『マニラ戦』:「母、祖母、おじたちが、どこで、どのように殺されたのか…いまだに不明なままです」~ローデリック・ホールさんの語り / ムービー(フィリピン)

『マニラ戦』:「母、祖母、おじたちが、どこで、どのように殺されたのか…いまだに不明なままです」~ローデリック・ホールさんの語り / トランスクリプト

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※ロ:ローデリック・ホールさん
※数字は映像内のタイムコード

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「メモラーレ・マニラ・1945」の「マニラ戦・慰霊記念式典」に参加するローデリック・ホールさん

【日本軍占領期~マニラ戦~マニラ解放まで、一気に語る】

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ロ:わたしは1932年の11月に生まれました。いま、85歳になります。マニラで生まれました…マカティの近くの…スペイン人の病院でね。私の母もマニラで生まれました。私の父はスコットランドで生まれました。ここへは、英国の会社とともにやってきました。かれらはここで出会い、結婚をしました。わたしは4人の子どもの中で最年長者です。戦前は、パコ墓地の近くに住んでいました。戦争が始まったとき、私たちは祖父母とともに、ここから避難することになりました。わたしの祖父は、とても体調を壊していました。1942年の2月2日に、日本軍がマニラに侵攻してきた夜…祖父は亡くなってしまいました。私の父は車を飛ばして、医者を呼びに行きました。その道中で、父は前哨基地にいる日本軍と遭遇してしまったのです。かれらは父を止めました。父は、説明をしました。一人の兵士と日本人の市民がやってきて…車に乗り込み、かれらは車で医者を呼びに行き、そして、祖父の家まで医者を連れてきました。それから、かれらは車を持ち去ってしまいました。わたしたちは、一台の車を失ってしまいました。

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ロ:1942年の1月2日…3日…日本軍は一軒一軒、家を訪れて、(強制)収容所(prison camp)に収容すべき人を調べ回っていました。私の父はイギリス人でした。なので、彼は行かなければいけなくて…二日後に、マラテ教会に行くようにとの連絡がありました。小さなスーツを持って行きました。わたしたちは行かなくてもよかったです。わたしたちは、フィリピン生まれだったので…。日本軍は、フィリピンで生まれたものたちは、フィリピン人だと考えたのです。なので、わたしたちは収容所に行かなくて済んだのです。私の祖父が亡くなり…その日は…そこで暮らすことが出来ました。私の母には、二人の兄弟がいて…かれらは軍に所属していました。彼女の兄は…ジョセフ・マクミッキングといいますが…かれはコレヒドールへ行き、戦況がとても悪くなり、マッカーサー司令官とともにコレヒドールから退避した士官のひとりだということがわかりました。かれは戦中、オーストラリアで過ごしました…マッカーサー司令官のスタッフとしてね。わたしのもう一人の叔父…アルフレッドは…フィリピン軍、第51師団の中尉で…バタアンで捕虜となり…「死の行進」の中にいたのです。彼は(捕虜)収容所に入れられて…フィリピン軍と日本軍の間で平和協定が結ばれる1943年までね…。その後、彼も含めたフィリピン人はすべて解放されて…彼は家に戻ってきました。マラリアに感染し、とてもひどい状態でした。

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ロ:戦中は…わたしたちは家にいて…学校にも行っていました。フランスの修道女によって運営されていた学校に通っていました…6年生まで…。6年生以降は、女性のみ登校することが許されていました。そのときの二年間は…わたしたちは、その学校で日本語を学ばなければなりませんでした。わたしたちの先生たちは…おそらく…わたしたちより1回か2回の授業分、前もって学んだぐらいで、かれらもまた、日本語を知りませんでした。わたしたちは「カタカナ」を教えられました。「ア、エ、イ、オ、ウ。カ、ケ、キ、コ、ク」(笑)…「サ、セ、シ、ソ…」…全部の「カタカナ」を…です。1955年のことですが…そのことは、わたしにはとても役に立ったのです。わたしは米兵として韓国にいたことがあって…東京では地下鉄のサインを読むことができました。私が向かってる先を確認するためにね…。

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ロ:6年生の後は…私も弟も、もはや学校に行くことは出来なくて…修道女の学校にはね。家庭教師を雇って…ウィーン大学の先生だった私の数学の先生は…とても、本当に素晴らしい人で…。彼は数学だけでなく、歴史や地理、すべての学術を教えてくれました。彼の妻が、私たちに英語とフランス語を教えてくれました。わたしは勉強をとても楽しんでいました。戦中はね…どの家族も家畜を育てていました。わたしたちは豚を飼育していました…後に食用にするためにね。そして、豚を屠殺したときのことですが…その日の授業は豚の解体、だったのです。わたしたちの先生は、心臓や肺の働き、腸や胃などを、わたしたちに見せてくれて…とても面白い授業でした。

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ロ:私の父は…戦中は、サントトーマス(大学=収容所)にいたのですが…時には家に帰ってくることが許されていました。ある時は、3日間…ある時は、2週間です。また、戻らなければいけないのですが、また、戻ってくることができていました。父には、わたしたちがいる、戻ってくる家がありました。多くの英国人や米国人は、そんなことはできませんでした。なぜなら、かれらには家族はいなかったからです…フィリピンにはね。アメリカの会社で働いている人たちはアメリカの銀行に預金していました。戦中は、銀行は閉ざされてしまいましたから、アメリカの会社は、その人たちに給与を払うことができなくなっていたのです。だから、家賃も払えなくなって…収容所の中にいるしかなかったのです。二年前に、わたしはサントトーマス(大学)の展示を観に行ったのですが…とても感動しました。日本の司令官に宛てた…たぶん、人びとによって書かれた14,15枚の手紙…それは収容所の中に入ることを乞う内容のものでした。わたしはそれまでに…人びとが収容所の中に入ることを乞う手紙というものを見たことはなかったのです。なぜなら、かれら(収容されていた人たち)が外に出ることは、とても難しかったんですね。わたしたちにとっては…戦中は…多かれ少なかれ…通常でした。私たちの家の近くにはアパートがあって…回りにはアパートのベランダがあって…私と友人たちは、そこへ行って…草むらに隠れて…「芸者」が化粧をして、「ドレス」を着るのを覗き見していました。士官たちを待っていたのですね…。わたしたちは草むらに隠れて、それを見ていて…美しい女性たちでした…。日常は、ほんとに通常で…たぶん、1944年中頃まではね…。

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ロ:米軍の飛行機が最初にやってくるようになってからは…爆撃も始まりました。それからというもの、日本兵は、より厳しくなっていきました。彼らは道路封鎖をするようになりました。道路を封鎖されたところは通るときには、そこに止まってお辞儀をしなければなりませんでした。「向こうの自宅に戻るため」とか、そこを通過する理由を述べなければなりませんでした。そうすると、かれらはそこを通してくれました。少しずつ、戦闘の状況が悪くなっていきました。1945年1月20日のあるとき、私たちの家の前庭で、大きな音がしました。ゲートが開けられていて…おそらく、20人ぐらいの日本兵が銃剣を構えながら、私たちの家へと歩いてきました。かれらが近づいてくるのを、わたしたちは立って見つめていました。キッチンの方から音が聞こえてきたんです。使用人が何人かの日本兵とともに中に入ってきました。そして、わたしたちを縁側の端に集めて…彼らは、たぶん、2、3時間、私たちの家にいて、家の中を調べ始めました。すべてのものを開けて、最後まで調べ続けていました。そして、最後に「あなたたちを連行します」と言い…すべての男たちを後ろ手に縛り上げました。わたしたちは縛り上げられて…わたしの祖母が「やめてください」と抵抗すると…彼らは、女性たちを縛り上げることはしませんでした。彼らは、私たちの家を取り囲むようにして…たぶん、日本の海軍の司令部だと思うのですが…わたしたちを連行していきました。そこは、タフト通りにある「フリーメーソンの寺院(Masonic temple)」でした。かれらは、そこにわたしたちを連行しました。時間は午後1時頃だったと思います。

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ロ:彼らは通りの角に私たちを留め置き…そこで、わたしたちは待たされました。他の家々からも人びとがやってきて…彼らもまた、収容される人たちでした。午後も遅くなってから…士官がやってきて、人びとの名前を呼び始めました。わたしたちのグループは、使用人の名前から呼び始めました。私の弟の名前…私の名前…そして、わたしの祖母の名前を…。祖母はわたしの後をついて行こうとしましたが…「違う、違う…あなたは向こうへ行きなさい」と言われ…わたしたちのグループは離れ離れになって…他のグループも二つに分けました。使用人と…わたしと弟は、すべて一緒にゲートに連れていかれて解放されました。その次の日、わたしたちは彼らに、「わたしたちの家族にどうやって食べ物をあげられるのか」と聞きました。すると、1週間、食料を家族に送ることが許されました。毎日、あったかい食べ物を持っていくことができました。でも、ある日、彼らは「もう、食料を持ってきてはダメだ」というのです。そんなことがあったのは、1月末から2月初めの頃です。とっても困難な状況になってきていました。そして、2月3日になって米軍が侵攻してきて、サントトーマス(大学)を解放しました。

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ロ:とても、困難な状況になりました。そのころ…最初のころは…ある晩のことですが、盗賊がわたしたちの家にやってきました。盗み出すものを物色していました。自動車のタイヤとか、そんなものをです。一晩中いて…朝の5時半にバスがやってきて、すべてのものを持ち去ってしまいました。なので、わたしの母の友人が…ドイツ人と結婚していた人ですが…彼は軍の司令部へ行きました。日本軍は、夜に歩哨をつけてくれました。私たちの家には歩哨が立ち、盗賊から守っていてくれていたのです。とても興味深いことです。日本軍がわたしたちを守るために歩哨をつけてくれたんですから。わたしたちの家族は、日本の海軍の被収容者(Prisoners)となっていたのですから。

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ロ:2月の最初の週の頃は…砲撃や戦闘があらゆるところで、激しく行われていました。わたしたちの家は無事でした…大きな庭がありましたからね…。所有地の端にあったガレージは燃やされましたが、わたしたちの家は燃えませんでした。

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ロ:ある日…セントポール修道院で虐殺が起こりました。わたしたちは爆発音を聞きました。30分後ぐらいに…生き残った人たちがやってきて、家の壁を乗り越えてきました。たぶん、100~150人ぐらいの人たちだった思います。私たちの家にやってきて、そこにいました。わたしたち全員、家の下にいたのです。砲撃がとても酷かったものですから…砲撃と銃撃です。学校の子どもたちに話して聞かせるときに言うことですが…そのときには電気もきてなかったし…電話も、水もない。なんにもなかったということを想像してほしい、とね。冷蔵庫に食料を保管するということもできません。その当時は、食べ物にとても困っていました。幸運にも、わたしと弟は…遊んでいるときに…6ケ月前ぐらいだったと思いますが…井戸を掘りあてていたのです。なので、井戸から水を得ることができたのです。私の家にいた人たちが、井戸をもっと深く掘ってくれたので、わたしたち全員に十分な水を確保することができました。わたしたちは家に留まり続けていましたが、砲撃は昼夜を問わず行われていました。銃撃も始まり…どうしたらいいものかと…。そして、2月15日に…アメリカがマニラに侵攻してきて12日後になりますが…ひとりの男が庭の中へと入ってきたのです。かれの友人が訊いたんです…「ここでなにをしているんだ?! あなたはマニラの北側にいたんじゃないんですか」ってね…。その彼が答えて言うには…「わたしは米兵と一緒に前線を越えてきた」ってね。それで、わたしと代表のもので、その兵士に会いに行って…「どうしたらいいと思うか」と訊ねました。彼は、「今晩、わたしたちは戻るので、そのときに、一緒に向こうへ渡りましょう」と…。なので、わたしたちはそうすることにしました。家にいた者たち全員…長い列をつくって…一列になって…破壊された家々の間を通り抜けて行きながら…そして、前線を越えていったのです。思い出すのですが、私の10フィート先に8歳ぐらいの男の子が歩いていました。狙撃手がいて…彼は後ろから撃たれて、そのまま倒れてしましました。わたしたちは、すぐにそこから逃げなければなりませんでした。前線を越えるのは、簡単なことではありませんでした。通りには…マシンガンが据えられていましたからね…。米軍が戦車を移動してきて通りをブロックしてくれたので、その戦車の後ろを通って…前線を越えることができたのです。あらゆる前線には、狙撃手やマシンガンが配置されていたのです。その夜は…わたしたちは屋外で寝ることになりました。その夜…もっとも「華々しい」「花火」を観ることになりました。爆発のすべてが…銃弾の軌跡…一晩中、あらゆる方向に空に飛び交っていたのです…。

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ロ:その翌日、わたしたちは、小さな家を建て始めたのです。他の廃墟となった家から持ってきたものを使ってね…。そしたら、米兵が珈琲やたくさんのスクランブルエッグを持ってきて、そこで待っていた人たち全員に食べさせてくれたのです。そして、わたしの母の従弟を見かけたのです。わたしは、「わたしたちの新しい『家』を見てよ」って言いました。すると彼は…「よかった! あなたの父親がとても心配しているよ。一緒に来なさい、父親のところに連れていってあげるよ」ってね…。わたしたちは、マニラをぐるっと回って行かなければなりませんでした。マニラの中心部で戦闘が行われていましたからね。ぐるっとマニラを回って…歩きながら…途中では、軍のトラックが通り道を作ってくれて…サントトーマスの収容所に到着するまでの間でね…。そうして、わたしたちは父と合流することができたのです。それから、サントトーマスに一緒にいて…2ケ月間です。それから、わたしたちの家に戻りました。わたしのおじは、マッカーサー司令官の元に戻っていました。彼は、(マッカーサーの)スタッフでしたから。わたしたちは発電機や水のタンクも得ることができました。父が決定を下すまでは、そこにいました。わたしたちの教育が重要だったのです。学校も始まることになっていましたから。マニラは破壊されていました。父はわたしたちを、赤十字を通して…軍用船でサンフランシスコへ送り…わたしたちは列車でニューヨークへ向かい…別の船で英国へ向かい…列車でスコットランドへ行き…祖母のもとにいることになったのです。そこで3年間を過ごし…父はここ(マニラ)の状況を整えていたので、「こっちへ戻りたいか」って聞かれたので、わたしたちは、「戻りたい」と言って、此方へ戻ってきたのです。1948年に、ここへ(マニラ)戻ってきました。そして、ここで、1950年に高校を卒業しました。

【1938年に父親の故郷、イギリス・スコットランドへ一時帰郷した時のこと】

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ロ:あなたが先ほど言ったことですが…1938年のことです。わたしの父は、家族全員を…母と4人の子ども…二人の中国人の乳母…を連れて、スエズ運河を抜けてスコットランドに行きました。そこに、わたしたちは6ケ月間滞在する予定でしたが、父は当時、ヒトラーとチェンバレン(当時のイギリス首相)によって締結された「ミュンヘン協定」をとても心配して…。チェンバレンはイギリスに戻ってきてペーパーを見せて…「平和の時がやってきた」と言ったのです。父は…その意味は「戦争」だと考えて…家に戻りたくなったのです。それで、わたしたちはそこを離れて…スコットランドから船でニューヨークへ行き…一か月間滞在して…それから列車でシカゴへ…そしてバンクーバーへ行き…。たぶん、日本大使館が近かったと思うのですが…太平洋を渡って戻った(フィリピンへ)のです。途中、横浜に停泊して…それからマニラへと戻ったのです。私は6歳の誕生日を失ってしまったんですよ。なぜなら、日付変更線を越えたので1日が消えてしまったんです。それは、ちょうど、わたしの6歳の誕生日のときだったんです。

※スコットランドのエジンバラは、ローデリック・ホールさんの父親の故郷。一時帰国をした時のこと。

※「ミュンヘン協定」とは、チェコスロバキア・ズデーテン地方のドイツへの帰属を認めたイギリス、フランス、イタリア、ドイツの協定。イギリスとフランスがドイツ、イタリアに対してとった、弱小国を犠牲にて侵略者と妥協しようとした宥和政策。

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ロ:とても興味深いことに…わたしは、カリフォルニア州にある大学に行ったのですが、その後、わたしは、二年間、米軍に従事しなければなりませんでした。1955年のことですが…私は韓国に18ケ月間、配置されたのです。アメリカ兵としてね。マニラ解放の戦争から10年後のことでした。今度は、兵士として、韓国のソウルの北側、38度線にいることになったのです。私は、そこに1年半いました。何回か日本も訪れました。そこで、いつも楽しんでいましたよ。日本は美しい国ですし…人びとはとても素晴らしかったし…軍の講義とはまったく違っていて…見当違いで…美や自然への愛があり…おそらく、アジアの中でもユニークだし…それは「詩」なんかにも表れるようにね…。そんなことが日本ではありました。たくさんの場所に素晴らしい旅行にも行きましたし…素敵な日本人の友人を持つこともできました。でも…それは、兵士とは違った側面で…わたしは、あるリストを知っているのですが…いまは翻訳もされていますが…教育のない兵士によって書かれた漢字は、翻訳するのがとても難しいのです。彼らは、まったく違った育ちをしていて…彼らは、天皇の教えに従うように教育されてきたのです。それは、本当は、政治家による教えだったんですね…。政治家たちが合議していたんですね。いま、振り返ってみると、それは日本の利益に反しています。

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ロ:まあ…それは過去の出来事なのですが…わたしは…同じようなことをもう二度と見ることのないように願いますよ。わたしは、しばしば思うのですが…わたしと弟が…なぜ、解放される人のリストに上がっていたのかなってね。使用人も一緒に…。たぶん…そのリストを作った士官が…わたしたちの年代の子どもたちに哀れみを感じて…解放するリストに載せたんじゃないかなあと…。でも、わかりません…。

【母親、祖母、おじが収容されていたフリーメーソン寺院での日本軍による虐殺事件等】

わたしは、毎年、フリーメーソンの寺院を訪れるのですが…そこには、外に記念のプレートがあるのですが…そこでは、200人ほどの人たちが虐殺されたのです。

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マラテ地区・タフト通り沿いにあるフリーメーソン寺院入口に設置されている記念のプレート。

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ロ:私の父とおじは…解放された1ケ月後に…そのフリーメーソン寺院を訪れました。

【フリーメーソン寺院の外観のカット挿入】

ロ:人びとは、そこで亡くなった人たちは亡くなってからひと月以上が経過しているから…中に入ることはできないというのです。ひと月以上も熱帯の気候のなかで放置された死体…不可能だと…。今日という日まで…私の家族になにが起こったのかわからないのです…。私の母…祖母…そして、おじとおば…。私のおじに関しては…特に興味深い話があります。彼は、「死の行進」にいたんですから。彼は「死の行進」を生き延び…二年間、捕虜収容所でも生き残り…そして、戻ってきた後に拘束され、私の家族とともに殺されたんですからね…。

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ロ:別な時のことですが…ある格言があります。「歴史を忘れてしまえば、それをまた繰り返す」というね。興味深いことに、ここには、「メモラーレ」というものがあり、わたしたちの歴史を思い出すことができます。なので、同じことを繰り返すことはないでしょう。アテネオ大学の図書館に…女性学の図書館ですが…行ったときに、興味深いことに…そこには、個人的な手記があって…それは、ロサ・ヘンソンのものでした。彼女は、ここで、自分の経験を話した最初の「慰安婦」でした。そこには、日本の…ある委員会からの手紙があって…「日本の政府がお金を支払うが、それはわたしたちの支出だけであって、女性たちに1円たりとも渡してはいけない」と…書いてあると…「それは、わたしたちの支出だけだ」と…。わたしはそこで…彼女の手記が日本語に翻訳されたものを見たのです。わたしは、それは出版されるべきだと思いました。これは、彼女の体験なのです。

※マリア・ロサ・L・ヘンソンさんが体験を記した手記は、「ある日本軍『慰安婦』の回想~フィリピンの現代史を生きて」(岩波書店・1995)として日本で出版されている。

「フィリピナス・ヘリテイジ・ライブラリー」にある、わたしの本のコレクションのなかには、重要な「慰安婦」に関する本があります。それは、日本人の教授(学者)によって書かれたものです。それは、オンラインで見れるようにすべきです。なぜなら、政治家は、「慰安婦なんていなかった」って言っているからです。かれは、「慰安婦」の話を書いた学者なのです。韓国は間違っている…かれらのいうことは真実ではないとかいう人もいますが…。でも、日本の学者が書いた本なのです…。

※「フィリピナス・ヘリテイジ・ライブラリー」:マニラ首都圏・マカティに位置するアヤラ博物館内にある図書館。書籍のみならず、さまざまな記録文書やオーディオ・ビジュアル資料も所蔵する。

※「ローデリック・ホール・コレクション」:ローデリック・ホールさんが収集した第二次世界大戦、並びに日本のフィリピン占領時に関する書籍や記録文書。「フィリピナス・ヘリテイジ・ライブラリー」内に併設。

【戦前の記憶】

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Q:日本軍が侵攻して来る前は…アメリカの時代だったと思います。そのときに、あなたは、ここ、フィリピンで生まれましたね。そのあなたが、いまからその時代を振り返ってみると、その時代はどんな時代でしたか?

ロ:戦前ですか?

Q:戦前です。

ロ:わたしは9歳でした…戦争が始まったときはね。その当時のことを思い出すと…私たちの学校は12:30分には終わっていました。私の母が11時にやってきて…車の中は、缶詰の食料でいっぱいでした。父が戦争のことを聞いたので、「食料品店に行って、ありったけの缶詰の食料を買ってくるように」と言ったからです。そして、母は、そのように買いました。なので、わたしたちは、戦中、缶詰を確保することができたのです。わたしの祖母は、二人の日本人の庭師を雇っていました。戦前はね。みんなが、日本軍がマニラに侵攻してくるということには疑問を持っていました。なにも起こらないだろうと…。私たちの中国人の乳母たちは…恐がっていて…すべての中国人たちは恐がって…たぶん、南京のことがあったからね…。虐殺事件です。彼女は、以前は、中国の服を身につけていましたが…フィリピンの女性が身に着けるような服を着るようになりました。中国人だと思われないようにね。

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ロ:日本軍が侵攻してきたから2、3ケ月が経った頃…私の母が戦前に雇っていた二人の庭師が、祖母のもとにやってきました。かれらは、ネクタイをしめて、市民として、日本軍のもとで働いていました。彼らが家にやってきて、甘いキャンディーを子どもたちのために持ってきたのです。私たちは礼儀正しく、「ありがとうございます。ほんとにありがとうございます」って言いましたが…彼らが立ち去った後、わたしたちは、それらを棄ててしまいました。毒が入ってるのではと疑ったからです。だけど、彼らの前では礼儀正しく振舞いました。戦後ですが…誰かが…私たちの家の庭には日本兵が埋められていると言うのです。私の弟が生物学的な調査(biology project)を作って…彼と友人は、生物学的調査の中にいたのです。その生物学的調査のなかで、遺体を掘り起こして…ワイヤーでつなぎ、それを学校の骸骨標本にしたのです。それは、とても…なんと言ったらいいのでしょう…脚にはたくさんの骨があって…彼(遺体の日本兵)は、日本の…身に着けていて(おそらく脚絆)…キャンバスの上部や下部にあるようなゴムを…そのキャンバス地のものは、朽ちていて…すべての骨…つま先の…は、そのゴム地のものの下にあったのです。なので、簡単にそれらを一緒に置くことができたのです。それは、学校の生物学的調査の一貫でした。

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ロ:戦後は、わたしたちは、わたしたちの家に戻りましたが…とても酷い悪臭が漂っていました。解放の日から2ケ月後、マラテにある私たちの家に戻りました。とても酷い臭いで…私と兄弟は、「見てみろよ」って…「みんな、死体だよ」ってね。そして、人を呼んで、それを処理したんですよ…。鼻を向けるだけで、死臭が臭ってくるのです。4、5体の遺体をわたしたちの地区で見つけました。家が燃え落ちたりしたのでしょう。そうして、そこに閉じ込められてしまったのではないでしょうか。どこででも、死体が発見されたのではないかと思うのです…マニラではね…。

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Q:日本軍がやってくる前は、子どもたちにとっては良き時代だったと思うのですが…

ロ:戦前は、すべてが素晴らしい時でしたよ。学校へ行き…ポロクラブに行って…とても幸せな子ども時代でしたよ…。いつも午後には、歩いて大通りまで行っていました。いまはロハス通りと言いますが、かつては、デューイ通りと言っていました。そこへ行って、歩き回っていました。そこで遊んで…私の祖父は、1キロほどをそこを運動のために散歩していました。祖父を見つけると、走って彼のもとに行き…「アイスクリームを買ってよ」って、おねだりしていました。いつも、アイスクリームを買ってくれました。戦中でさえも、わたしたちは大通りへ行き、遊んでいましたよ。最後には…日本軍は、大通りに人が出ることを禁止してしまいました。木を切り倒して、彼らはそこを飛行機の滑走路にしてしまったのです。軍の基地にしてしまったので、人びとがそこを歩くのを禁止したのです。その大通りに面していた家々は追い出されて、軍に接収されてしまいました。わたしたちの隣の家は…大きな二階建ての家でしたが…司令部として接収されてしまいました。戦闘が始まると、彼らはそこから出ていきました。ある夜のことです。私がベッドで寝ているとき…2月の初めだったと思うのですが…ベッドの上でなく、床の上で目を覚ましたのです。大きな爆発が隣の家を完全に破壊してしまったのです。私の目の中は粉塵でいっぱいになっていました。その爆発で、隣の家は完全に破壊されていたのですから…その衝撃が私を床に投げ出してしまったのです。戦争が始まったとき…祖母は野菜を庭で栽培している時でした。100本ほどのバナナの木もありました。ナスを育てていて…サツマイモや玉ねぎ、トマトなど、いろんなものがありました。家庭菜園です。40羽ほどの鶏も飼っていました。鶏が卵を産むために巣へ行った後、ドアを閉めておくと…「コケコッコー」と鳴くと…その鶏の番号を見て、記録するのです。鶏に卵がなければ、それ(鶏)を食べるのです。生き残りたければ、卵を産まなければならないのです。二頭の豚も飼っていました。一頭は殺して…もう一頭の小さいほうを飼育するのです。そんなふうに、みんな、食料に関して同じようなことをやっていましたよ…戦中はね。

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ロ:ひとついえば…わたしは一通の手紙を父のファイルから見つけました。母が収容所にいた父に書いたものです。「あなたは金のブローチを覚えていますか? パレスであなたが私に買ってくれたものです。子どもたちの2キロの粉ミルクを買うために、それを売ってしまいました」と…。パレス(宮殿)で買った金のブローチ…母をそれを売ったのです。だから、わたしたちはミルクを飲むことができたのです。わたしたちはラッキーでした。祖母はフィリピンの銀行の口座を持っていたのです。なので、わたしたちは、彼女からお金を得ることができたのです。父は、イギリスの銀行を使っていましたからね。イギリスの銀行もアメリカの銀行も…閉じられてしまって預金に触ることはできませんでした。それは、戦争のもう一つの一面です。人びとは、そのことを忘れてしまっています。豊かな国の人であったとしても…ここで…仕事もなく、お金もなかったら、困窮してしまうのです。友人や知人が助けてくれることを期待するでしょう…でも、彼らもまた、同じような問題を抱えているのです。

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ロ:あるケースでは…サントトーマスに収容されていた人たちで、外にとてもよい友人がいれば、かれらの子どもたちを6ケ月ほど連れ出し、面倒をみてくれるっていうこともあったのです。しかし、多くの人たちは、外に預けることができるような人たちを持ってはいませんでした。私が戦後、卒業した高校のクラスメートの半分は、戦前のクラスメートと同じでした。彼らはいまもここ(マニラ)で暮らしています。あとの半分は、米軍(関係者)の子どもたちでした。戦後、アメリカ人たちがフィリピンにやってきて…妻や家族もまた一緒に連れてきたのです。学校は、その生徒の半分はマニラ出身の者で、もう半分は、軍隊から来ていたのです。

【1941年、日本との戦争が始まったときのこと等】

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Q:戦争は、(日本軍が)真珠湾を攻撃した後、1941年に始まりましたね。どのように、戦争が始まったということを知りましたか?

ロ:私の場合は…母がわたしたちを早めに学校に連れて行ったのです。9歳でしたから、朝は学校に行ったのです。真珠湾は…9月(12月の間違いだと思う)月7日でした。日曜日でした…真珠湾では。ここでは、月曜日だったのです。(時差があるから)たぶん、午前2時ではなかったでしょうか…。人びとは朝起きて、ニュースを聞いたのです。わたしたちは、いつものように学校に行きました。月曜の朝にね。そのあと、学校は閉鎖されてしまいました。わたしたちは家に戻り…数日後に…祖父母の家に移動しました。祖父母の家には、すべてのベッドルームに、4,5人の人たちがいました。彼女(祖母)には、日本軍に家を接収された友人たちがいたのです。彼らは滞在する場所がないので、わたしたちと一緒にいたのです。なので、数人の人たちがやってきていて、わたしたちと一緒にいました。

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Q:戦争が始まったとき、どう思いましたか?あなたはまだ、子どもだったと思います。あなたは、どう感じていたのでしょうか?

ロ:正直に言えば…わたしたちは、怖いもの知らずのバカだったと思いますよ。生活は通常でしたから。祖父が病気だったので、わたしたちは家では静かにしていなければなりませんでした。さっきも言った通り、彼は日本軍がマニラに侵攻してきたときに亡くなりました。静かに、家のまわりで、庭で遊ばなければなりませんでした。戦前は…日本人は、そんなに多くはフィリピンにはいませんでした。ダバオには、(日本人の)大きな集団がいたとは思いますが…。最近、わたしは、ビジネスで成功した日本人に関する、英語に翻訳された本を読みましたが…彼(著者)は、憲兵隊から主要なフィリピン人をいかに助けようとしたのかということを書いていました…拘束されていたね。「違います。この人はいい人です」と…。彼は友人たちを助けようとしていたのです…解放されるように。もちろん、軍隊は入ってきても、誰がいい人で悪いかなんてわからないのです。彼は、とにかく、友人たちが軍隊から解放されるように働きかけたのです。最初の3年間は…子どもたちにとっては、ほとんど、普段通りだったのです。違った学校であったとしても、学校へ行き、家に帰ってきたら宿題をして…父が家にいないということを除いて、そんなに違いはなかったのです。私がある日、学校から家に帰って来たときのことを思い出します。わたしは、5人ぐらいの他の少年たちと一緒にいました。私が家に帰ってきたときに、父が家で昼食を食べていたのです。彼は「パス」を持っていたのです。彼はサントトーマスから三日間外出できる「パス」を持っていたのです。家に三日間いたと思います。私は、とても驚きました。

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ロ:しかし…おじや…わたしたち、みんなが知ってい人たちは…仕事もありませんでした。彼らは、なんにもすることがありませんでした。働きに出る職場もありませんでした。なので、彼らは家にいるだけでした。私のおじが捕虜収容所から解放されたとき…週に一度、ポーカーをするために人びとを組織していました。彼の…5,6人の友人たちが週に一度、家でポーカーをするためにやってきました。なにもやることがないのです。とても困難な状況でした。そんなことでもしなければ、ある人たちはゲリラに参加していました。でも…そうだったかはわかりませんが…祖母は…とても活発な人でしたから…医薬品をカバナトゥアンに送ることを支援していたと思うのです。私は、アメリカで調査をしている人を知っているのですが…その人が言うには…彼女(祖母)は、多くの人びとの命を救うためにジフテリアの薬を送っていたようです。

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ロ:戦争の末期には…10月か11月頃だと思いますが…1944年の…。私のおばは…彼女の家族はバタンガスにアシエンダ(大土地所有)を持っていました。彼女がわたしたち全員を、そのアシエンダに滞在するよう呼んでくれたのです。しかし、祖母とおじは…彼らの判断は…マニラにいた方がより安全だということでした。なので、わたしたちは行かなかったのです。私のおばとその家族は、全員、戦争を生き延びました。わたしたちは、間違った場所にいたのです。でも、彼らは、マニラの方が安全だと考えたのです。もし、マニラが「オープン・シティー」(開放されていれば)になっていればね…。でも、そうはなりませんでした。

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ロ:わたしはまた、ある時…「サンドハースト王立陸軍士官学校」に招待されたときのことですが…そこで、「マニラ戦」についての議論が行われていて…彼らが言っていたのは…「fibua(フィブア)」…[fighting in built up area=建物のある中での戦闘]…ということです。私は…その議論の結論に対して同意できませんでした。なぜなら…その結論は…部隊が再度、戦闘ができるように、常に出口を残しておかなければいけない、ということでした。岩淵司令官のもとにあった部隊は…ここ(マニラ)に残ることを決断しました。彼らは、どこかに撤退しようと言う考えはありませんでした。ここに留まるという決断だけです。「そこから逃れるために出口を用意しておかなければならない」…ここでは、そんなことは起こり得ませんでしたよ…。

04335
ロ:わたしはまた、不思議に思うことは…米軍がマニラに入ってきたとき…北部のリンガエン湾から上陸して。そこからマニラへ下ってきました。リンガエンからの上陸から一月後…米軍はセブに上陸し、空挺部隊がタガイタイに上陸しました。二日間で、彼らはマニラの郊外にいたのです。わたしは専門家ではありませんが…もし、防衛態勢を整えて…もし、北部と南部に同時に上陸していたならば、どうだっただろうかと思うのです。彼ら(米軍)はマニラに入ってくることができたんではないだろうか、もっと早くにね…。マニラの端まで抵抗はなかったのですから…。1941年の12月に日本軍が入ってきたとき…彼らはリンガエン湾から上陸して…彼らもまた、南部からも上陸してきたのです。彼らは、こんなふうに(挟み撃ちをするように)やってきたのです。米軍もリンガエン湾から上陸して、一月後にまた、(南部に)上陸したのです。そして、一か月後に(マニラの南部に)上陸し、(北へ)上ってきました。どの程度戦術が間違っていたのかということはわかりませんが…他の様々な戦術に変更することもできたのではないか…つまり、マニラのいくらかを守ることができたのでは、と…。なぜなら…サントトーマスを救助した第一騎兵隊は…すべての日本軍は、川を渡って南へと移動したのです…。トンドやビノンドとかのスラム地区…マニラで残った地域は…北部の貧困地区のスラムでした。すべての素晴らしかった場所は破壊されてしまったのです。美しかった、すべての場所です…。「walled city=壁に囲まれた街=城塞都市」、立法府ビルや市役所…そんなものすべてが…美しい公園がいたるところにありましたよ…。大通りは、とても素敵でした。だけど…別の違った戦術がとられていたとしても…どの程度違った結果になったかはわかりません…。

04603
ロ:コノートン(Connaughton)大佐(イギリス軍)の本があります…タイトルは「Macarthur and defeat in the Philippines(マッカーサーとフィリピンでの敗北」です。彼は、ここ(マニラ)での戦前の(アメリカ)軍隊は…兵隊とは考えてなかったと、書いています。彼らは自身を市民だと考えていたというのです。彼らがバタアンに行ったとき、彼らは止まったんです…そこには大きな米の倉庫があって…トラックを米でいっぱいにしたかったというのです。そして、アメリカの軍隊の警察はピストルを取り出して…「これは私有物です。もし、あなたがそこへ行くなら、私は撃つでしょう」とね…。それっていうのは、市民の考え方でしょ…。そこで言った事と言うのが…「戦争が終わった後に支払いをするからと一筆書きます」…「わたしたちは米を必要としています」とね。問題のひとつに…バタアンを防衛する人びと(兵隊)には、食料がなかったのです。「市民の考え方を持っていた」士官だったということ…。誰も戦争が起こるなんて予想してなかったんですよ。中には、予想していた人もいたでしょうが…。でも、みんな、ではなかったのです。

【東条英機が来比したときに、「万歳三唱」をしたときの記憶等】

04729
ロ:戦中で、ある日のことを思い出します。東条が「平和協定」にサインするために来たんです。すべての学校が代表を出席させるように求められたのです。わたしは、とっても「面白い」と思ったのです。わたは、セントポール・コンベント(修道院の学校)の代表に立候補しました。わたしたちは、ルネタ(公園=広場)に行き…学校ごとにわかれて立たされて…そして、そこで同時に「万歳!万歳!」と言わなければなりませんでした。お辞儀をしてね…。東条はそこにいて…「平和協定」にサインして…そこでやったのか…他の場所でだったのかは定かではありませんがね…。家に帰ったときには、もう、昼食の時間はとっくに過ぎていました。家に帰った時に…家族はすごく怒っていて…「そんなところに行くべきじゃなかった。それは正しくないことだよ!」ってね…。でも、わたしは物珍しくて行きたかったんですね。

04833
Q:「万歳!」と言わされたとき、どんな気持ちだったんですか?

ロ:何も感じなかったよ…。「万歳!万歳!万歳!」と3回やったよ…。

Q:初めて日本兵を見たときには、どんな感じでしたか?

ロ:(首を横に振る)なんにも…

Q:恐くなかったですか?

ロ:そうね…最初に日本兵が、1月の3日か4日ごろにやってきたとき…外国人の一般市民を探していました。私たちは後ろのメイドの部屋に連れていかれて…「静かににして、ここで待っていなさい」ってね。父が彼ら(日本兵)と話をしていて…誰がそこにいるのかとかをね。私の父は行かなければいけなくなったんだけど、拘束はされませんでした。わたしたちは隠れていました。それからは…兵士たちが歩いているのを見かけるようになりました。最初のころは、兵士と接する機会はそんなにはありませんでした。

04918
Q:日本兵が人びとにビンタを食らわせるのを見たことはありますか?

ロ:はい。あります。私は、日本兵が日本兵にビンタをくらわせるのを見ました。

Q:そんなことを見たときには、どう思いましたか・

ロ:ここ(心)では、なんにも思わなかったです。わたしには、どうすることもできないことですし…。でも、よく言っていたものです…日本の軍隊では…士官が軍曹をビンタして…軍曹が兵卒をビンタして…兵卒が韓国人をビンタする、てね…。そんなふうに言っていたものです。韓国人が一番下だったのです。いつも、下へ向かってね。士官から軍曹へ、軍曹から伍長へ、伍長から兵卒へ、兵卒から韓国人へとね。そんなふうに、よく言っていたものですよ。それが本当かどうかは定かではありません。でも、適切にお辞儀をしなければ…通りでチェックを受けるときに…チェックポイントで、適切にお辞儀をしなければビンタをされていましたよ。そして、通過させてもらえなくなります。いまは(日本語で)どう言うのかはわかりませんが…わたしは、よく言っていました…「わたしの家はあそこです」と日本語でね…。通過できるように、わたしたちは対処しなければならなかったのです。もちろん、車もなかったから…。日本軍以外にはトラックもなかったのですから。誰もが…他に使えていたものは…カレッサ(馬車)かカロマタ(二輪の馬車)だったのです。馬が引くね…もしくは、歩くしかなかったのです。それだけです。マニラはいまは、渋滞していますが…今とはまったく違ったのです。

【マニラ戦・戦闘の最前線を越えて脱出したときのこと等】

05108
Q:あなたがマラテ地区から北部へパッシグ川を渡って逃れたとき、ある一人のGIが手助けしてくれたと言っていましたが…そのとき、恐くなかったのですか…狙撃手とか砲撃の嵐の中をあなたは場所から場所へと逃れていかなければいけなかった…

ロ:おそらく、恐いと思った人もいたでしょう…私は若かったとき、いつでも興味津々だったのです。当時ね…。わたしは12歳でした。わたしは家族の中で最年長者だったのです。すべての家族のメンバーは連れていかれていましたからね。200人の人たちがわたしたちの家にはいましたが…GIに話をしに行くときに、彼らは私に同行を求めました。なぜなら、私が家の代表だったからです。私が、このGIに話をしに行きました。そして、中に隠れていながら…わたしは彼に意見を求めたのです。すると、彼は「今夜には越えるべきだ。200メートル、300メートルの間を後退しようとすれば、安全ではないから」ってね。そして、大抵の人たちはそこを離れました。少しの人たちが家に残りました。あとから聞いたことですが…日本兵の集団が…わたしたちの家にやってきて、庭に立ち寄ったようです。もし、そこに150人~200人の人びとがいたら、彼らが何をしたかはわからないですね。なにが起こったかはわからないです。みんなを殺すに十分な銃弾はなかったはずです。その数は越えていたのです。でも、彼らは、回りに声をかけて、なにが起こっているのかを確認しようとしていたのです。

05248 
ロ:戦闘で、もっと興味深いことは…市民たちのことです。わたしたちは大人にならなければなりませんした。わたしたちは、ブロックの間を歩いて通り抜けなければなりませんでしたから。すべての家々は破壊されていたのです。二人のGIは…兄弟でした。150人ほどの人びとが長い列を作って…「こっちだ!こっちだ!」って…。彼らが一旦立ち止まって…わたしたちは通りを越えていく前にね…狙撃手がいないことやマシンガンが配置されてないことを確認するためにね。マシンガンがあることを確認すると…GIが道の真中を走りぬけていって…シュッと(伏せの姿勢)…。マシンガンが狙うのですが、当たらないのです。そして、彼は戦車の後ろへと行くのです…。戦車は交差点に停められています。ババっと(射撃音)…マシンガンのところにいる者が頭を持ちあげたりさげたりしないようにね。そして、わたしたちは通りの角から戦車まで歩き渡って、戦車の後ろを歩いて、そして、走って向こう側へ行くのです。そして、わたしたち全員、生き残ったのです。そして、わたしたちはサンアンドレス市場の近くまで行きました。サンアンドレス市場だったかは定かではありませんが、そこで一晩過ごしたのです。そして、次の朝にはすでに…こんな大きさのドラム(缶)があって…その中はスクランブルエッグでいっぱいでした。ホットコーヒーも…そこにいる人びとへ食事を提供してくれたのです。いっぱいの人たちが…数百人はいたと思います。わたしたちの家からだけではなく、他の家々からやってきた人たちです。

05424
ロ:そして…わたしたちは、マニラをぐるっと回って…パッシグ川を渡って…舟橋です…軍隊が架けたね。すべての橋は破壊されていましたからね。トラックがこっちへやってくるのを待たなければならなくて、そのあと、わたしたちは歩いて渡りました。あるときに、わたしたちは車に乗せてもらうことができました。わたしの友人が知っている人がいて…いまもここに(住んで)いる人ですが…彼は首を動かすことができませんでした。なぜなら、彼ら(日本兵)は彼の首を切り落とそうとしたのです。彼らは、彼のここの動脈を切ることができなかったのです。彼の家族全員は斬首されました。彼もそうだったんですが…たぶん、彼らは疲れていたのか…こんな感じ(の傷)で…彼は生き残ったのです。彼はわたしたちと一緒にサントトーマスの病院まで行きました。そして、かれは生き残ったのです。今もマニラで暮らしています。

Q:今も…ですか?

ロ:はい。

05522
ロ:もう一人、別の友人もいますが…ラサールでの虐殺の現場のいた人です。彼は、4歳でした。彼ら(日本兵)は、彼の母を刺し…彼女は亡くなってしまったのです。彼は、母親の横に3,4日間横たわっていて、その後、発見されたのです。彼は、4,5年間話すことさえできませんでした。話せなかったんです。ラサール(高校)で起こったことです。大きな虐殺事件の現場です。ここには、幾つかの虐殺事件の現場があります。時が経つにつれて…わたしは、より…自分の気持ちを分けることができるようになりました。日本の軍隊の体制と…日本の人びとに対するものとです。日本には多くの善意を持った人たちがいます。強制してやらされていたということ…今では受け入れられない政治思想をもってね…。日本でも世界の他の国においても受け入れられないものです。それは、悪の体制です。甚大な数の死…フィリピンだけではなく、すべての東南アジアの国で…ヨーロッパでも、日本においても…韓国でも中国でも…すべての場所で…。

05700
ロ:わたしは、「ブリッジ・フォー・ピース」のメンバーの女性の話に興味を持っています。

彼女は…私が持っている戦争の見方とは違ったものを持っているからです。ヨーロッパでは、戦争(第二次世界大戦)は1939年から1945年までだと考えています。6年間です。アメリカにとっては、真珠湾があった1941年から1945年までです。4年間です。しかし、その女性は…15年戦争というのです。1931年から1946年、もしくは1945年まで…。その女性から聞くまで、そんな話は聞いたことがありませんでした。つまり、満州国から…すべてなんですね。そして、その結果はというと…苦しみがあっただけ…わたしや人びとにとってね…。特に…これは、軍の体制が始めたものだったのです。戦争の勝者は誰もいません…。私が言ったように…いまはできることなのですが…長い間、できなかったことです。わたしはいま、政府と人びととを分けて考えることができるようになりました。

※「ブリッジ・フォー・ピース」とは、日本のNPO法人。「戦争体験者のメッセージ記録とワークショップを通して過去と向き合う」「アジアと日本、若者と戦争を知る世代をつなぎ懸け橋を築いていくこと」をモットーに活動。「メモラーレ・マニラ・1945」主催の「マニラ戦・慰霊式典」には毎回、公式に招待され、スピーチも行っている。

05823
ロ:わたしは、よく言っていたものです…人びと(フィリピンの)は…「わたしは韓国人は嫌い」だと。彼らは最下層にいて…みんな、ビンタされて…韓国人は人びとをビンタしたのです。しかし、1年半後に…韓国で…GIだった私はまた…素敵な人たちと出会ったのです…。日本人とはまったく違いますが…中国人ともまったく違いますが…フィリピン人ともね…。でも、彼らもまた…いい人たちでした。わたしがそこにいたときは…国は破壊されていました。ソウルは破壊されていました。そういうことなのです…。

【マニラ戦終結~マニラ解放後のこと等】

05908
Q:解放された後、あなたは父親のもとに行き…一緒にいることができました。母親やおばやおじとか以外ですよね…。

ロ:祖母も、です。

Q:その人たちは…いまも生存されているのですか?

05938
ロ:私は…戻ってきて…母は生きていると思っていました。母は避難して…ゲリラと一緒に山にいるのだと思っていました。私は思っていました…スコットランドの学校に行かされていた時…1945年5月…私たちは出発して、6月末に到着しました。学校に通い…それから1年半後…私の父は再婚したのです。父はわたしたちに手紙を送ってきました…彼はマニラにいました。再婚をすると手紙を送ってきました。私は泣きました。わたしたち…家族に起ころうとしていることは、母が戻ってきても、そこには新しい妻がいるということです。スコットランドの祖母が…「いいえ…あなたの母は亡くなってしまったの」っていうんです。それは、1946年の7月のことでした。18、もしくは17ケ月…たぶん18ケ月後です。私は、母が死んだということを受け入れなければいけなかったのです。酷い出来事を受け入れたくはありません…特に、なんの証拠もないということであれば…。私はいつも…ただ…母はどこかで生きていると思っていました…。いつか、帰ってくると思っていたのです。でも、父は結婚してしまいました。それは、半分ほど…私に受け入れさせました…母が死んだということを…。

10127
Q:受け入れることは…できましたか?

ロ:はい…。それは、とても困難なことでした。わたしは何日も泣き続けました。私の弟も同じです。今は…私の弟は戦争について何も覚えていません。わたしは、ほとんどのことを思い出すことができます。彼は、記憶を取り除いてしまったのです…戦争のね…彼は1年、わたしより若いだけです。

10155
ロ:私がスコットランドに行った時…厳しい配給の状況でした。祖母と私は…服のクーポンを余分に貰いに行かなければいけませんでした。私たちはフィリピンから服を買わなければいけなかったんです…スコットランドの冬用の服をね。セーターやズボンを買うために配給券が必要だったのです。とても厳しい配給の状況でした。ヨーロッパでの戦争による影響でね…。

10230
Q:あなたの母に関する記事を読みました。証拠が見つかったけど…それは間違っていたとか…。
ロ:はい。「Manila Memories」を書いた、わたしの友人の一人が…彼もまた、彼の話を「Manila Memories」に書いたのですが…彼が、わたしにいくつかの資料を送ってきたのです。この資料には、サンチャゴ要塞に移送された人々のリストが載っていました。私の母…私の家族の名前がそのリストの中にありました。証拠はありません…わからないのです…。先週ですが…私はこの近くのアメリカの軍隊の墓地に行ってきました。行ったことはありますか(刀川に)?

Q:まだ、行ってませんが、行くつもりです。フィリピンのヒーローズ・メモリアルに行きました。

ロ:わかりました。そこは、とても興味深い場所です。すべての兵士たちが埋葬されています。その最後のところに…こんな感じに(手を広げる)アーケードがあって…そこにはたくさんの名前が書いてあります。それらの名前は、遺体が発見されなかった人たちの名前なのです。そして、私がとても驚いたことは…そこには小さな星があるのです…たぶん、100、もしくは150ぐらいのね。その星で…わたしたちは、一人ひとりの人を識別するのです。軍隊の…戦争による墓地は…戦闘場所にあるものです。彼らは(軍は)、埋まっているものを探知するレーダーを持っています。埋まっている遺骨を探し出し…DNA鑑定をするのです。そうやって、南太平洋全域において(遺骨を)識別してきたのです。このすべての人たち…小さな星を探すようにね…。それは、わたしにとっては驚くべきことでした。戦争から70年もの時が経って…骨から人の名前を識別できるようになったのです…。信じがたいことです…。まったく誰だかわからなかった人たちです。どこにあるのか…わからなかったのです。もちろん…船乗りで…その船が沈んでしまったのであれば…見つけようがありません…海底に沈んでしまっています。すべての島々で多くの兵士が戦闘を行っていました…なので…埋まっていると思います。

10510
ロ:地図を見てみてください…。戦争をモザイク状に配置した地図です。最も簡潔にした、絵柄にした歴史…太平洋地域の第二次世界大戦を短くまとめたものです。私は、それは美しいと思います…カラーで…すべてが散りばめられた…。異なる戦争の…それがどこにあって…日本の戦艦が…米軍の戦艦が…ここは艦載機がやってきた場所で…ここが戦艦が沈められた場所…素晴らしい…モザイクです。

10546
ロ:それから…案内してくれるガイドに聞いてみてもいいかもしれません。何人かのガイドがいます。私は以前に連絡をとったことがありますが、あなたがコンタクトできるかどうかはわかりません。あなたがやりたいことを伝えて…どんなツアーを持ちたいかをね。とっても美しいと思います。それは草で守られていて…美しくて…汚れも…紙も…なにもありません。マニラの中の最もきれいで、厳しいところです。あなたは驚き…いい仕事ができるでしょう。最も大きいものです。最も広い場所ではありませんが、もっとも遺体が多くある場所です。

【「メモラーレ・マニラ1945」を設立してときのこと等】

10636
Q:あなたは戦後すぐ、外国に行って、そこで学校に行き、その後、こっちへ戻ってきたということもあったということですね。それで…「メモラーレ・マニラ1945」は、1995年に設立されたのですよね。50年後ですよね…。50年もかかってしまったということ…その間は声を上げる人は…

ロ:初めに…戦争を生き延びた人たちのことを考えてみてください。まず、彼らは…食料、そして家族を捜さなければいけませんでした。そして、家族のための「屋根」=(おそらく、住む場所)を探さなければなりませんでした。それから、仕事を作っていかなければなりませんでした。戦争時の酷い時期のことを考える余裕もなかったのです。私はロンドンで暮らしていました。1991年から92年の間のことですが…私は妹に言ったのです。「1995年は50年目になるので、記念碑を作ろう」ってね。彼女は…「そうしよう」って言いました。しかし、彼女はサンフランシスコに暮らしていましたし、私はロンドンにいましたから…。私たちは、マニラに誰かが必要だったんです。彼女がクラスメートのロチャ元大使を提案しました。彼は完璧な人選だったと思います。彼はここ(マニラ)に暮らしていましたし…彼にはエネルギーがありました。彼は母親を失くしています…アメリカの砲撃でね。彼は記憶にとどめておかなければならないと考えていました。みんな忘れてしまっているのですから。そして、わたしたち三人で設立したのです…「メモラーレ・マニラ1945」をね…。彼は、銅像を作りたいと考えていました。わたしは、書物を作りたいと…。ふたつともやろうということで妥協したのです。私はイギリスにいましたから、3人のイギリス人の著者が「マニラ戦」についての本を書きましたよ。そして、銅像も作りました。それは…「マニラ戦」について書かれた最初の本だったと思います。いまは、73周年目ですが…75周年目には…わたしは先ほど「メモラーレ」での昼食(会食)を終えてきたばかりですが…そのことに話が集中していました。来年は74周年ですが…75周年目は、50周年目から75周年目間で、大きなものになると思います。そのときに何があるかというと…私たちは5年毎に変わっていくべきだと思うのです。そうすれば、もっと…インパクトを与えていくことができるからです。私たちは若者に、ここで何が起こったのかということを教えていきたいのです。私の妹は、サンフランシスコのあるグループに所属していて…彼女はそこを支援しているんですが…「バタアン・レガシー」=(バタアンの遺産)というところです。彼らは、カリフォルニア州の学校の教科書を変えました…バタアンとコレヒドールのことを盛り込むようにね。10年ごとに教科書の見直しをしていて…次の10年はバタアンとコレヒドールのことが含まれることになっているのです。

11000
ロ:あなたは、映画祭(フィリピンでの第二次世界大戦に関する映画祭が撮影当時行われていた)に行きましたか? 一つのセリフ(シーン)があって…そこで語られていたことは…第51師団は…山の上にいた人びと…それはとても力があるシーンで、わたしは強烈に覚えているのですが…そこで語られていたのは…「わたしたちは忘れられてはいません。わたしたちは無視されているのです」と…。それが、いま、起こっているのです。私たちの世代は…忘れてはいませんよ。でも、無視されているのです。若い世代の人たちは…気づいていないのです。なので、課題は…将来のために…何が起こったのかということを記憶に留めることです。私は「ブリッジ・フォー・ピース」を信頼しています。大きな役割を果たしています。日本の政府にももっと認識されるべきです。政府は彼ら(ブリッジ・フォー・ピース)がやっていることを好ましいとは思っていないようですがね。「ブリッジ・フォー・ピース」は最良の方法なのです…これらのすべての国々(被害を与えた国)に出かけていき…ここ(マニラ)で戦中に見られたような日本とは本当に違う国だということを見せていくためにはね…。それは重要な事だ思います。

11125
ロ:誰かが言っていたことなんですが…それが映画の中であったかどうかは定かではありません。「私はそこへ行くと、忘れるなんてできません。そして、トヨタの車で帰宅し、ソニーのテレビを観るのです…そんな、あれこれのものが…日本は、今や、ここ(フィリピン)のどこにでもあるのです」と…。「日本の最高のものがね」…と…。でも…それは…重要なことで…この問題を解決するにはね。なぜなら、いろんな形において…いまや物事は変わってしまったのです…。日本は平均年齢でも、「古い(高齢者が多い)」国になりました。フィリピンは、もっと「若い(若者が多い)」国です。私が生まれた時は、人口は1千600万人でした。今は、1億1千万人です。どうですか…変わってしまったと思うのです。政府は…それは、日本ではとても高い(平均寿命が長い)のですね。この世代のものが死んでしまえば…困難が待ち受けていると思うのです。日本(の政府)は…手を差し伸べなければいけないと思います…そんな人たちから距離をとっていてはダメだと思います。「ブリッジ・フォー・ピース」のような人たちからです。日本の人たちにとっても、他の人たちにとっても利益があることなのです。私は強く、彼らの努力を支持します。とても素敵な人たちです。私は彼らの努力を支持します。

11303
Q:「メモラーレ」の目的は何ですか?

ロ:「メモラーレ」は、ここで起こったことを忘れないためにあるのです。多くの人たちが言います…「私たちは忘れはしません」と…。しかし、私たちは、憎しみによって終わらせていけません。それは、酷い…個人的な憎しみだけなんです。最初のころは、「イエス!」です。しかし、わたしたちは、そこから成長しなければいけません。変わらなければいけません。世界は変わってしまったのですから。そして…日本の軍隊だけが残虐な行為を行ったかと言えば…国連の平和維持軍(の兵士)が女性をレイプしたことは、どうなりますか…。誰もそんなことは知りたくはないのです。こうやって(目を覆う動作)ね…。それも問題の一部なんです。

11404
ロ:今、私はある立場にいて…20年以上もの間、集めているのですが…。たぶん、あと5年もすれば…資料(情報)を集めることができると信じています。私たちは共に頑張って集めなければいけません。そうしないと、資料は紛失してしまうからです。私はここの、幾つかの地方の大学で見たのですが…資料(紙)は腐食していました。いつの日か、もう読めなくなってしまいます。今、集めなければいけないのです。だから、私は希望するのですが…ここだけでなく、人びとが日本の他の本を…日本人の手記などを集めることを手助けしてくれることを…。なぜなら、それらは…体験を知るのに役立つと思いますし、また、本当に気持ち知るのにも役立つと思うのです。平均的な日本兵のね…スタッフ(士官等の上級将校)ではなくてね。それは、違ったものですから。全く違った者の見方だと思いますし。すべて違うと思うのです。

【次世代へのメッセージ等】

11517
Q:あなたのこれまでの人生を通して、日本人に、若い日本人も含めて、なにか言っておきたいことはありますか?

ロ:なにを言ったらいいのかなあ…自己検閲することなしにね…私の妻は昨年亡くなってしまったんですけど…私と妻は…日本を訪れることがとても好きでした。妻は特にね。桜の時期に京都へ行くこと…私たちは日本の西部…南部…行けるところにはどこへでも行きました…北部以外はね…東京より南側だけです。私たちは、ほんとに…日本を…日本の文化を楽しみました。わたしは…あなたの国に悪い感情は持っていません。もちろん、私が東京にいたときは…1955年のことです。西洋の一般の人たちはいませんでした。時々見かける男性は…ビジネスマンでした。観光はありませんでした。当時は面白いことがありましたよ…。日本の人びとが私たちを見るとき…かれらは…私たちを見ないのです。GIがいっぱいいるので…私は1週間やってきて、また韓国に戻るのです。GIがいっぱいいて…GIは日常の一部だったのです。なので、特にGIを気にも留めないで…「見て!GIがいるよ」なんてことはないのです。しかし、ビジネスマンの場合は…日本人がアメリカ人のビジネスマンを見かけると、「ビジネスマンだ!」ってね…私たちは全員…軍服を着るように言われていましたから。当時、私は東京のどこへでも行くことができました…「外国人」として気をとめられないようにしてね。なぜなら…GIはどこにでもいたからです。街中の日常風景だったのです。

11735
ロ:私と妻は、素晴らしい…旅を日本でしてきましたよ。わたしたちには、とても好きなホテルが東京にありました。妻は、窓の外が開けている部屋を希望していました。私たちは、「パレスホテル」に泊まっていました。知ってますか!美しい景観です!…パレス(皇居)に隣接する庭園を眺めることができます。そこに、東京では、私たちは泊まっていました。日本には…幸運にも日本は…以前の日本とはまったく違った国になりました。

Q:日本に対しては、悪い感情は持ってないということですね…

ロ:いまは、ないです。いまの日本人は違います。まったく違います。かれらもまた、犠牲者だったのです。長崎や広島の犠牲者ということではありません。かれらは、政府の犠牲者だったのです。政府が原因だったのです…破壊の原因だったのです。軍隊の行いによるものです。人びとに責任はありません。それが私の気持ちです。

11855
Q:あなたが韓国にいたとき、あなたも戦闘に参加したのですか?
ロ:私が行ったときに、まさに戦争が始まったのです…まさにそのときでした。私はここで(マニラ)十分に戦いました…。戦闘を見ることや前線を越えるというようことを十分に経験しました。私がそこにいたとき…私が行った当初は、私たちはいつもライフルを携帯していました。私がそこから去るとき、私たちはブーツを磨かなければなりませんでした。なぜなら、平和な時だったからです。まったく違っていました…戦時は、いつもライフルを携帯していましたが、ライフルを持たないようになって…清潔にして、ブーツを磨かなければいけなくなったのです。もう戦闘員ではなくなったのです。戦闘時ならば、ブーツが光っていようがいまいが問題ではありません。

11942
Q:ベトナム戦争時は、徴兵されたのですか?

ロ:いいえ…。ベトナム戦争は70年代です。私が退役したとき…かれらは、とても強く私に予備役に行くように求めてきましたが…「いいえ…私は予備役には行きません」と…。「来なさい、来なさい」って…でも、ノーと言いました。もし、予備役に入っていたら、ベトナムに行くことになっていたかっていうと、私にはわかりません。私は、アメリカの「パーマネント・レジデンス」=(永住権)を持っているんです。イギリスのパスポートも持っています。

Q:いまはイギリスのパスポートですか?

ロ:そうです。でも、私はアメリカの永住権を持っている者として、米軍に従事しなければいけなかったのです。わたしにとっては、大きな「学びの場」でした。私は、スタンフォード大学を卒業しました。よく知られた大学ですし…都市部からも農場からもやってきた人びとに、基本的な訓練を行うところに入って…私にとっては、まったく新しい経験でしたよ。その経験が私にアメリカを教えてくれたのです。いい人も悪い人も、どこにでもいます。私は、「プロ」の政治家は好きではありません。一度は、外にでて働いたことがある政治家が好きです。なぜなら、そうすれば、お金を稼ぐことは簡単なことではないということを知っているからです…大物だからということではなくてね…。それは、よくないことです。まあ、こんなところです。これが、私のお話です。

12135
ロ:だから、私はコレクションをやっているんです(戦時に関する資料の収集)。1993年から始めたコレクション(主に書籍の収集)ですが…ひとつ、ひとつ集めていって…広げて、続けてきていて…いまや、完全なコレクションといってもいいほどになってきています…第二次世界大戦中のフィリピンについてのね…。私たちが集めたものは、ユニークなものです。あなたが会った教授が、いま,書誌、著者目録等を作成しています。彼は、いま、ここにあるような本を探すのは不可能だって言っています。私たちには、ユニークな(資料、本)があるのです。最終的には、日本の誰しもがオンラインで読めるようにしたいのです。それらを読むことができて、自分自身の意見を持てるようになるのです。ひとりひとりが自分で直接に読むことができて…考えを政府を通して得るのではなくてね…。それが平和を確保するための最善の方法なんです。それはまた、最善の方法でもあります…人びとが一緒になることのね。日本の兵隊たちは…ここ(フィリピン)で従事したくなかったと思うのです。彼らには、人生があったのです。彼らはここにやってきて…でも、同意したわけでもなかったと思うのです。しかし、教育や任務が彼らにやらせたと思います。心では、ノーと思っていたのでは…。とても困難な状況だったと思うのです。「ブリッジ・フォー・ピース」の映像の中で彼らは語っています…。いかに彼らにとっても困難な事だったに違いない…。こんなふうに感じていると…人前ですぐには話すことは出来ず、何年も経った後に…50年後に…話をしたんですね…ちょうど、ここ(マニラ)と同じように…「メモラーレ」を作るのにも50年かかったようにね。でも、いまは…近づいていると思います…あなたの回りにいる人たちと…神とともに平和を作ることにね。わたしは、なにかを言わなければ…と…。
ロ:わたしのコレクションが多くの人たちの助けになることを希望します…真実を探し出すためのね。以上です。   (終わり)  
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