言葉、音声、画像、動画等を駆使し、個人に光を当て、個を大切にした記録活動。表現行為を通して、時空をまたぎ、人とつながり、人と人とをつなげていくことを探求しています。

75周年「マニラ戦」犠牲者慰霊祭2020年2月15日/ムービー(フィリピン)

MEMORARE-Manila 1945 Foundation,Inc

BATTLE FOR MANILA
75th ANNIVERSARY
16th FEBRUARY 2019
Plazuera de Sta Isabel
General Lune Street, Intramuros, Manila

メモラーレ・マニラ 1945 財団

マニラ戦
75周年 記念式典
2020年2月15日 
プラスエラ・デ・サンタ・イサベル
ジェネラル・ストリート イントラムロス マニラ

今回も、日本のNPO法人「ブリッジ・フォー・ピース(以下、BFP)」の方々とともに、「メモラーレ・マニラ・1945」主催の「マニラ戦」民間人犠牲者・慰霊祭に参加し、戦後50周年目の1995年から毎年開催されている式典を撮影しました。2020年は戦後75周年の節目の年でもあり、セレモニーを執り行うフィリピン国軍の軍人の数も多く、盛大な式典でした。

参列者にもドイツ、アメリカの政府関係者、米軍からも軍人等が顔を揃え、それぞれの方々がスピーチを行いました。しかし、日本政府関係者の参列者はひとりもありませんでした。

フィリピンの方々がよく口にされる言葉があります。

「赦しはしますが、決して忘れはしません」
「忘れてしまってはいけないと思っているし、忘れてほしくないと強く願っている」、と。

そのような思いで継続して開催されてきた慰霊祭に、日本政府関係者が参列したのはこれまでにただ一度だけです。2006年2月、戦後61周年目の年に当時の駐比日本大使、山崎隆一郎氏が式典へ参列し、謝罪の言葉を述べたことがあります。

毎年開催されている慰霊祭のことも日本国内で報道されることはほとんどありません。マス・メディアの問題でもありますが、そんな状況では10万人以上のフィリピン市民が死亡した「マニラ戦」のことを、特に若い人たちは知る由もありません。

2011年より公式に慰霊祭に招待されているBFPからは代表の神直子さんがスピーチを行いました。学生時代にスタディーツアーで訪れたフィリピンで、ある女性から強い憎しみと怒りをもって「日本人とは会いたくなかった。なぜ、あなたはフィリピンに来たのか」と問い詰められたのがBFPの活動(BFPの活動についてはHPから参照してください。詳しく述べられています)の原点だと、神さんは言います。

その女性は戦時中、フィリピンを占領していた日本兵によって夫が連行され、その後、二度と戻ってくることはなかったというのです。そのときまで神さんは、「マニラ戦」のこと、フィリピンを占領していた日本軍が第二次世界大戦末期にフィリピン人に対して行った残虐な行為に関しても、詳しくは知らなかったそうです。

神 直子さん(NPO法人「ブリッジ・フォー・ピース」代表)

実際、この日も講義の一環として式典に参加したフィリピンの大学で学ぶ日本人留学生が神さんのもとを訪れ、以下のように語っていました。

「フィリピンに来るまで、『マニラ戦』のことはまったく知りませんでした。ここに来て、初めて知りました。知らなかったことが恥ずかしくて…」

以下、無料動画配信より神直子さんのスピーチを含め、発言されたすべての方々のスピーチもご覧いただけます。神さんのスピーチ、また、式典後、フィリピン人数名の方々が彼女のスピーチに対して感謝の意を伝えるために声をかけてこられた場面にはチャプター設定をしています。

撮影日:2020年2月15日

取材・撮影:刀川和也(「隣る人」工房)

※本編での使用言語は主に英語ですが、字幕等はつけられていません。

「マニラ戦」関連記事等へのリンク

「隣る人」工房

「マニラ戦」とは、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までフィリピンの首都のマニラで戦われた日本軍と連合軍の市街戦のことをいう。この戦闘に巻き込まれて、フィリピン市民の10万人以上が死亡したといわれる。徹底抗戦をした旧日本軍は全滅。その中で、旧日本軍はフィリピン市民への多くの虐殺事件を起こしている。

「メモラーレ・マニラ・1945」とは、戦後50周年を機に「マニラ戦」戦没者の追悼と記憶の継承のために設立された民間団体。「メモラーレ・マニラ・1945」が建立した記念碑の碑文には以下のように記されています。

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メモラーレ – マニラ 1945

”この記念碑は、何の罪もないすべての戦争の犠牲者に捧げられる。
その多くは、名もなく、名前も分からないままに共同墓地に葬られたり、墓地にさえ眠ることができなかった犠牲者もいる。戦火で灰となり、廃墟の瓦礫の下に砕かれ塵となって埋もれてしまったのだ。

この碑を、1945年2月3日から3月3日までの「マニラの開放ための戦い」で殺された10万人以上に及ぶ男性、女性、子ども、幼子、すべての、一人ひとりの墓碑としよう。わたしたちは、彼らのことを忘れてはいないし、これからも決して忘れることはないでしょう。

いま、この神聖な、わたしたちの愛する街、マニラの地の一部となり、どうか安らかにお眠りください。

1995年2月18日”

MEMORARE – MANILA 1945

“THIS MEMORIAL IS DEDICATED TO ALL TOHOSE INNOCENT VICTIMS OF WAR. MANY OF WHOM WENT NAMELESS AND UNKNOWN TO A COMMON GRAVE, OR NEVER EVEN KNEW A GRAVE AT ALL. THEIR BODIES HAVING BEEN CONSUMED BY FIRE OR CRUSHED TO DUST BENEATH THE RUBBLE OF RUINS.

LET THIS MONUMENT BE THE GRAVESTONE FOR EACH AND EVERY ONE OF THE OVER 100,000 MEN, WOMEN, CHILDREN, AND INFANTS KILLED IN MANILA DURING ITS BATTLE OF LIBERATION, FEBRUARY 3 – MARCH 3 1945. WE HAVE NOT FORGOTTEN THEM, NOR SHALL WE EVER FORGET.

MAY THEY REST IN PEACE AS PART NOW OF THE SACRED GROUND OF THE CITY : THE MANILA OF OUR AFFECTIONS.

FEBRUARY 18, 1995 “

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