クレア・キーガン 著
鴻巣友季子 訳
2,200円+税 早川書房
アイルランドが見て見ぬふりをしてきた闇を、ささやかな日々の暮らしのちょっとした「違和感」で描き出す心理サスペンスミステリー。英国ブッカー賞候補作である。
舞台はアイルランドの小さな町ニューロス。1985年、寒さが厳しい12月、石炭販売業のビル・ファーロングは、丘の上の女子修道院に配達に行く。厳重な鍵を空けてもらって奥の石炭小屋に向かう途中、礼拝堂の床を両手両膝を床につけて磨く若い娘たちを目にする。粗末な服を着せられ、酷使されていた。
彼女たちは修道院の運営する母子収容施設に送り込まれた者たち。未婚や婚外での妊娠女性、不純な異性関係を持ち「ふしだら」とみなされた女性が、カトリックの戒律に基いて収容されていた。修道院は「洗濯所」も経営し、そこもまた虐待がはびこる”強制収容所”だった。
クリスマスが迫るある日、石炭を運び込もうとしたビルは、石炭小屋に何日も閉じ込められ、排泄物にまみれた娘を発見する。修道院の院長に訴え出ても、院長は「かくれんぼしてたんだね」と問い、娘は「そうです」と答えるばかり。カーディガンの下で母乳が浸みだしてブラウスを汚していたというのに…。
2002年、日本で公開されたアイルランド・イギリス合作映画「マグダレンの祈り」で世界を震撼させたアイルランドの「マグダレン洗濯所」事件。本作はこの現実の事件を元にしている。カトリック教会の弱者虐待は世界中で暴露されているが、アイルランドでは、根深い男尊女卑のカトリック教会と腐敗政治が結託して、すべての罪を女性に押し付け、無報酬での過酷な労働の搾取が行われてきた。マグダレン洗濯所閉所は1996年。アイルランド政府の被害者たちへの公式謝罪が2013年。未だに十分な補償は行われていない。なお、洗濯所の跡地から758人分の遺骨が発見されている。
本作ではこの唾棄すべき事件を背景にしつつ、あくまでもその周りで暮らす一介の善良な庶民である主人公ビルの見た、感じた、迷ったことが、アイルランドの美しい自然描写と共に淡々と綴られる。文中、虐げられた女性の姿を垣間見てしまったビルが、悩んだ末に話した妻アイリーンはぴしゃりと言い放つ。「苦労知らずね。うまくやっていきたいなら、目をつむりなさい」と。
一方で、ビルの母も未婚の母だった。16歳で彼を出産するが、雇い主の未亡人は、世間の目を憚らず、彼を可愛がり、彼は周囲の愛情に包まれて成長したのだ。
声を聴いてくれる者もいない小さな存在を救うために、家庭や仕事や友人という自分の幸せを賭して一歩踏み出すべきなのか。主人公の葛藤は他人事ではない。ラスト、決然と選択をする主人公の姿に、人間の最良の部分と希望を見て心が温まる。
稲塚由美子(ミステリー評論家)
「ふぇみん」・2025年1月25日号・初出