トレイシー・リエン 著
吉井智津 訳
2800円 + 税 早川書房
オーストラリア発、ベトナム移民に向けられる白人からの差別の根深さゆえに、「差別がないふり」をして生きるしかないベトナム移民社会の人々を活写するミステリーが出た。
作者はベトナム移民2世の女性作家で、「1990年代のオーストラリアでアジア人として育つのはどういう感じがするか」をテーマに物語を紡ぐ。本作がデビュー作で、ロサンゼルス・タイムズ文学賞の最終候補作となった。
舞台は、96年のシドニー郊外の街カブラマッタ。オーストラリア最大のベトナム人街がある地域だ。主人公のキー・チャンは、そんな移民の街を飛び出して大学を卒業し、メルボルンの新聞社に就職したジャーナリスト1年生。
ある日、17歳の弟デニーが、レストランで何者かに殴り殺されたという知らせを受け、キーは急いでカブラマッタに帰る。
だが、警察も両親も、弟がなぜ、どういう状況で殺されたのか、まったく分からないという。現場には複数の人間がいたにもかかわらず、誰もが「何も見ていない」と証言したというのだ。おかしい。デニーの同級生も教師も複数いたのに、一人として見ていないとは…不審に思ったキーは、目撃証言を求め、そこにいたとされる人間を一人一人訪ねていくのだった。
ところが、そこで明かされるのは、誰よりも真面目な優等生だったはずのデニーが不正行為をしていたとか、違法薬物に手を染めていたとかばかり。弟は変わってしまったのか。
必死で調べ回るキーが直面するのは、移民社会で暮らす人々が抱える障害、軋轢、人々の深い孤独という各々の事情だ。特に、ベトナム戦争で共産主義者に物を盗られて難民になった経歴。それでも人々は、何事もなかったかのように生きている。そんな矛盾をはらんだ街は、今や薬物絡みの問題を抱え、アジア系ギャングによる暴力事件が絶えず起こる街でもあった。
移民の子どもは親から一番になることを求められた。
キー自身も、「模範的マイノリティー」(白人にとって望ましい態度の少数者)でいようとしてきた。白人の子どもと同じ学校で、仲間になりたくてすり寄った。鬼ごっこでも、鬼にさせられる時しか遊んでもらえないのに、自分はいじめられていないと思おうとした。反対に、同じベトナム移民の親友ミニーの母は「白人は泥棒。キャプテン・クックもコロンブスもフランス人も」と正直に言ってはばからず、ベトナム移民社会のつまはじき者だった。「問題がある」と口にすれば、周りの目が沈黙を強いた。多文化主義、平等の国で居場所を確保するためにそうするしかなかったのだ。
本書は、思春期の頃の友だち関係、親世代との価値観の違い、親しい間柄でも生じる嫉妬心、執着、気持ちのずれなど微細な心理が、息詰まるほどの切迫感で描かれて印象深い。
ラスト、一人一人沈黙してきた事実が顕わになり、デニーが殴り殺されなければならなかった理由が明らかになる。実に切ない。
稲塚由美子(ミステリー評論家)
「ふぇみん」・2024年9月25日号・初出