紫金陳(ズージーチェン) 著
大久保洋子 訳
1,232円(税込) ハヤカワ文庫
華文ミステリーの隆盛が止まらない。
本書は、数学者の厳良を探偵役とする〈推理之王〉シリーズ三部作最終話である。作者・紫金陳は、中国の東野圭吾と呼ばれているという。
前作『悪童たち』では、危うい思春期の少年たちの冒険に心躍らされたが、今回は、今の中国、しかも現政治体制の暗部に踏み込む生々しい社会派サスペンスミステリーだ。
2013年、江市地下鉄の駅で男が爆弾騒ぎを起こして物語は始まる。持ち込んだスーツケースの中身は、爆弾ではなく男性の全裸死体だった。
警察に取り押さえられた男の正体は、有名な刑事弁護士・張超で、遺体は彼の教え子で前科のある元検察官・江陽。容疑者・張超は、二人の間に金銭トラブルがあって殺したとあっさり自供した。だが、起訴後の法廷で一転、初めて鉄壁のアリバイを披露し、「無罪」を主張するのだった。
なぜ法廷で急に無罪を主張した? 案の定、マスメディアもネットもこぞって「自白強要があったのではないか」と書き立て、人々も警察を疑い始めた。前代未聞の事態に、江市警察署刑事課長趙鉄民は、数学者の厳良先生に協力を仰ぎ、特別捜査班を結成しての必死の再捜査が始まった。
最初は、あくまで張超を容疑者とみて「アリバイ崩し」に固執する警察だったが、容疑者・張超から「死んだ江陽の身辺調査から始めよ」と伝えられた厳良先生に促され、江良の遺品を調査する。ある冊子の中から「候貴平」の身分証コピーが発見された。彼は江陽の同級生で、容疑者・張超の教え子だ。候貴平の消息を追って辿りついた12年前の事件とは? 今の事件とどう関連するのか?
2001年、教育ボランティアで山地の貧しい村の小学校にやって来た大学生の候貴平が、小学生を襲う性暴力に気づき、彼らを守ろうとしたその矢先、逆に親のいない女の子に性的虐待をしたと訴えられ、あげく溺死体で発見され、自殺と処理されていた。
弱者を食い物にし、暴虐の限りを尽くす権力者たちと、それに忖度し、媚びる司法、警察機構、民間企業。そしてそれに異を唱える者たちが負け続けていく虚しさが何度も描かれ、それがリアルで辛い。だが物語は、たとえ何年かかっても、一度は挫折した正義を逆襲に転じさせて終わり、勇気が湧いてくる。
数学者・厳良と特別捜査班たちの捜査の末の謎解きの面白さはもちろん、本書の醍醐味は、「権力者の腐敗を暴く」をミステリーで描く作者・紫金陳の構想力。それにしても、メディアに目を光らせている中国共産党の検閲をかいくぐってである。凄い。
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本作のラスト一文は、「2014年7月29日、巨魁が墜ちた。」で終わる。
この日付が気になって調べたら、この日は中国党執行部の第9位の地位にあった政府高官・周永康の失脚した日。『検察官の遺言』は、周永康事件に繋がる様々な悪事がモチーフになっている。
周永康は、公と民の癒着と腐敗、企業が権力者に女性を貢物として捧げるなどしていたなどの罪状で失脚した。もちろん、習近平政権の政敵一掃との見方もあるが、それにしても、それ以前には、政治運動以外で政府高官が逮捕された例はないという。
特筆したいのは、周永康をトップとすると、それに群がる手下、例えば金庫番と汚れ役だった劉漢。殺人容疑も含めて死刑判決が下されたのだが、法廷で「私は貴人(おえらがた)のために仕事をしてきただけだ」と泣き叫んで、その姿は動画配信までされた。
本作のラストには、事件関係者が多く自殺や病死を遂げていると書かれているが、実際の周永漢事件でも、公安幹部や秘書の身内などが自殺や病死を遂げていて、口封じではないかと言われている。
筆者は、8月に中国に行くつもりだが、ビザを申請するのに、作家やジャーナリストはビザがおりにくいか理由を知らされずビザがおりない、と助言された。天安門広場の監視カメラの多さは今どうなっているだろうか。この目で確かめてきたいのだが、果たしてビザはおりるだろうか。
稲塚由美子(ミステリー評論家)
「we」2024年8・9月・251号・初出