ディーリア・オーエンズ著

友廣純訳

早川書房 1900円+税

本書は、アメリカの野生動物学者で湿地の保護活動を続けているディーリア・オーエンズが69歳で書いた、文学ミステリーデビュー作。アメリカ南部の「大西洋の墓場」と呼ばれた湿地帯の活写が、リアルでみずみずしい。2019年全米ベストセラー第一位。

冒頭、1969年、ノースカロライナ州の湿地でチェイスという若者の死体が発見される。現場は草むらと海に囲まれた小さな村のはずれ。海と陸を隔てる無数の砂州のうちのひとつに置き去りにされた死体のそばには、まったく足跡がなかった。アメフトのスター選手だった彼を殺そうとする人間が、この小さな村にいるのか。どうやって彼を殺したのか。保安官は、村人から「湿地の少女」と呼ばれるカイアに疑惑の目を向け、執拗に追求していく。

1946年、カイアはいわゆる「貧困白人(ホワイト・トラッシュ)」と蔑(さげす)まれる家庭に生まれた。カイアが6歳のある日、夫の暴力に耐えかねた母がいなくなる。以後、姉2人、兄2人が去り、カイヤが10歳の時、ついに父までが消える。それからはたったひとりで未開の湿地に生きてきた。人間社会は冷酷で、偏見や好奇の目にさらされて学校にも通えず、語りかける相手はカモメしかいなかった。文字も読めないままに孤児となった彼女は、父が残した掘っ立て小屋に住み、残されたボートの操船法を覚え、沼地に茂る原生の自然に分け入って、生きる術を学びとっていく。

そんな彼女の境遇に胸を痛めて、手を差しのべたのは、村はずれで舟の燃料店を細々と営む黒人夫婦のジャンピンとメイベル。彼らは黒人として差別されながら、いつもカイアの味方だった。さらに村の物静かな少年テイト。彼はカイアに読み書きを教え、それが彼女の世界を大きく広げていく。「わあ、言葉がこんなにたくさんのことを表せるなんて!」と歓声をあげるカイア。テイトも湿地帯に生息する植物と動物に深く興味をもち、二人は教え合い、互いに魅かれ合う。

だがテイトは大学へ進学し、帰ると約束したのに戻ってこなかった。圧倒的な孤独の中、カイアは唯一近づいてきたチェイスに救いを見出すが、その先にはさらなる悲劇が。

チェイス殺しの犯人はカイア? 中盤からは事件追及がメインとなり、緊迫の法廷劇が展開していく。決定的な証拠がない中、アメリカ南部の人々からなる陪審員に向かって、弁護士は、「根も葉もない偏見・差別を捨てよ」と語りかける。そしてラスト、思いもよらない衝撃の結末が待っていた…。

本書は、階級や人種、とりわけ白人貧困層の問題に切り込み、格差が広がるアメリカ社会の病理も描き込む。湿地が無残に破壊されるシーンも何度か登場する、差別や環境問題をテーマにした社会派小説でもある。

さらにカイアの孤独と、裏切られても人との交流を求めずにはいられない切なさが伝わってくる、女性の成長小説でもあった。『ザリガニの鳴くところ』とは、「茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きている場所」だという。タイトルのままに、カイアは茂みの奥深くまで分け入り、湿地の生物たちの事典を出版して、湿地の価値を世に知らしめる。痛快だ。

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新型コロナウイルスの脅威にさらされた今、祈りにも似た気持ちで本書を深読みしてしまう。文中に、子捨てをするキツネや傷を負った仲間に一斉に襲いかかる七面鳥、偽りの愛のメッセージを送るホタル、交尾相手をむさぼり食うカマキリが出てくる。自然の摂理では「善と悪は同じ」。人間から見ると残酷でも、生き物からみれば野生の本能であり、自然界の「生存」競争の中では、人間の基準などまったく意味がない。

動物学の中でも霊長類学者としてゴリラ研究で知られている山際寿一(やまぎわ・じゅいち)氏は言う。「近年のウイルス性の感染症は、自然破壊によって野生生物との接触を加速したことが原因である」と。森を過度に伐採し、開発という名目で野生の生物たちを追い出す。里に出ざるを得ない野生生物たちを宿主にして、未知のウイルスが流布していくというわけだ。そしてウイルスも生き延びるために変異を繰り返す。

本書で言えば、まずは森と海を隔てる湿地帯を保存することこそが、遠回りに見えても、人間が生き延びる最善の手なのだ。

稲塚由美子(ミステリー評論家)

「we」2020年226号・初出