真相を知ることになります。激戦のフィリピンで、敗戦後も生き抜いた父が、捕虜収容所で年若い将校の身代わりとなって亡くなっていた…
1941年9月29日、キエフを占領したナチス・ドイツが、市内のユダヤ人全員を集め、衣服を脱がし、バビ・ヤール渓谷まで歩かせて一斉に銃殺した…ソ連の捕虜やシンティ・ロマの人々、ウクライナ民族主義者も銃殺され、43年、ソ連がキエフを占領するまでに、10万人にもの人々が殺害された…
小谷瑞枝さんは、刀川和也(「隣る人」工房)の母方の伯母です…福岡の炭鉱住宅で育った伯母。「貧乏暮らし」の記憶を歯に衣着せぬ物言いで語る伯母の姿が、20代に読んだ「青春の門・筑豊編」(著:五木寛之)に描かれていた登場人物たちの姿と重なり、炭鉱の世界が目の前に鮮明に広がっていきました…