玖月晞(ジウ ユエ シー)著

泉京鹿 訳

1,265円(税込) 新潮文庫

中国発、米中関係を忖度しての軍事化拡大にいそしむ愚かな日本の大人たちをあざ笑うかのように、人間の愛おしさを描いた傑作()(ぶん)ミステリー。

社会の理不尽に苦しめられる思春期の少年少女の切ない恋愛と、人生を賭けた偽装工作を描いた秀逸な心理ドラマでもある本書は、日本では、新潮文庫「海外発掘」シリーズとして翻訳出版された。もともと中国では、最初はオンライン小説として発表された。大ヒットして映画化され、第93回アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされたという。

物語の主人公は、吃音(きつおん)症を抱える16歳の女子高生(チェン)(ニェン)。勉強はできるが学校のヒエラルキーでは最下層だ。

学年全体が、中国の熾烈(しれつ)な全国統一大学入試「高考(ガオカオ)」を間近に控えて張りつめる中、陳念の同級生が教室から飛び降りて死んだ。

自殺の理由を知っていても、誰も言わない。警察官(ジェン)(イー)から事情を聞かれた陳念も「知らない」と答える。しかし、イジメグループのリーダー魏萊(ウェイライ)にトイレで「黙っていろ」と殴られ脅され、それからイジメのターゲットは陳念になった。陳念は、どんなことも我慢して、この町から抜け出すために大学に合格しようと努力する。先生に言っても状況は好転せず、かえって悪くなる。シングルの母親は娘を大学にやるために出稼ぎで必死に働いている。心配をかけられない。

一方、同じ日の下校時、陳念は、不良とみなされている少年北野(ペイイエ)が不良仲間にボコボコにされているのを目撃する。思わず携帯で警察に通報しようとして見つかり、無理やり北野とキスさせられてしまう。北野は、父親がレイプ犯として捕まり、その息子として不良仲間からも(さげす)まれ、狂犬のような少年ともみなされていた。

二人はこうして出会った。北野は陳念のことを「小結巴(どもり)」と呼ぶが、北野に悪意はないことを陳念は知っている。そんな二人がバイクに二人乗りして「嫌いな町」を駆け抜ける。陳念は学校以外の現実を知り、世界に彩りが戻る。

北野は、執拗(しつよう)なイジメから陳念を守ろうと、登下校を見守り続けるが、一瞬の(すき)をついて陳念が魏萊のグループに連れ去られ、壮絶なイジメに()ってしまう。陳念はそれでも、北野にさえも何も語らない。

さらに、イジメの傍観者がその動画を拡散し始める。陳念は、一人で魏萊に会いに行くが、その後魏萊は行方不明になり、(つい)には死体で発見される。

警察は、北野を追求するが…。

複雑に絡み合った謎が容易に明かされないまま終盤に突入してめちゃくちゃ面白い。さらに、警察の追及にも動じずに、己が信念を貫き通す少年と少女の姿に痛々しくも心打たれる。大人たちのモラルが消失した社会で、その不条理に翻弄される子どもたちにどうやって生きろというのだ。閉塞(へいそく)した社会の犠牲になるのはいつも子どもたちだ。格差や学歴競争のひずみがここに凝縮され、今の中国の風景や空気感も生き生きと立ち上がる。

*  *  *  *  *  *

昨年8月、華文ミステリーが隆盛で、何冊か紹介記事を書いた縁もあり、中国に飛んだ。

前評判では、ジャーナリストや作家は、理由も告げられずビザが出ないか長く待たされるとのことだったが、無事にビザも取得できた。だが、旅行社から、昨今の政治的日中関係から、行っても何が起こるか分からない状況だと釘を刺された。

中国では、ミステリーはほとんどネット公開で、読者としては摘発されないか冷や冷やだが、書き方がうまい。松本清張ばりの社会派ミステリーなのだ。

通訳してくれた(ミョ)()さんには小4の娘さんがいて、学校の送り迎えは必須。熾烈な大学受験に向けて今から備えていると聞いた。北京の街を歩いていたら、学校の門前に人だかりがしていて、訊いたら全部子どものお迎えだという。

一度だけ、タクシー乗車中の信号待ちでの公安警察の身分証確認があった。大都市には、監視カメラシステム「天網(てんもう)」が張りめぐらされているが、天安門広場での監視カメラの多さは以前と変わらない。

今回、どこでも中国人ばかりで、観光客の90%は中国国内からとのこと。逆に日本へのインバウンドは、中国からと韓国からの観光客が1位2位を占めている。

稲塚由美子(ミステリー評論家)

「we」2025年05・06月・256号・初出