MEMORARE-Manila 1945 Foundation,Inc
BATTLE FOR MANILA
73rd ANNIVERSARY
10th FEBRUARY 2018 AT 8:30 A.M.
Plazuera de Sta Isabel
General Lune Street, Intramuros, Manila
メモラーレ・マニラ 1945 財団
マニラ戦
73周年 記念式典
2018年2月10日 午前8時30分
プラスエラ・デ・サンタ・イサベル
ジェネラル・ストリート イントラムロス マニラ
太平洋戦争末期、マニラ奪還のため侵攻してきた米軍に対して、当時フィリピンを占領していた旧日本軍の一部(「マニラ海軍防衛隊」)は、マニラ市内のパッシグ川南側に残り徹底抗戦をしました。その結果、旧日本軍の部隊は全滅。「東洋の真珠」とも称された美しい街並みのマニラは戦闘と砲爆撃で壊滅し、逃げ遅れて命を落としたマニラ市民の数は10万人以上に上ります。
また、旧日本軍は、太平洋戦争末期には抗日意識が高まる中で一般のフィリピン人にも恐怖心を抱くようになり、多くの市民を虐殺したり、女性への集団レイプ事件も起こしています。
式典の主催は「メモラーレ・マニラ1945財団」。この市街戦を生き延びた方々が、1995年に設立した民間の団体です。悲惨な歴史が忘れ去られようとしていることにあらがうためだったと言います。それから毎年2月には継続して記念式典は開催されており、日本からはNPO法人「ブリッジ・フォー・ピース」が公式に招待され、毎回、スピーチも行っています。
2018年2月10日に行われた式典を以下、Vimeo無料動画よりお届けいたします。
制作:「隣る人」工房
※本編での主要言語は英語ですが、翻訳字幕等はございません。
※ダイジェスト版は、youtubeにてご視聴ください。⇒「隣る人」工房channelへ
式典当日に配布されたプログラム
※「マニラ戦」とは、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までフィリピンの首都のマニラで戦われた日本軍と連合軍の市街戦のことをいう。この戦闘に巻き込まれて、フィリピン市民の10万人以上が死亡したといわれる。徹底抗戦をした旧日本軍は全滅。その中で、旧日本軍はフィリピン市民への多くの虐殺事件を起こしている。
※「メモラーレ・マニラ・1945」とは、戦後50周年を機に「マニラ戦」戦没者の追悼と記憶の継承のために設立された民間団体。「メモラーレ・マニラ・1945」が建立した記念碑の碑文には以下のように記されています。
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メモラーレ – マニラ 1945
”この記念碑は、何の罪もないすべての戦争の犠牲者に捧げられる。
その多くは、名もなく、名前も分からないままに共同墓地に葬られたり、墓地にさえ眠ることができなかった犠牲者もいる。戦火で灰となり、廃墟の瓦礫の下に砕かれ塵となって埋もれてしまったのだ。
この碑を、1945年2月3日から3月3日までの「マニラの開放ための戦い」で殺された10万人以上に及ぶ男性、女性、子ども、幼子、すべての、一人ひとりの墓碑としよう。わたしたちは、彼らのことを忘れてはいないし、これからも決して忘れることはないでしょう。
いま、この神聖な、わたしたちの愛する街、マニラの地の一部となり、どうか安らかにお眠りください。
1995年2月18日”
MEMORARE – MANILA 1945
“THIS MEMORIAL IS DEDICATED TO ALL TOHOSE INNOCENT VICTIMS OF WAR. MANY OF WHOM WENT NAMELESS AND UNKNOWN TO A COMMON GRAVE, OR NEVER EVEN KNEW A GRAVE AT ALL. THEIR BODIES HAVING BEEN CONSUMED BY FIRE OR CRUSHED TO DUST BENEATH THE RUBBLE OF RUINS.
LET THIS MONUMENT BE THE GRAVESTONE FOR EACH AND EVERY ONE OF THE OVER 100,000 MEN, WOMEN, CHILDREN, AND INFANTS KILLED IN MANILA DURING ITS BATTLE OF LIBERATION, FEBRUARY 3 – MARCH 3 1945. WE HAVE NOT FORGOTTEN THEM, NOR SHALL WE EVER FORGET.
MAY THEY REST IN PEACE AS PART NOW OF THE SACRED GROUND OF THE CITY : THE MANILA OF OUR AFFECTIONS.
FEBRUARY 18, 1995 “
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