長屋みたいにワチャワチャ暮らす~大山光子さん(一般社団法人 あだち子ども支援ネット 代表理事)/ 語り / ムービー(日本/東京)

長屋みたいにワチャワチャ暮らす~大山光子さん(一般社団法人 あだち子ども支援ネット 代表理事)

以下、
大:大山光子さん
稲:稲塚由美子(聞き手・話相手)

※数字は映像内でのタイムコード

☆  ☆  ☆  ☆

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大:父親が身体が弱くて、母親はとっても気丈な…。父ももちろん、元気なときは…気丈な人だったけど…でも…母がすごいきつい福島県人で…

稲:福島出身だったの?

【浅草・靴職人だった父母~集団就職でやってくる若者の中で育った】

大:そう。で、家自体に…靴の職人さんだから…職人さんの…それこそ、上野駅で、みんな、集団で…出てくるじゃない…。私たちなんか、小さいとき…だから、毎年毎年、四月になると、上野駅でお兄ちゃん、お姉ちゃんを待って、みたいな…。迎えに行ってあげて、我が家に、みんなを連れてきて…。ほんとに集団就職っていうけど、そんなにも大きな会社でもなくて…みんなで靴の職人の作業を覚えるために、一年に一人か二人…一緒に生活するっていう生活を小さいときからしてて…。その中に、もちろん親族の人たちもいるし…福島から…頼まれた人…中学を卒業して、すぐ出てきてっていう子たちに囲まれて、ほとんど男の子が多かったから…。一番、人数が多かったときには13人ぐらい、ちいっちゃな家に13人ぐらいが、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ…毎日、生活をしてて…その切り盛りをしてるのが、仕事もしながら、切り盛りもしてっていうのが…母だったから…。上に兄がいたんですけど、私は女の子だからっていうので、母が疲れ切っているところの手伝いは、もう全部、動いてっていう…。で、結局、10何人も一緒に生活して、みんな食べ盛りのときだから、いっくらご飯を炊いても…なくなっちゃって…結局、最後に…自分んちの家族…まあ、私が一番最後になるから、自分の米粒がなくて、みたいな…ことが、ほんとにあって…。もう…「女の子だから、自分のことは自分でやりなさい」っていう…ほんとに、生活で…。兄はもう、別待遇…。なにもしなくても、もう…全然、別待遇…。というような、ほんとに幼少期からそんな感じだった…。

稲:だいたい、その感じだと昭和?

大:そうそう。

稲:50年代じゃないね。60年代…

大:もっと前だね。だから、わたしがもう、70を越えたんだから…60何年前…。

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稲:生まれたのが…

大:生まれたのは、だから、浅草の隅田川のほとりのっていう…ほんとに…ところだから…生まれも育ちもそうなんだけど…

稲:48年ぐらい…1948年生まれぐらいかなあ…49年?

大:私が生まれたのは、50年。

稲:1950年生まれで…お兄ちゃんは何歳違い?

大:三つ違い。

稲:じゃあ、1947年生まれぐらい…

大:うん。

稲:二人だけ?

大:そうそう。

稲:じゃあ、女の子はほんとに…

大:そう。もう、ひとつの…家族の中でも、ちょっと…また別…。小さいときは、ほんとに、仕事を覚えにきた人たちが育ててくれたようなもんで…。でも、一度、肺を悪くして…小学校の三年生ぐらいまで、運動は禁止って言われて…

稲:肺を悪くしたっていうのは、どんな?

大:昔で言えば、「肺浸潤」…とか、いう…。そういうあれで…お風呂に入りたいって言って…昔はほんと、タライで…水浴びして、みたいな…。で、まあ、冷えちゃったんじゃない…。それから、身体を壊して…それほど、親は構ってあげられなくて…入りたいっていうものを、入らせてあげたけど…後の始末は、もう、ほっといたからっていうことで。そしたら、熱が出ちゃってっていう事だったと思うよ、たぶん…。もう、全然、覚えもないけど…ただ、浅草の柳澤病院っていう有名な…今もまだ有名な先生がいたところに…わざわざ、母親が年中連れて行ってくれて…高いお金を払ってっていうので、通った覚えだけはある…。でも、結局のところ…小学校の三年生で、運動をすると…体力が続かないはずだからっていわれて、結局…小学校三年生までは、いつも…みんながやることを…。で、はじけて、四年生からはもう、放課後なんか帰りたくなくて…うちに…遊んでいたくて…。それからは、遊んで…遊んで…。

稲:浅草って、工場地帯というわけではなくて…粉塵が…とか、そんなのはなくて…

大:ないない。寺町だからね。

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稲:職人さんとのお家とかいったら、じゃあ…ご飯が大変だったっていう感じ?

大:ご飯が大変って、そのときは思わなかったけど…みんなと、それこそ、いろんなことを遊ぶのが好きで…中学を卒業して…すぐに出てきてくれてる人たちだから…ほんとに、まだおもしろい盛りじゃない…それこそ、箸が転がっても、みんなでワーワーギャーギャー…。そこで、小さい、それこそ…女の子をからかい半分に遊んでくれて、みたいなところだったから。大家族とも思わなかったし…それが当たり前だと思っていたから。でも…そこが、人が好きな原点かもしれないね…。いろんな人たちがいて…全然知らない人たちがボっとそれこそ…四月になると来て…一年か二年、仕事を覚えるまでいてくれて…で、ちゃんとお店持ったりなんだりして…みたいな…動きをしていたから。それまでは、自分と家族のように過ごすわけじゃん。

稲:じゃあ、お店を持たせるっていう感じがあったんだね…お父さん…

大:あー、どうだろうね。親父さんが身体が弱かったのもあるし…あんまり仕事を真面目にやらなかったから…母親が一生懸命に指導して…。だから、母親が頑張ってたんだと思うよ。

【しっかりもので、厳しく「きつかった」福島県出身の母親・身体が弱かった父親】

稲:お父さん、お母さんの生まれ年は何年?

大:うーん…大正…だって…七年と十年だから。親父さんの方が養子で入ってきての…人だから…母親は長女だったし…だから、余計にきつかったし、みたいな…あると思う…。

稲:しっかりなさってたのね、お母さんが…

大:そう。そう思う。戦争をくぐりぬけて…というのもあるだろうし…。家族を養うために、外国にも行ったっていう…その辺のことは詳しくは言ってはくれなかったから…。それこそ、自分を犠牲にしながら、ある程度の動きはしてきて…あっちこっちで空襲にあって…逃げてっていう…。

稲:結婚なさったのは戦後だもんね…

大:そうだね。帰ってきてからだからね。

稲:一人っ子さんだったの、お母さん?

大:違う、違う。女姉妹の…五人姉妹かな…。

稲:全部、女の子?

大:全部、女。

稲:長女?

大:長女…。上にお姉さんがいたんだけども、早くに亡くなってっていう…。そのお姉さんの子どもも、一緒に育てて…家族として育てて、なんていう苦労もあって…。

稲:じゃあ、そのときは、お母さん…疎開じゃないけど…いろいろ働きにも行ったけど、浅草なんていうのは、すごい爆撃っていうか…

大:東京大空襲のね…。

稲:そういう話も、全然…

大:全然、しなかったね。東京大空襲の石碑が建つっていうときに…初めて町内会の婦人部とか、なんだとか…町内会のいろんな役をいろいろやっていたので…。そのときに呼び出されて…私なんかは、まだ全然関心がなかったから…東京大空襲があったのは、もちろんわかるけど…母親がどこで、どう関わっていたとか…でも、石碑が建つって呼ばれているんだから、まあ、大変だねって言ってるぐらいのところで…。たぶん、東京大空襲のときには、新宿かなんかに住んでたと思うんだよね。

稲:そうなの?

大:そう。で、浅草の方にいたときには…どうだったんだろうね…。ほんとにね、戦争の話って…親父さんからは聞いたけど…あんまり、母は話したがらなかった…かな…。それほど、つらいものもあるのかなあって思って…。

稲:そうだよね…なかなかね…。

大:ましてや、海外にまで自分は…行って…家族のためにお金になるからっていうことで、それも動いたっていうことを、ちらっとだけね…。でも、姉妹もそのことを知らないから…福島にいた姉妹も…。姉妹みんな、福島にいて…私の母だけが…東京に出てきて…そんな暮らしをして、東京で自分で夜も寝ないで、自分で稼いで…福島の妹たちにお金を運んでたから…。それもすごく覚えているよ。

稲:そのことを、すごく仰っていたのね、お母さん…

大:うん…母は言わないけど…。夏休みだとかなんかのときになると、私はすぐに、福島に…福島の、あの…妹たちのところに預けられちゃってたから…。そのときに、必ず、お金を束にして持って帰って置いてきてた…。

稲:じゃあ、結婚なさってからも、ずーっと仕送りをして…ことだね…

大:だと思う。そうだと思うね。だから…亡くなったときの、それこそ…葬式のときに…みんなの…来れなかったの…ちょうど、コロナでね…。90を越えて、大往生なんだけど…みんな、ちょうど、コロナのあれで、来れない…あ!、コロナじゃないよ。震災で!。震災で来れなくて…鉄道が動いてないで、来れないで…みんなが…こうしてもらった、ああしてもらったっていうので、初めて…子どもとして聞いた…。

稲:おばさんたちに?

大:そうそう。「行けないんだけど、こういうふにしてもらったんだよ」とかっていう…。

稲:おばさんたちは…お母さんのことは感謝してるっていうことは言ってた感じ?

大:どうだろうね(笑)…その辺はわかんないけどね…。女同士だからさあ…やっぱり、高度成長期のときの競い合いってあるじゃん…生活の、暮らしの競い合い…。私は、それはあったと思うよ…。

稲:そうなんだね…。

大:福島の須賀川の専売公社にきちっと妹たちは務めていて…御主人もちゃんとした人たちでっていうところもあって…豊かな生活をしてるんだけど、私の母にしてみたら…自分の妹たちの幸せのために、私が仕送りというよりか…それなりのものを…「自分は姉なんだ」っていう思いを、ずっと貫いた、みたいな…。それは、すっごい感じたけど…。言葉では言わないけどね。福島へ…年に何回か…それこそ、私を連れて、送って行って…迎えに来てくれてなんて…行き来をするじゃない…。その時に、必ず、ケンカになるわけ…なんか。

稲:ケンカになるの?

大:そうそう。女同士で…。で、ワ~ってみんなで泣いて、みたいな。それが、「ねーちゃんがきついことを言うから」って…。

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大:私の母親は愛情はなかったわけじゃないけど、一緒に生活はしてたけど…私以外の…兄のことは、ものすごい…長男ということで、ものすごい…なんだろう…かわいがるというよりは、もう、なにしろ、長男…。昭和の人間だから、長男…。女姉妹の中で、初めて、自分の子どもが男の子だったから…その期待もあって…すごい重荷を背負わせた…みたいな…感じだったんです。女の子は、ちょっと、自分の片腕になってくれればというところもあり…まわりが…家族形態の…一軒の屋根の下に、男の子がいっぱいいての女の子だったから(自分は)…だから、もしかしたら、その辺も…母親は心配したかもね。ある程度の年齢になってきたら…。小学校の三年までは、なにしろ出かけられなくて、家でくすぶっていたけど…あとのところは、ほんとに、はじけて…運動も好きだから…いろんなところに出かけて行ってなんていうようなこともするようになって…でも、そのころには…福島のところと、行き来しながら…長い休みは福島で…従妹たちも女なんですよ。そんな環境のなかで、おばさんが、時計も買ってくれたし…。高校生になったから…「みっちゃんは、時計買ってもらったかい」っていわれて…「いや、そんなんは買ってもらわない」って言って…そしたら、買ってくれて…。そういう一つ一つのなんか、こう…女の子としてのなにかっていうのは…私の母親のすぐ下のおばさんが…従妹と一緒のように…同い年の従妹がいたので…同じようにしてくれた…。私は、浅草の生活とはまったく違う生活がそこに生活…「お勤め人」さんの生活があったから…。

稲:憧れた?

大:憧れ…うん、憧れただろうね…。

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稲:お母さん…長女さんで、ずーっと結婚してからもお金のことで、ちゃんとってことは…おじいちゃん、おばあちゃんは、じゃあ…御健在だったの? 福島で…須賀川で?

大:えーと…おじいちゃんが石屋さんだったから…

稲:石屋さんだったの…

大:そう。新宿にいたときっていうのは、みんな、福島のきょうだい全員を連れて…家族全員を連れて…日本銀行の…それこそ、金庫を彫ってたっていうから…

稲:あー、そうなんだ…

大:うん。そのために新宿にいたみたいで…

稲:それで、新宿にいたっていうね…

大:そうそう。

稲:結婚前だもんね…

大:うん。

稲:それで、福島に?

大:また戻って…そうそう。

稲:では、靴屋さんになろうって思ったのは…じゃあ、お母さんが始めたっていうこと?

大:いやあ…東北の人間が集団就職で…手仕事を覚えるために、浅草はもう、革職人の町だから…そこで、だから…仕事を覚えたんだと思うよ。

稲:そういうことね。

大:うん。

稲:だけど、すごい稼ぎ頭になったということだよね…

大:だって、夜も寝ないで…うーん…。

稲:いま、お話をお伺いしたら、お父さんが婿養子さんだったわけじゃない…

大:うん…9人きょうだいの一番下だから、どうでもよかったんじゃない(笑)。

稲:昔の婿養子さんはね…

稲:じゃあ、お母さんは…手仕事もすごいお上手だって…結局、お弟子さんもということで、してたんだからね…。

大:まあ、気丈じゃなかったら出来なかったよね、きっとね。ある程度の年齢になって…浅草の町にも親しんできてからは…いろんな地域活動はもちろんしてたし…。そんな覚えも、自分が…私が中学校に行ってるときも…小学校も出てるかどうかわからないような母親なのに、青少年委員だなんていって…朝礼台の上に立って、話をしてて…すごく中学校のときに嫌だったけど(笑)…。

稲:みんなに聞くよね、親がPTAをやってると、子どもが嫌がるって…。

大:でも、それは母親にとっては、すっごく自分でプライドを持てたこと…。私は勉強もしたことないのに…こういうところの場に出ることができるような…人になれた…みたいなことがさ…あったんじゃないのかなあって…。その話をする時が、一番うれしそうだったからね…。そういう生活があるっていうのを…教えてもらったのが…やっぱり母からかなあ…。でも、いろんなお付き合いがあるじゃない…。青少年委員を引き受けました…地域の何々が…やりました…っていういことになると…結局、宴会があり…祝賀会がどうのこうのっていうこととかね…。それに対して、父親が「またか!」っていうさ…。それって、普通の…奥さんの生活とはまた違うもの…。父親だって、すごく…勉強した方じゃなくて…勉強なんかできないような、あれで、大人になった人だから…。母親の言う一言一言が…自分を馬鹿にしてる…という、そういうイメージにとったんじゃないかなあと思って…。

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稲:具体的になにか…ご夫婦のやりとり…お父さん、お母さんのバチバチ…みたいなところ…見たりとかしてたの?

大:しましたね…しました。お弟子さんたちがみんな、なにしろ…いっぱいいた世界のところで…父親はある程度、自分で好き勝手なことをやってるって母親は思ったのかもしれないけど…それはお互い様で…というところもあって…お互い罵りあってっていうところもあって…。で、あまりにきつい母親の言葉に…きっと、腹を立てたんだと思うのよね…父親の方が。で…「もう、こんな家、火をつけてやる!」って言って…革職人の家だから、ラバーソールって、糊をあれしてるので…火事が一番怖いようなものだから…。もう、ほんとに、燐寸でパってやったときに、もう、子どもながらにね…それだけは、すごく印象に残っていて…。

稲:何歳ぐらいのとき?

大:何歳ぐらいのときかなあ…。小学生だったか、中学校に入ったときぐらいだったか…。

稲:覚えているってことは…親のケンカって子どもって…結構覚えてるもの…

大:覚えてるよね。覚えてる…。それをなんとか止めなきゃいけないとか、なんとかって、行動に出るような年齢になるまでは…ただただ、恐怖でしょ…。どうしていいかわからないっていう…。

【「長男」の重荷~逃げたかった兄】

稲:お兄さんと二人、こんな感じ?

大:うーん…兄が、だから…まったく違う世界だったかもしれないね(笑)。

稲:お兄さんとは話さない…

大:いや、話したけど…兄は、ほんとに母親が甘えさせながら…別の…。あの時代に…家庭教師をつけていたり…だから、長男。もう…親族のなかで唯一のっていう(笑)。兄はそこから、逃げよう、逃げようってしてたけどね…。だから、それこそ、親の心、子知らずで…それは、うまくいかないもんなんだなあって思いつつ…。

稲:お母さんは、やっぱり、手伝いもさせない感じだった?

大:いえいえ、全然、だから…まったく! まったく…。

稲:お手伝いは全部、女の子なんだね…

大:そうそう。

稲:お兄さんが、それがいいと思ってたわけじゃないっていうのが、皮肉だね…

大:兄が…ものすごい…50代…60代…みんな、ここで介護しながら…みんな…旅立ったから…。母親がここにいるときに…兄が見にきてて…そのときに、初めて…もう、ほんとに60代入ってから…。兄が、ポツンと…「お前のことが、ほんとに憎くてしょうがなかった」って…。

稲:ほんと…

大:そう。だから、なんでって言ったら…「私だっていろいろ、大変だったよ」って言ったけど…ある程度、自由にさせられていると思ったんじゃない…。兄はそれだけ可愛がられたけど…あまりの愛情の強さに…縛りを…きっと思ったんだろうなあって…。私、フラフラ、フラフラね…別の意味で放っぽり出されていたことってあるんだけど…でも、きっと、兄にしてみたら…自由でよかったなあ、っていうふうに…思ったんだと思う。それ、一回きりだよ。そのことに触れたの…。

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稲:じゃあ、お母さんは、そのときに、家庭教師はつけていたかもしれないけど…可愛がるっていうのは、いまになると…教育が…教育虐待っていう言葉さえうまれるぐらいじゃない…

大:うん…

稲:勉強しなさい、とか…そこしか思い浮かばないから聞いているんだけど…そんなことを言ったりするようなことがあったの?

大:「勉強しなさい」って言っても、やらない兄だったからね(笑)。でも…早稲田の人とか…東大の人とか…家庭教師で来てて…逆に、私は…そのお兄ちゃんたちと話すのが面白くて…。兄貴は遊びに行っちゃって…逃げてたから…。私、得したかもしれないね。

稲:お母さんがお金を出して…

大:うん。

稲:来るじゃない…

大:そう。

稲:お兄さん、逃げるは、やれたんだ…その時代でも…

大:そう。学生さんはそのころ、夕飯を食べがてら…家庭教師をして…お金を頂いて…っていうことだったでしょ…。夕飯を食べて…私なんかは、その夕飯の片づけしなきゃならないから、結構、そばにいるじゃない…。兄貴はいくら経っても帰ってこないじゃんっていう、そういう生活のところで…「なにを勉強してるんだ」、とか、「学校でなにをやってるんだ」、なんていうところの話が、兄貴より私の方がしてたかもしれないっていう…。

稲:家事を一緒にやるっていうことは、かなり、暮らすってことがね…出来るようになるっていうことだもんね。お兄さん、お手伝いも全然しなくてもいいっていうけど…じゃあ、なにかね、暮らしのために、身につけられたかっていうと、すごく…大変だったんだね、かえってね…

大:全然、別…きょうだいでも…きょうだいだと同じように育っていると親は思うけど…そうじゃないじゃない…。それぞれ、みんな、思いも違うし…同じ言葉を親から投げかけられても…違う受け取り方をするし…自分にとって考えると…それは、いらない言葉だったりするのも…そうなんだなあっていう…。

稲:やっぱり…きょうだいだけど、いろんなことの原点って…自分の家族の暮らしのなかにあったっていう感じするね…。

大:そうそう。

稲:まわりから羨ましいと思うようなことばかりじゃなくて…そっち側の、ここから見たらね…それが、つらいっていうこともあるっていうね…。つらいって思ったことが、かえって、あとになってみたら…有難かったと思うこともね…。

【下町・浅草にはいろんな人たちが暮らしていた~そこがわたしの原点】

大:そうそう。ほんとに、それはあると思うんで…。私、下町での生活だったから…ほんとに、いろんな人たちがいて…それこそ、障害を持ってる方だとか…戦争で片腕がなかったりとか…目がね、不自由であったりとかいう人たちもいたし…昭和の時代の下町だから…いろんなことが起きると…夫婦喧嘩しても…それこそ、飛び込んでくるし、みたいな…。なんでもかんでも、全部、もう…見えるようなかたちのところで育った自分がいて…。いまの歳になって…あれって原点で、あれって有難かったんだと…。人生、結構面白いって、感じられるのが…そこが、ほんとに原点なんだろうなあっていうさ…。

稲:ケンカしてても、隣のうちもね、「うちの方が大変なことなんだ」とか言って…飛び込んきたりとかね…

大:そうそう。ものすごい、それはあったから。全然、季節関係なく…正月だろうが、それこそ、盆暮れだろうがっていうさ、ほんとに、漫談に出てくるような…生活があって、みたいな…。子どもながらに、「また、来たよ」、とか…「どこどこの、なになに」、だからね、みたいな。「また、????になって~」みたいな…。でも、また、それがもとに…さやにもどるわけじゃん。あー、そうなんだ…。

稲:お母さんが、青少年委員さんとかやってたじゃない…。やっぱり、ご近所のご夫婦とかの話も飛び込んできたりとかもあったんだ…

大:あった。

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稲:「赤痢」のことがあって…下町で、まだね…下水とかもまだ整ってなかったときだったと思うんだけど…

大:でも、台東区だから…都市ガスも通ってたし…。うちの主人は亀有だから、ほんとに、ドボンの世界でしょ。水洗じゃないから。でも、わたしたちは水洗が早くはいって…。ただ、隅田川が決壊が何回も経験しているので…

稲:水害でね。

大:そうそう。だから、子どもながらに屋根に逃げてとか、やっぱり、火事の恐さ…。革職人の町、寺町なんだけど…生活の糧としている家が、やっぱり革の製造だとか…靴の製造だとか…ほんとに、ラバーソールを使っている…家庭内企業の家が多いということで…ほんとに火事が多かった。ちょっと、火種があると、家中にラバーソールがあるので、ひゃーっと広がるので…その火事はみんなで消しに動くとか…。隅田川の堤防が決壊するなんてときには、もう…台風が来る度に、みんなで準備をして…。それこそ、漫画に出てくるように、ばってんに打ち付けてとかね…。もう、決壊し始めると…ゴーって音がするから「あー、また、ダメだ」っていうことで…家族中で、お弟子さんもみんなで、一階にあるものを二階に…。二階に、もう間に合わないっていったら、タンスの上に畳を載せて、子どもたちは、その上にとか…。でも、それでも…なので、「屋根の上に行け」って…。そういうことも何回もあって…。

稲:いま、屋根も全部流されるっていうのもあったじゃない。そこまではいかなかったの?

大:いかない。

稲:二階までだった…

大:そうそう。それが、下水道がちゃんとしてたからだと思う。まだまだ、都心だったってことかなあ…。下水がまず、ボコボコ、ボコボコ溢れてきたら…「あー、もうダメだね」っていうところ。「1メートルぐらいはくるね」とか…。ある程度の予想もついて…何回も経験してるから。

稲:この辺は地盤は…。関原は…私、途中から引っ越してきた人じゃない。最初、子どもを育てるときに、まだ、下水管がちっちゃいときで、浸水が当たり前だったのね。子どもが、この辺まできちゃうので…とかがあったりして…だけど、下水管の工事を…町会長がものすごい大きいのに変えて…それから、一切なくなったんだけど…。だから、今の歳になってみると、その町会長さんが、みんな、まとめたわけじゃない。だから、すごい人だなってわかるんだけど…。そのときは、ただの…町会長さんのって…ただの、どっかのおじさん、みたいな…。こういうことって、ほんとに…なんだろうなあ…。若い人たちが、最初に頭だけで、「あの人はすごい人ね」って言われても…実感できるのは、ほんとに難しいんだろなあって…しみじみ…。私が恩知らずの人間だからだけどね。だけど、全然、そんなことないね…ずっと、それは、やっぱり、歴史があって…町会長さんだって、ただの威張っている人ではなくって…いろんなことをしてくれる町会長さんもいっぱいいたんだよね…。

大:それが、一番、浅草の…祭りごとがあるところで…町会の中での、もちろん、水害だったり、火事だったりっていうところの…いろんな準備だとか、後始末だとかっていうところも含めて…そういう人たちが地域を、ちゃんと守ってるっていう…ものすごく感じながら育ったから…。

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稲:大山さん、最初からそう思ってた? ちっちゃいときでも、町会長さんとかでも、ちゃんとしてる人だとか…。私なんか、もう罰当たりだから、ただ、威張ってる人かなって思ってたんだけど…。

大:だって、身近じゃないものね。でも、私ら、浅草の人って…お祭りごとのときに、町会長さんたちが割と…山車だとか神輿の前に…挨拶してとかあったから、もう、「あの人が何々ちゃんのお父さんの町会長だよね」「おじいちゃんが町会長だよね」とかっていう、身近にそういうふうに…存在を知っているっていうのがすごく…。いまは、もう、全然でしょ…。知らないよね…。

稲:そうね。でも、いま、すごく分岐点だと思うのは…町会っていうのが、やっぱり、なんかのときに、助け合うわけじゃない…近くで。だけど、その次の代になった人は…もう、サラリーマンになったって人…。その人たちが、すごく大切だ、と思う人と…まったく、あんなぐちゃぐちゃしたところが嫌だ、っていう…絶対に入らないし…もう、継がないし…みたいな人と…ものすごく分かれているし…。まあ、3:1ぐらいだと思うのね。だから、町会は、その先は乏しいっていうか…。

大:さっきの「赤痢」の話じゃないけど…なにかあったときに、永遠と…水害があったときの後始末のときに…もう、暑い日が続いて、続いて…ちょうど、町の交差点のところにゴミが…清掃局が運びきれないで、何日も…一週間も、ずーっと置きっぱなしで…虫が出てきて、どうのこうのって言ったら…どっかで「赤痢」が出たっていう話から…もう、ほんとに早い、あれで…。自分の家にも…なんか…あれだよねって言って、トイレにみんなが入り始めてって…。お弟子さんも何人もいるから…人数が多いから、一個のトイレに大変なわけじゃん(笑)。そんな、あれがあって…。これは大変なことだ、って思って…そしたら、ちゃんと、町会長さんたちが…地域の役員の方たちが…「赤痢」がほんとに出たんだよっていうのを…情報をすごく早くに…流してくれて…

稲:流してくれたの?

大:そうそう。あー、これ、自分たち、赤痢になっちゃったっていう…のもあり…。それをオープンにするような、あれじゃないので…みんな、隠しながら…でも、どうやって対応して、どういうふうに、自分たちの生活を立て直すっていうところまで、もう、隣近所で協力しあって…やっぱり、すごいなあって思って…。

稲:何歳ぐらいのとき? 赤痢って、毎年出るわけじゃないでしょ…

大:結構…中学かなんかのときじゃなかったかなあ…と思うんだけどね。そんなに小さいときじゃなかったなあ。中学か高校…高校じゃないなあ。高校は江北高校だから。江北高校も年中ね、あそこの堤防、決壊して…。私たちのときに…。

【親の介護と家事労働】

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稲:ここに住んでたおばあちゃんって…さっき、「おばあちゃんが」って言ってたけど…そのお母さんのこと? それとも…旦那さんの?

大:そう。主人の母親が住んでて…自分の母親も…兄が結婚した人が介護、もちろん…まあまあ、ある程度はしててくれたけど…それ以後のところは…もう徘徊するようになってきてからは…見切れないっていうとことで…もう、ポンっと、そこの介護施設に連れてきちゃってたので…すぐそばのね…。私の家のすぐそばの介護施設に連れてきちゃって…それから、全然、行き来もしないっていう…生活だったから。私が、だから…ないかっていうと、家に連れてきて…っていう…うーん…。

稲:義理のお母さんと、一緒の時期っていうのはあったの?

大:あった。ここに主人の母がいて…やっぱり、女同士だから、一緒にっていうと…おかしくなるので…二階に、私の母は私と一緒にいて、とか…。

稲:その介護施設にいて、まあ、徘徊があるとしてもね…その時代っていうか…まだ、十何年前?

大:うん。

稲:その施設から連れ帰って、すこし、うちで一緒にみたいなこともあった時期?

大:そうそう。連休だとか、なんだとかっていったときに…やっぱり、帰るところもないんじゃ…っていうので…。

稲:そしたら、お父さんも…そういうことについては…まあ、いろんな人、いらっしゃるじゃない…

大:うん。

稲:大山っていう姓でいえば…大山さんは結婚して、旦那さんの姓でしょ。そしたら、旦那さん、夫さんにしてみれば、自分のお母さんで、大山のうちっていう…まだ、感覚も? ある旦那さん?(笑)

大:あんまり、ないんじゃないかなあ…。

稲:結局、両方をみるっていうことについても…とにかく、言う方もいらっしゃる…

大:ああー…そういう細やかさはないから。

稲:お顔を見たかったなあって思う…(笑)。

大:だから、主人の母が乳がんをやってからは…ほんとに、60代、70代…80代、90までいったけど…まったく、動いてない…母だったから。私が嫁に入ったときには、もう乳がんして、片方ね…とっちゃう時だったから。

稲:お若いときから?

大:そうそう。自分が好きな洗濯をするぐらいが…ぐらいで。

稲:じゃあ、ほんとに、お嫁さんだったのね?

大:そうそう。一応はね。だから、その母親の…とりあえずは面倒はみてくれたっていうだけのことがあるので、うちの主人は…私がなにかをやっても、文句を言わなかった…言えなかったんじゃないかなあ(笑)。そう思う。

稲:感謝してる、みたいな?

大:感謝…

稲:言ったことはない?

大:感謝はしない…してない…。

稲:当然だって思ってるんだね…そんなことはない…

大:自分はだって、好きな車をいじくることで…あれしてるから…もう、それしかやってないから…。

稲:車が何台もあって…ここで修理工場みたいなこととか…そんなことをしてるのかなあって思ったんだけど…それは違うのね…

大:人を使えるっていう…私とは正反対で…そっち、そっち…私と正反対で、人となんかするっていう…仕事以外のことでっていうのが好きじゃない人…。友達もたくさんいるし…友達がお客さんになって、車のこと、ずーっと続いて…しょうがない、仕事にしようと…。好きで、自分でいじくってきたけど…友達の車をみてくれっていうことが、ずっと、あれだから…もう、それを仕事にしようっていって…個人授業主としてやり始めたから…会社を大きくしようとか…なんだとかいうようなことはまったくないし…見栄え良くなんてことも思わないし…。そうそう…。でも、ここで、どうにかしようっていう気もまったくないし…。6台も7台も駐車場を借りてるんだけど…。それは、それでいいの。だから、自分の仕事がまわっていればいい…。

稲:ご飯ね…自分でっていうふうに…。お昼は別々とか、決めてるの?

大:だから、ある程度の年齢になってからね…そう、うーん。だって、朝昼晩って…「飯!」って帰ってくるだけだもん…。

稲:そうなの!

大:そう…。「飯!」って、それも時間が決まってて…自営業者だから、朝遅いでしょ…。9時に朝ご飯とかになって…やっと、子どもらね、学校に送り出した…それじゃ、また今度、主人がっていって…朝が永遠と長いわけじゃん…。で、9時から10時まで、結局、打ち合わせで…ここで電話したりなんかするわけじゃん。そすと、また、12時に、ちゃんと12時に「お昼!」って…。「飯!」っていうわけ!。わたしの時間ってないじゃんって…。それが三食でしょ…。

稲:お母さんがいらしたときは…「飯!」って、ここに入ってくるの?

大:入ってくる。

稲:お母さんもいらして?

大:そう。私が5時に起きようが、6時に起きようが…ばあちゃんは、もうすぐに這い出してくるから。寝ててくれればいいのに…這い出してくる(笑)。

稲:それって、やっぱり、人恋しいのかな…。

大:どうなんだろう…。

稲:私も、自分の母と一緒にっていったときには…気配を感じると、すぐ、声をかけたりとか…あれは、やっぱり、さみしくなってくるのかなあ…。

大:ねえ…。なんだろうね…。自分は動かなきゃ行けないと思うのか…でも、動けないのはわかってるから…。

稲:そうか…時系列でいうと…そうやってずっと…。結婚が抜けちゃったけどね、いまはね…。だけど…おばあちゃんも、ずーっといなしながら…。いるときは、応えなきゃなんないじゃん…無視してるわけにもいかないもんね…。だから、お茶もしながらだよね…。

大:そうそう。

稲:それを思うと…でも、おばあちゃんのことを好きだったのもあったのかもしれない…。わかんないけど…

大:うん…お姑さんは…長者の娘さんだったらしくって…。長野の…昔々ね。ほんとに、おじいちゃんが笑い話で…いつも話してくれたのが…おじいちゃんは私のこと、うーんと可愛がってくれて…。主人のお父さんはね。なにしろ、自分の娘の名前を呼ぶより、私の名前を呼んで…「ちょっと、来い」っていって…あれして、教えてくれた人だったから…。そのくらいだったけど…おばあちゃんのことも、いろんなことを話してくれて…おばあちゃんが、それこそ、手を広げたら…ちゃんと、着物が、こっちとこっちと袖が通って…着せてくれる人がいて…「はい、できたよ」って言われて…「じゃあ、遊んでくる」っていうおばあさんだった…。そういう育ち方をした人なの。だから、ほんとに「ぽたぽた焼き」のおばあちゃんって…おせんべいがあって、なんか、そんな感じで、ずーっと一日、ここで座ってたら座っていられる人(笑)。

稲:そうだったの。おじいちゃんとおばあちゃんは、さっき、松戸だか、どっか…だったわけでしょ…。旦那さんは、ここで、自分の仕事のためにじゃないけど…結婚するときに、ここを作ったの?…それとも…

大:うーうん…

稲:ご自分で?

大:そう、仕事を始めるときに。車検場が近いからっていって。で、人を使うような技量の人ではないので…ひとりで、車検場も近くて…業界の人たちもまわりにいてっていう、便利さを選んで…。

稲:そうなんだ。

【結婚のこと】

04845

稲:でも、やっぱり、どうしても、聞いちゃったりして…。結婚するに至ったっていうかね。だって…その浅草のおうちで、育ってっていうかね…江北高校に入って…その後が…?

大:だから、いろんなところへ…仕事もあれだったし…友達もいろんな所の人たちとも、もちろん…交わって、あれしたけど…若い時、過ごしてきたけど…高校の友達の「お見合いしてみなよ」って…。で、大山の方の…なにしろ、不愛想な人だったから…結婚させたいって、おばあちゃんが思ってたけど…まったくその気がなくてっていうんで…。それこそ、散々、母親に後押しされて…。履歴書を書いて…嫁探しをしてたみたいなの…。その、あれを…高校のときの仲良しだった千住の人が…「こういう人がいるんだけど」…って言って…もう、「恋愛もいいでしょ」って(笑)…”とどめ”をされて…。「いい歳になってきたから…結婚を考えてみなよ」って言って…「じゃあ、会うだけね」って言って…会ったのが…。もう、ほんとに、真面目なだけだっていう…。で、トントン拍子に…っていうのが…父親がもう具合が…私の方の父親が具合が悪くなってきてたし…いろなんこともあって…。私の兄と同い年で、出身校が…高校の出身校が…たまたま一緒だった…。学部は違うけど…。そんな縁もあって…。

稲:大学が一緒だったっていうこと?

大:高校。

稲:お兄さんと?

大:そう。

稲:お兄さんは江北高校ではなかったのね?

大:うん。そんな縁もあって…浅草の方の家族と、私の方の家族と…話がそんなに遠のかない…遠のかなかったみたいな…。それで、三か月ぐらいで…ほんとに…まあまあ、結婚するってしますかねっていう…。私の方もそれまでは仕事、仕事で…いろんなことをやってきたけど…。うーん…仕事もなあっていう…社会のいろんなこともある程度、わかってきたし…。でも、自分でわからないっていう…ひとつは…自分が女性であり…結局は、子どもをまだ、育ててないっていう…。まわりの…自分の友達は子どもがいて…なんていう環境がもちろん、あったから…。じゃあ、私もそこへ飛び込んでみてもっていうこともあり…。まあ、縁なんだろうなあっていう…。

05218

稲:じゃあ、そのときは、共稼ぎとかね…そういう時代じゃなくて…専業主婦になるぞ、っていう…結婚イコール…みたいなところがすごく多かったよね…。

大:私は勤めに出たかったけど…まったく、そんな環境じゃなかったから。おばあちゃんが、なにしろ、ひとりで置いておけないみたいな…。だから、そこは…割り切ることにして…。もう…自分がそういう縁があって…そういう環境になったのだったら…まあ、そこにいついてみたいなことで…。

稲:いまは、みんな…うちの中のこと…介護も含めてね…子育てとか家事とか…全部、アンペイドワークみたいになるけど…でも、実際は、それも大仕事じゃない…。

大:うん。

稲:結局ね…。だけど、大仕事として、性別役割分業と…軽重つけるみたいなところがね、金を稼いでくるのが偉いぞ、みたいな時代はあったわけじゃない。

大:うんうん。

稲:でも、よく考えれば…それは違うよねっていうね…。

大:うん。

稲:お金で換算するもんじゃないとしても…それが、それ以上のものであるっていうこと…。だから、介護保険の時代の、こういうね…「ケア」のってなると…変な話だけど、みんな群がって商売してるわけじゃない…。

大:うん。

稲:それは、ほんとに、片手間では出来ない話だったんだよね…。

【「民生児童委員」もやりながら考えたこと…】

大:そうだね。だから、自分がそういうふうにしてきたので…まあまあ、「包括」さんが動き出して、自分も「民生児童委員」もやりながら…子どものことも、あれしてたけど…高齢者のことも、ある程度、見聞きもしてきて…現実、じゃあ…誰がサポートしてくれる、どうのこうのっていうのも…うちにおじいちゃん、おばあちゃんがいたとき…誰も…ひとりも来たことないから。民生委員さんも…それこそ、「包括」もね。ああ、そんなもんなんだなあっていうのは…。自分が委員になって…地域の副の立場になって…全部のリストなんかも…見ることができて…。これだけ、地域の人たちのリストが全部手に入る…人がいるんだなあっていうのがわかって、あれだけど…そこに、おばあちゃんたちの名前も、おじいちゃんの名前も載ってたんだろうなって…。でも、一度も訪問ってなかったなあって。連絡もなかったなあっていう…。結局、何事もなければ…それって、リストの中の、ただの名前だけで…ことなんだなあっていうのも…すごく、それは…。

稲:結局、その他に家族がいるってなると…社会的な援助というか、支援というか…それはいらないっていうね…

大:そう。

稲:同じね…ことがかかってるのに…やっぱり、それは、ないんだよね…。

大:日本っていう国の考え方…国民の成り立ちの、その…考え方が、きっと、そういうことが、まだ、変化ができなくて…。

稲:ほんとだね。だから、極端な話ね…子育てをしているお母さんが…自治体によっては、子育て手当みたいに、お母さんに出しているところもあるじゃない。すごくちっちゃい自治体だけど、どっかの村だったと思うんだけどね…。そういうことはね、たとえば、日本の国のっていうことでいうと…一番最小限にね…一番効果的なところに、いかにお金をつぎ込んで、他のことは…なしにするっていう考え方じゃない…。すぐ言われるのは、財政が、財政がっていうね…。だけど、ほんとうは、どの人も…大事な仕事っていうことについては…出さなきゃなんないっていう話なんだけどね…。

大:そうよね。そういうのも…思うと…やっぱり、隣近所の…ある程度の暮らしを守ってくれる人たちの意識って大事だろうなあっていうさ…。

稲:いまは、隣近所のお互い様っていう感じで…それが、あるかないかっていうことで、ひとつの生命線ぐらいにまでなっちゃってるもんね…。

大:でも、いまは、逆に…そんな意識持たれてたら迷惑っていうさ…時代になっちゃったじゃない…。「構ってくれない方がいいです…」っていう…「我が家は我が家でやってますから」っていう…。

稲:それと、ほんとに、民生委員さんも反対に…やってらしたから分かると思うけど…「民生委員って名前を出して、来ないでくれ」っていうね…いまだにいらっしゃるからね。民生委員が来るっていうことは…イコール…ものすごい困窮して、自力で生活できない、可哀想な人っていうイメージが世の中にある…。自分はそうやって見られたくないっていうね、ことでね…。

大:なんか、勝気な…動き方を世の中が作ったんだよね…。もっと弱くていいのになあ、って思うけどさ…。

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稲:民生委員さんもいろんな方がいらっしゃるし、結局、無給でしてるじゃない…。だから、ボランタリーなっていうところで終わっちゃってるていうかね…。本来は、もっと国で、ちゃんとお給料をもらっている役人がね…「下僕」というぐらいに思っていて…「公僕」というかね。「公僕」の人がやるべきものを…なんでも、無給で…っていうのかっていうことで、やっぱり、やりすぎると、いう方もいらしたり…いろいろじゃない。そうすると、人数がただでさえ…足立区なんて…ひとりの持っている…私は二区域だから、ものすごいっていうか…。びっくりしますよね。こんな現実は、みんな、守秘義務っていうことで…一切出せないでしょ…。志を持っている人であればあるほど…やってることで、こんなことがっていうことも…外に出せないっていうね。それから、共有が…町会とやっと…やっと、数年でしょ…

大:そう。

稲:共有が始まったの…。

大:うん。

稲:だから、守秘義務っていうか、個人情報をっていうのを思ったり…。民生委員も…もちろん、昔の考え方の人もいるけど、そうじゃない人もいるわけじゃない。いまは、ものすごい、転換点ではあるよね…。

大:うん。変わらなきゃいけないね、もう。もう、そこへ来ちゃったね。

稲:大山さんの話を聞いていて…私は、お母さんたちのこともね…やらなくちゃならないから、すごく、嫌で嫌でやってるんじゃないじゃない。だけど、夫さんとね、最初はそういう時代だったから、「飯!」ってくるだけで、朝昼晩みたいなことがあってみたいなことがあって…。そして、「私の時間は?」って思い出したときも、いまだったら、鬱になっちゃうとか、それから、家出しちゃうとか…。要するに、話し合いができないご夫婦って、もう…それが出来ないうちにDVになったりとか、もう…ケンカしたりとか、離婚だとかの話になったりするけど…。でもね、一度、お昼とかを、こうする、とか…本人がやる方に…。だって、歳とってからだったら、難しいっていう人、いっぱいいるのに…大山さん、よく、そこが出来たなあって、すごく、思うんだけど…

大:いや、だって、私ね、先にいなくなっちゃったら…どうするのって…

稲:言っちゃったの? そしたら、「うん、そうだな」っておっしゃってくれたの?

大:そうそう。だって、それ…いるのが当たり前で…買物行って、「20分で帰ってこいな」って…20分…

稲:そんな時代あったの!

大:そうそう。自分が仕事、ひとりで動いているから…なにしろ、時間をこう…自分は12時に帰って、10分でご飯を食べて…また、他のところに行きたくてっていう生活だったから…。なにしろ、自分が「飯!」って思ったときにいてくれないとダメだったの…。でも、そんなこと、通用しないでしょ。じゃあ、私がいなくなったら、誰が面倒をみてくれるの…「飯!」って言って、誰もね…。「自分で作りなよ」って言って…。そしたら、作り始めたらさ…いまは、息子がタブレットを買ってくれて…ユーチューブ見れるようにしてくれたら…夜中にユーチューブを見て、一生懸命でさ、お料理を覚えて…レンジでチーンすれば…「うまかったよ」って言って、夜中にチーンって!(笑)…。「また、親父、やってるよ」って、また、チーン!って…。また、それを片づけておかないと…怒られると思っているから…ちゃんと、片づけてあって…。あー、ちゃんと、やればできるじゃん!って(笑)。

稲:そこまで、持っていくまでに…ものすごい、みんな、葛藤があるのに…すごい!(笑)。片づけまでっていうのは…みんな、片づけしてもらうために…どれだけ、いままで、それこそ…専業主婦だった人が…旦那さんが夜遅くて…まあ、そっちも大変だった時代だったときにね…なんでもいい…「もう疲れちゃうから」って言って…後片付けまで奥さんがやって、みたいなね…ことから、自分も片づけまで、っていうところまでいくのは、大変な年代の…。まあまあ、年代で言っちゃうと、あれかもしれないけどね。

大:でもね、そういう…私よりもなんか、こう…お姉さんが上にいて…家庭的な方で…。もしかしたら、私よりも本筋は…きちんと、家庭的な人なのかもしれない…主人がね。主人の方が。それで、お勤めさんの家庭に育った人だから…日立製作所の…おじいちゃんが、日立製作所に40…何年って勤めた人だから…ほんとに規則正しく出て行って、帰ってきて…夕飯を食べて、寝るっていう生活でしょ…。その中で育っているから…自営業の浅草の飛びぬけた…いっつも人がガチャガチャしていて、夜中も、もう叩き起こされて…夫婦の仲裁に入ってなんていうような、そういう家じゃないから…。私よりも全然、家庭的だったかも…。それが、自分で…ユーチューブで目覚めた…。

稲:すごいね。やれば、できる人だったんだね。

大:そうそう。やればできる人。そういって…褒めてあげればね(笑)。

10425

稲:やっぱり、小さいときに夫さんも、朝昼晩、ちゃんとっていう…ご飯食べてっていう規則正しい生活が、ちっちゃいときに、そういふうに育ったっていうのは…原点にはあるかもしれないね。

大:私より、たぶん、貧しかったと思うから…。ご飯炊きの火起こしは七輪で、ちゃんと、自分がずーっとやってきたっていうから。

稲:その話っていうかね、夫婦のふたりでそういうことを話せるっていうのが…もとからそうだったの? 結婚したときから?

大:そういう話は、すごーくするよ。

稲:ほんと! なかなか、それもね…。珍しいというか…

大:そうなのかな…。

稲:意外に、みんな…ご夫婦が話ができてない方っていらっしゃるんだけど…。ポーンと「自分でやってみなよ」って、「やってみました」っていうような感じとかで、「これ、結構、面白いじゃん」、みたいに…いくっていうのは…面白い、すごく…。

大:くだらない話は、するんだよ、ちゃんと。

稲:そうなの。

大:肝腎な、ちゃんと話をしなきゃいけないようなことは…しない(笑)。

【新しい「拠点」について~「でっかい家族になりゃいいんだよなあ」】

10550

稲:7月1日から新しい拠点…楽しみ。あそこの拠点もね、よく…。

大:どういうふうに使ったらいいのかを…というのと…いま、不登校のあれも…支援ネットのところで、とりあえず、私が不登校の相談にも、もちろん、この近辺の人たちだとか、足立区で、なんらかのツテがあって…私の連絡先を聞いてなんて人の連絡は受けて…相談にはのってるけど…やっぱり、すごく増えてるような気がして。親の方が、だから…学校に行けなくなっちゃったということに不安があっての…どうしたらいいんだろうっていうのをさ…。

稲:じゃあ、やっている人たちが大山さんにっていう…

大:どこから、どういうふうにするんだか、わかんないけど…連絡が入ることが結構あって…。支援ネットの方から、不登校のことって、あんまり出してないじゃん。不思議だなあって思うんだけど…。でも、そういうことも必要になってくるんだったら…あそこの部屋を逆に、こういうね…自宅とかなんとかじゃなく…相談の受けられる…対面でっていう…ちょっと、のんびりと話のできるっていうスペースとして使ってもいいのかなあ、なんて…。話に行くところもないんだよね。だから、ここならいいよっていう…場所であってくれたらいいなあとは思いながら…。お母さんの気持ちはわかるけど、じゃあ、どうすればいいですかって…。一日だけ休ませて、ゆっくり寝かしてっていうのが、私は大事だと思うのね…。

稲:ほんとよ。

大:預けて…「子どもたち、預けられるところがある?」って…じゃあ、子どもたち、今日は…私たちが、それこそ、どこかで遊ばせてくるから…「何時間か寝てな、ここで」っていう場所がいまの、現代の家庭には必要なんだと思うから…。

稲:ほんとに、そう。

大:でも、それがないんだろうなあって。だから、よく「実家がほしい」って、みんな言うけど…ほんとに、実家が…ほしいんだろうなあ…。

稲:なんで、それを言うかっていうと…安心、安全で…人から管理されない場所っていうね…。だから、自分のうちが…管理色があるっていうね…。それが、核家族になって、特にね。子どもが少子化でね。自分もそうやって育てられてきてしまったからなのかもしれないけど…。ほんとに、子どもをがんじがらめにしちゃうっていうこと…確かに、あるもんね。

大:あるある。虐待だと思わない…で、虐待してたとかね…。

稲:だから、意識してじゃなくてだから…

大:余計、悲しいじゃん。結果がなにか、残ってしまうと…。私…5,6件、あれなのよ…。この辺の緊急連絡先になってんだよ。だから…実家がすぐそばにあるのに…実家の親に頼りたくない…みたいな生活を…したい…。で、やっぱり、もめてるのでっていうので、子どもが学校に行ってて、なにかあったときには、そこに…名前を書くのも…ダメ。連絡先を入れるのも、ダメ…。まあまあ、そういうふうに、本人たちが思い込んでいるっていうこともあると思うんだよ、きっと。でも、それくらい、縁を切っておきたい…実家とっていう人たちが…大山さんちの…緊急連絡先にしておいていいですか…って。これを断わっちゃたら…なんかあるなんてこと、ないから…断わっちゃったら、これ一本…糸が切れちゃうんだろうから…「いいよ」っていうけど…。なんか、悲しい社会だなあって思ってさ…。

11011

稲:これからね、いまって、家族っていうことがね…それでさえあればいいのかっていうことが…もう、問われてるはずなんだよね。それなのに、旧態依然なのが…モデル家族として…冊子を配るっていうね…。お父さん、お母さんと…男の子と女の子…。それがモデル家族って…。それに縛られて、どれだけ…こうでなけれなならないって苦しむ人がいるっていうね…。

大:子どもたちの世界で…なんかは、それは、まったくもう…考えられない世界が…現実に起きてるじゃない…。もう、何人目のお父さんで…っていうさ、きょうだい何人いるんだよっていう…。でも、ここに一緒に住んでないけどね…っていう…そういう世界があるじゃない…。だから、「がきんちょファミリー」は…目指すのはでっかいファミリー…。もう、どこまででっかくてもいいから…自分たち全員がファミリーになれば…もめごとも少なくなるし…理解もできるしっていうとこでしょって…。それは、でも…子どもたちの口から出たことだからね。「でっかい家族になりゃいいんだよなあ」っていうのが…そう出たのが…ものすごい、すごい発想だねって…。

11130

大:地域の子どもたちと、そういう話をしていて…大山さんたちみたいな人たちが…もっと、もっと、いろんなことを言える立場の人たちが言ってくれなかったら…ぼくたちは言えないんだからって、言った一言がほんとに…そうだよね…って。ある程度のことがわかって…わかってるのに、黙ってるって…ずるいよね…っていう話がみんなのなかで…子どもたちと話してるなかで出てきて…。そう…「大人って、ずるいよね」って、分かってるんだもんね…っていうさ。やっぱり、言っていかなきゃだめだよねって…。「そうだよ」っていう話が…。そういうふうにして、「がきんちょファミリー」なんか、ずーっと、そうやって、子どもたちから教わってきたものが、いっぱいたまって…。でも、それを逆に公表すると…「なんてことをしてるんだ」、みたいなことって、いっぱいあって…。

稲:なんで?

【子どもを“ど真ん中”に】

大:私、ずっと…ブログを書いてて…。それは、消しちゃったんだけど…。そこに、子どもたちが語ったことを、随分、載せてきてあげてきたんだけど…こんな!っていう…なにか、圧力がものすごくて…。もう何十年も前…

稲:なにかで、書き込みとかされちゃったの…そうじゃなくて?

大:いや…でも…「がきんちょファミリー」って、いったい何をやってるところなんだっていうのも…ほんとにあって…。そうすると、恐くなるじゃん。子どもたちに迷惑かかったら、困っちゃうというのもあって…。で、ブログ自体の、あれは消して…本として残しながら…。子どもたちは、ちゃんと、自分の言葉で…自分で考えたことを言っててくれたのに…。足立区だけじゃなくて、日本で…それを…ちゃんと言っていいよっていう場所がないもんね、っていうことでの…始まりが…「子ども”ど真中”プロジェクト」…。

稲:そういうことなのか…。

大:で、舞台できちっと言えるっていったら…うーうん、子どもたちがもう…臆病になってきちゃって…「言えない」っていう…。

稲:ほんとうのことを言うと、こういうことって、人権の話じゃない。

大:そうそう。

稲:子どもの人権も、子どもの権利条約なんてあって…あれなんかを見るとね、さっき言った…子どもが主張したこと…それにちゃんと大人は耳を傾けるって、当たり前なことになるわけだけど…。家庭の中でも、そうじゃない。子どもは、親の躾、親のね…上下関係っていうの…。そのことからも、私なんかは、子どもの意見なんか…だから、支配だし管理だよね。自分のうちの子どもについても「なんていいこと、言うんだ」って…。それは、親はね…「親バカ」というのとは別に…

大:それは別だよね。自分の考えを持っていなかったら、逆にいけないじゃん。

稲:そうよね。「生意気だ!」じゃないよね。大人が子どもをね…「大人の社会に首突っ込むもんじゃないし…子どもは子どもでおとなしくしなさい」、みたいなこと…っていうのがね…

大:不登校の子たちと…いま、中学校に通っていて…不登校の子たちとね…話、するじゃん。で、一番、思うのが…この話で…。でも、自分が人権があるとか、権利があるとか…僕にも権利があるでしょ、とかいう話にはならないじゃん…そんなことを習ってきてないんだから。

稲:教えてないもんね。

大:そう。でも、それの表現として、「大人はずるいよなあ」とか…「大人だって、こういうふうにしてるじゃん」とか…。「なんで、大人だけそうなの」っていう言葉に、きちっと、自分の権利はどこに行っちゃったんだよ、っていうものって…子どもたちは、はっきり言えないけど、ちゃんと感じて、そこに反発をするから…。そういうことなんだろうなあって思って…。

稲:日々、ほんとに、私たちなんか、試されてるなあって思うよね。

大:うん。すごーく、すごーく…。

稲:偽善なんて、どんどん、暴かれちゃうし…そういう意味では、「がきんちょファミリー」って、原点を失わない感じで…すごくいいなあって思うんだよね。もうひとつ、子どもの話を聞くっていう意味では…広島で、とか、沖縄でもそうだけど、慰霊祭のときに子どもが作文してっていうの…。あれも、大人が関わっているかもしれないって、批判はあるけど…でも、子どもがその時点で考えたっていうことは、どんどん、意見として言わせるっていうことは当たり前だと思うんだよね。それを、私の知っている劇団の音楽をしている人が、それに曲をつけて…沖縄で、慰霊祭のときに…コンサートをやったりとかね。「がきんちょファミリー」もそうだよね。アートもそうだけど…。すごくいいんだと思って。子どもの絵こそ、芸術じゃんって思ったりする…。

大:ほんと、ほんと。「ど真中プロジェクト」もそうだけど…「未来につなぐ実験室」のところも…そういうことが、どんどん、どんどん…広がっていってくれると…子どもたちが発信・表現しやすくなるし…。言葉が発信しやすくなるし…大人が作ってあげられるのは、その辺なのかなあとか思いつつ…。

11720

大:みんな、あれだよ…中学生の不登校の子たちなんかは…それが、自分の日常でしょうがないと思うけど…みんな、いまの概念からいうと…ヤングケアラーだよ。学校の方では、それが…「虐待だろ、大山さん」って言ってくれるけど…「いやあ、虐待じゃないんだよ…虐待って言ったら、子どもたち、可哀想」って。「親も必死に頑張ってるんだよ」って。でも、疲れちゃったり、いろいろなこともあって…子どもが動いてくれないと…自分も救われない親たちがたくさんいるっていうことだから…。だから、一概に…ネグレクトだとか…虐待通報しなきゃいけない、とか…いろんな弊害が、また、そこで出てくるから…。少し、休ませてあげるっていうことと…本人が頑張ってるね、っていうことを認めてあげられれば…ほんとに、頑張るから…。本人たちね…。

稲:よく、わかる…。児童養護施設の子どもたちに、いくらね…「一つも恥ずかしいことがない」って、誰がなんて言ったって…世の中にさっき言ったような…理想的な家族があって…血縁で結びついた家族で育った子どもは御立派です、みたいな考え方が、まだ…すごく根強いところで…。自分たちはそんなことなくったって…「そんなの関係ないんだよ」って、いくら言ったって…本人が内面化していて…虐待されたっていうのも…自分が虐待されたって言われるのね…そういうふうなレッテルをはられたくないっていう方が…。

大:なにがあっても、自分が頑張ってこれたっていうのをプライドにして生きていくっていう人っているじゃん…。そこを大事にしてあげられなかったら、もう全部、崩れちゃうよね。

稲:そういうふうに、きちんと…細かいことで、この子と、こういうときには、こうだね、みたいな…そういうところが、ちゃんと…わかる人が…なんていうんだろう…最初のね、話す人であってほしいよなって思うよね。杓子定規に「これは虐待にあたります」…なんとかでしょ…みたいな話じゃないよね…。

大:すごく、そう思うね…。

稲:そういうことだよね、っていうのは…なかなか、学校とお話したとしてもね…「大山さん、それは虐待ですよ」って…。そうじゃなくて、そうじゃない心の動きがある場合っていうね…。

大:でも、いま、もう…その学校とは、4年目、5年目だから…「どう思う?」って先に聞いてくれるので、私はカウンセラーでもなんでもないけど…カウンセラーの先生たちには聞かずに、私に先に聞いてくれて…「どう思う? もう少し様子見た方がいい?」とか…通報するのは、学校っていう権限で通報するから…。だから、簡単なことだけど…。で、すぐ動くでしょ…。動いてくれるでしょ…。でも、それをさせちゃったら…一番困ってしまうのは、子どもだから…。

稲:ほんとに、その後、どうなるかってわからなくて…。子どもって、やっちゃうことがあるから…。一時保護所みたいなところに行って、ものすごく後悔することになるって、あるもんね…。

大:ある、ある…。

稲:なんかの、もうひとつの…よく言われている…第三の大人じゃないけどね…。他人みたいなことだけど…そこに、ちょっと逃げ場…。昔は、おじいちゃん、おばあちゃんも、そういう役目もあったよね…。

大:そうそう。一番、そこが…救いどころだったんだろうなあって思う…。逆に地方なんかは…そういう…ある程度の…家族で住んでいるところなんかは…うまく、そのバランスがとれているところもあるんだろうなあ…。

稲:子どもが言った「大きなファミリー」じゃないけど…地域が全部ファミリーで、昔のような…私のいう…田舎のね…私のいるところの田舎の…「がんじがらめ」の家族じゃなくて…誰がやってもいいよね…。誰がその人のことを考えてもいいじゃんっていう…。だけど、やっぱり、考える人がいなきゃあね…この人のところにね…。

大:私ね、たぶん、物に不自由ではないんだと思うんだよ…。自分の不安と…それこそ、安定できない自分…との闘い…みたいなものが…自分をちっちゃくしてるんだろうなあっていう…。

稲:下世話な言い方をしたら、誰も褒めてくれないっていうね。

大:うん。ほんと、ほんと!

稲:すごいね、って言ってくれるだけで、救われるのに…。誰も言ってくれない…。(大山さんの携帯に電話が着信)あ!、6時になっちゃうね。ごめん…。

12215 終了。