『彼は彼女の顔が見えない』(イギリス・フィリピン・日本)

アリス・フィーニー 著

越智睦 訳

創元推理文庫  1,298円(税込)

ミステリーには、「信頼できない語り手」という手法がある。語り手として誰かが、事件の顛末(てんまつ)を語っていくわけだが、途中から読み手の頭の中に「?」が浮かんでくる。ん?これは誰が、どの立場で語っているのか、と。

アリス・フィーニーのデビュー作『ときどき私は嘘をつく』(講談社文庫、2020)では、自分は噓つきだ、という主人公の独白から始まり、前作『彼と彼女の衝撃の瞬間』(創元推理文庫、2021)でも、イギリスの小さな町で起きた殺人事件で記者と刑事二人の語りは微妙に食い違う。終始、「視点は二つ、真実は一つ。あなたはどちらを信じるのか?」を問いかけられているように感じる。作者アリス・フィーニーは、元イギリスBBCの記者で、前二作はTVドラマ化もされた。最新作の本書は、夫婦間の心理劇が圧巻のサスペンス・ミステリーである。

夫婦仲に不協和音が流れる40代のカップル、アダムとアメリア。アダムは脚本家であり、まずまずの実績をあげていた。相貌失認(失顔症)で人の顔を見分けることができない彼は、妻が一緒でないと社交の場に出られない。アダムには、子どもの頃、母親がひき逃げされる現場にいたにもかかわらず、運転していた犯人の顔を識別できなかった過去がある。それでも脚本家になる夢を実現し、著名な作家ヘンリー・ウォーターの小説を脚色したことで有名になっていた。

夫婦で助け合っているという気持ちは、徐々に、互いの評価への不満に変わっていった。二人は結婚カウンセラーの助言を受け、たまたまアメリアがくじで当てた旅行券を使って旅に出る。旅行先は、スコットランドのハイランド地方、ブラックウォーター。だが、8時間の運転中、猛吹雪に襲われ、道に迷い、鹿をはねそうになり、二人とも疲労困憊(こんぱい)、不機嫌きわまりなかった。辿(たど)り着いたのは山奥の古いチャペル。泊まれるように改装され(まき)や食料は用意されていたが、無人でどこか不気味だった。そしてその晩、アメリアは窓越しに見覚えのない白い顔と目を合わせてしまう。近くの住人ロビンが様子をうかがっていたのだ。ロビンは何者? チャペルの周囲を歩き回る彼女の気配に(おび)えながら、二人は不安な夜を過ごす。さらに翌朝、ロンドンから連れてきた愛犬が、姿を消す…。

物語は、アダムとアメリアの一人称の語りが交互に展開し、そこに結婚記念日ごとの「妻」の手記が挿入されて進む。手記は、未来の夫と、なぜか子どもに宛てたもので、夫婦の愛が次第に冷めていく過程が(つづ)られていた。さらに、アダムとアメリアを観察するロビンの視点が加わり、最後には、「こうくるか!」と驚愕(きょうがく)のどんでん返しが待っている。

作者フィーニーの作品には、生き辛さを抱えた女性たちの苦しむ姿がいつも描かれている。今回も、病を持つ夫を支える妻という「あるべき姿」を社会から押し付けられ、さらに夫や自分の中にも浸透している規範意識に苦しむ当事者の心象風景が切ない。

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2021年4月、JFC(日比国際児)杉本太陽くんが、フィリピンから来日し、20歳になる前日に法務局で日本国籍を取得できた。コロナ禍で来日が制限される中、JFCネットワークの河野尚子さん(198号に記述)が苦労して来日させて間に合った。事前打ち合わせで「太陽はシャイだから心配で…息子みたいなの」と話した尚子さんは、その直後にコロナに罹患(りかん)しマニラで亡くなってしまう。ご冥福をお祈りいたします。

所在不明の日本人父が亡くなり、を相続した太陽くんは、急遽(きゅうきょ)来日を決めた。身元引受人の私が運営するシェルター「隣る人シズハウス」に一時滞在し、コロナ禍でも日本語入門コースを開講するという福井県の寮付き日本語学校に入学。学校の方々も、よく心にかけてくださったが、リモート授業も多く、学校に行けなくなり、半年後フィリピンに帰ってしまった。

「マタ日本ニ帰ッテキマス」と言った彼は、2022年9月に再来日して熊本で就職。「布団の安く買える所を教えて」と東京の私に電話をかけてきた。床で寝ているという。10月8日、太陽くんに会いに行った。熊本で外国人支援をしている友人たちが布団を手配し、そこに何でも相談してと言っても、「食べる物に困っても給料日まで我慢する」と言う…そこまでに何があったのかと想像すると、心がふるえる。

稲塚由美子(ミステリー評論家)

「we」2022年12/01月・241号・初出