『完璧な家族』/ 小学館文庫・巻末解説より掲載(アメリカ)

さて、ミステリーは時代の鏡である。ミステリーを執筆するにあたって、リサ・ガードナーは、現場を生きる人たちから取材し、しつこいほどに助言をあおぐのだという。リサーチャーの経験があり、物語を紡ぐにあたっては、入念にリサーチを怠らない。彼女の作品は、リアリティに(あふ)れ、臨場感が半端ではない。

本書もテーマのひとつとして、自分の人生がままならない親が、子どもを愛していると言いながら、アルコールに逃げてまだ小さな子どもたちのケアをしなくなる、いわゆるネグレクトの実態が描かれている。子どもたちが引き離される姿、預けられた里親の元での不十分なケア、さらに家族の再生を目指して過去を悔いる親が何度も裁判所に出頭して、たとえばアルコール中毒なら、しっかり更生できているかの厳しい審査などが克明に映し出されている。そこで翻弄される引き離された親子の微妙な心理も、目の動き、動作ひとつとっても非常にリアルだ。

「揺るぎない誰か」を求めるということが、人にとっていかに根源的で切実な欲求であることか。「信じられる大人はいったいどこにいるのだろう?」と子どもたちは声に出さずに繰り返す。もはや信じられる家庭も社会も、何にもなくなってしまった。もはや愛と責任の揺りかごとしては解体した、形ばかりの「鈍い」家族。だが、子どもにとって大人になる、あるいは自立するために「安心の場」が必要、つまり「隣る人」=受け止め手がそばにいないとならない。子どもとは、ただでさえ不安を抱える寄る辺なき状態にあるのだから。「どんなあなたも好き」。そう思ってくれる人が隣にいること。子どもにはそれだけでいい。けれど「それだけ」が非常に困難になっているのが今の家族。なんでもない時間を共有し、ひたすら存在を受けとめること。子どもとは、こんなにも愛情を必要としている生き物なんだと、切なくたじろぐようなものなのだ。

親も追い詰められて手いっぱいで、子どもの目線に立つことができない。だから子どもにしわ寄せがくる。また親も辛い人生を送っていることまで感じ取り、誰にも相談できない子どもの悲痛な独白が胸を打つ。家庭内不穏のあおりは、もろに子どもという弱者が受けるのだ、とまた思い知らされる。

ただ一人、生き馬の目を抜くようなマザー・デルの家で、マイク・ディヴィスだけは、ロクシーの味方で親友だった。発達障害のあるらしい彼もまたイジメの被害者だった。二人で話す時だけが安心していられたのだ。子どもたちは何度も裏切られる。それでも希望を持つ。新しい家族の形を模索して必死に手を伸ばした、その孤独な魂に胸が震える。マイクは、その意味で、(やみ)に怯え、孤独で弱々しく、しかし高貴な感性を持つ子ども。人間本来の魂の原形として存在する。

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