ベン・クリード著
村山美雪訳
角川文庫 1000円 + 税
密告と粛清が横行し、誰も信じられないスターリン独裁期のソ連を舞台にした警察小説歴史ミステリー。人肉食まであったという悲惨なレニングラード包囲戦(現在のサンクトペテルブルク1941年9月~1944年1月/872日間)を背景に起こる8年後の事件が発端の、心震える物語だ。
作者名ベン・クリードとは、コピーライター出身のリッカビーと、音楽家を目指し、2年間サンクトペテルブルクに留学していたトンプソンとの合作名で、本書は彼らのデビュー作である。
1951年10月、スターリンの恐怖政治下にあるレニングラード郊外で、猟奇的な殺人事件が発生する。線路上に整然と並ぶ5つの死体は、顔の皮膚を剝ぎ取られ、歯を抜かれ、奇妙な衣装を着せられていた。しかも厳しい寒さのため、死体が凍り付いている。
通報を受け、レニングラード人民警察第17署警部補ロッセルらが50㌔離れた現場にようやく駆けつけた。現場検証を進めるうち、ロッセルたちは震え上がる。ある1体は、スターリンの大粛清の走狗、「政治警察」というべき国家保安省(MGB)の制服を着ていたのだ。犠牲者の中にMGBがいるとしたら、捜査に圧力がかかる。ロッセルたちは、必死に身元調査を始めた。が、ロッセルは、犠牲者たちのあり得ない共通点に気づく。3人目まで、ヴァイオリニストだったロッセルの昔の音楽仲間だったのだ。残りの二人の身元は?そして、誰が何のためにこんなことを?
MGBは「大鎌で麦畑を刈るが如く」粛清し、一人の人民警官が狙われたら、その署全員収容所行きが実態だった。だから今回、地元の警察には誰もいず、遠方からロッセルらが駆けつけたというわけだ。組合、工場、裁判所、地下犯罪組織まで、「人民の忠誠」という名の密告を競い合う。ついには妻や恋人、友人の罪を仕立ててまで密告しなければならなかった。
人民の、ロシア革命への期待は大きかっただろう。だが、その後の政府は人民の側に決して立たなかった。
さらに、ロッセルには、密告されてMGBで尋問・拷問され、指を切り落とされていた過去があった。命が助かったのは、包囲戦で、ドイツの猛攻にバタバタと死んでいくソ連兵の、誰であれ代わりの兵士が必要だったから。
作中、通奏低音として常に音楽がある。包囲戦の中でショスタコーヴィチが「レニングラード交響曲第7番」を作曲し、それが社会的背景でも事件そのものでも大きな意味をもつことになる。もうヴァイオリンは弾けないけれど、音楽から離れられないロッセルは、だからこそ微細なヒントに気づき、誰も信じられない密告社会の中で、しかも濃密な死の空気に包まれながら、恐ろしい真実に迫っていく…圧巻だ。
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2016年にサンクトペテルブルクを訪ねた。レニングラード包囲戦の戦跡を案内してくれたのは、1997年から2年間日本に留学した、少数民族オセチア人の友人セルゲイ(50歳)だ。
道々、彼は、「ソ連解体後、ロシアでは市場経済化が進められ、急激な移行でロシア経済は混乱した。貧富の差が激しくなり、ロシアは世界一格差がある国だ」と語った。「ロシア連邦」という国名になって、もともとロシア人(スラブ人)が人口の8割以上を占めるこの国では、193ある他の民族が差別されることに繋がっていると。
飢餓にあえいだレニングラード包囲戦は、ナチスドイツに打ち勝った「市民たちの力」面が政治的に強調されてきたが、2004年にようやく、当時、飢餓のあまり「人肉食が横行した」との記録と、さらに政治警察は、動揺したり統制に従わない者を「人民の敵」として狩ったという事実も公開された。政府の歪んだ信念が市民を抑圧し、惨殺してきたのは、日本人の私たちが未来を考えるときに目を背けてはならない歴史だろう。
それでもなお懲りないプーチン大統領は、包囲戦で戦った父のためか、大統領の肝いりで、解囲75周年を記念して、2018年、3D(パノラマ)の、その名も「突破」という博物館を設立したという。未だ、兵士たちの遺骨があまた地中に眠っているというのに。ドーピング問題で、国単位でのオリパラリンピック不参加も、プーチン流「強(ければいい)ロシア」主義の故か。
稲塚由美子(ミステリー評論家)