アネッテ・ヘス著

森内 薫訳

河出書房新社 2900円+税

ドイツ発、ドイツ人自身によるナチスの戦争犯罪を裁いた「フランクフルト・アウシュビッツ裁判」(1963年12月~65年8月)を描いたサスペンス・ミステリー。女性作家ヘスの長篇第一作である。

アウシュビッツ絶滅収容所で行われた非人間的な実験や大量虐殺について、今となっては知らない人はいないだろう。だが当時は、収容所で命の選別をしたり、殺していた人たちのその後に目を向けた者は少なかった。

1945年のニュルンベルグ裁判でナチスの主要指導者24名が起訴されたが、その後は公職追放された者たちも次々に復帰していた。「古傷に触れるな」として過去の断罪は忘れられようとしていたのだ。そんな時、アウシュビッツ裁判によって、ドイツ人がドイツ人を裁いたことにより、個々人の犯した過ちに目が向けられることになる。それでもなお人々は言う。「何もしていない」「ただ命令に従っただけ」と。

物語の舞台は、1963年のフランクフルト。ポーランド語の通訳をしているエーファは、レストラン「ドイツ亭」を営む両親と姉弟と平穏に暮らしていた。当初彼女は、恋人と結婚できるかどうかしか頭にない、正直だが世間知らずの娘として登場する。

だが、ある日、ポーランド語の通訳としてアウシュビッツ裁判に関わることになって彼女の生き方は大きく変わることになる。

不思議なことに、エーファは難なくポーランド語が話せた。なぜ? そういえば、戦争中の家族写真が1枚もない…。

検事団は現場検証のために、アウシュビッツへ向かう。同行したエーファは忘れていた幼い頃の記憶を辿り、その痕跡を追う。そして次第に明らかになる、エーファの両親のアウシュビッツでの秘密とは…。

作者は、公的な調査結果や実証を調べ上げ、その上に、ドイツが歴史を忘れようとした時代とそこに育った若者の葛藤と苦悩を描く。裁判における証言者たちの証言はオリジナルを採用したり、複数の証言を混合したりして、できるだけ生還者たちの声を届けようとしたという。

また、何気ない日常の小さなエピソードをいくつも積み重ねて、それが誰も気づかない小さな偏見や排除の論理の種になるのだと、終盤読者は気づくことになる。たとえば、未だある外国人差別だ。差別していることに気づかない人々がやがてホロコーストを起こすかもしれないと作者は示唆する。

戦後から20年弱、ドイツ人自身によって審理総括したアウシュビッツ裁判は賛否ある中行われ、ナチスの残虐行為に初めてドイツ国民全体で向き合った。過去の忘却を阻止し、ドイツの歴史認識の転換点となった。だが、何も知らなかったと贖罪から逃げる身内との凄まじい葛藤を引き受けて、過去の過ちを直視し、克服することを選んだドイツという国の営みに圧倒される。

さらに、アウシュビッツで起きていたことは「何度でも語り直すのだ」という作者の強い意志に触れ、圧巻である。

稲塚由美子(ミステリー評論家)

「ふぇみん」
2021年7月25日初出