ピエール・ルメートル 著

橘明美・荷見明子 訳

3000円 + 税 文藝春秋

フランス発、もし、凄腕(すごうで)の女殺し屋が、認知症を患ったら…そんなテーマのサスペンス・ミステリーが出た。しかも、『その女アレックス』で世間の度肝を抜いた作家、ピエール・ルメートルの最後のミステリーだという。

誰しもに来る「老い」が、凄腕の殺し屋に訪れ、それが老害となって、死体の山ができていく話だが、ここまで振り切ってしまえば爽快(そうかい)でしかない。

主人公はマティルド。医師だった夫をとうに亡くして、リュドというダルメシアン犬と暮らす初老の女性だ。体重が往年の倍になっても、美貌の名残(なごり)がある。そんな彼女が、すれ違いざま男の股間にマグナム弾をぶち込んで物語は始まる。

マティルドは、かつて第二次世界大戦中、フランスでドイツ軍将校の暗殺を繰り返したレジスタンスの闘士で、1985年の今もなお、フランス政府の秘密組織の指令によって動く凄腕の暗殺者…だった。彼女に自覚のない認知症の症状が現れるまでは。

まずは仕事が終わったら川底に沈めるなり闇に葬るはずの「凶器」をキッチンの引き出しにため込む。ある実業家の殺害を請け負った際には、密かに暗殺するはずが、マグナム44でベッドごと吹き飛ばし大騒ぎになる。果ては、まったく関係のない人々を指令を受けたターゲットと勘違いして銃殺していく。

若い頃からお互い憎からず思い合っていた上司のアンリ。彼が、彼女の記憶や認知の異変に気づき、上層部に知られる前にどうにか制御しようと哀しい努力をするも、返り討ちにあってしまう。

一方、警察も必死で謎の連続殺人を追うが、見かけは可愛らしいが、冷酷さと殺しの技術を併せ持ったマティルドは捕まらない。唯一、刑事ヴァシリエフがマティルドに違和感を持つ。彼の養父はまた、かつてレジスタンスの首領ド・ラ・オスレ氏で、彼もまた認知症がすすんでいた…。

こうした関係者を巻き込んで、物語は情け容赦なく、衝撃のラストへとなだれ込んでいく。

ルメートルの作品世界はどれも凄惨(せいさん)だが、彼は「現実の人生では理不尽なことが次々起こるのに、なぜ小説家は手加減しなければならないのか」と言ってのける。本書は、不条理な死に満ちた戦争、あるいは戦争状態である世界の映し鏡でもあり、また、身近で誰しもに起こる理不尽な運命である死に結びつく「老い」を、意地悪でブラックなルメートル式諧謔(かいぎゃく)として炸裂(さくれつ)させている。

特筆すべきは、「認知症」当事者が、死を目前にして、生の(きら)めきを見せてくれたように描かれていることだ。それはまるで、女殺し屋の孤独や緊張の連続がもたらすもの、認知症を患っているマティルドが、心の奥底に抑え込んでやり残した、最後の希望を気兼ねなく発散させているかのようで、胸がすっとする。そういう意味では大人のファンタジーでもある。

いいね、ルノートル。

稲塚由美子(ミステリー評論家)

「ふぇみん」・2024年11月25日号・初出